カテゴリ:山口素堂資料室
(前文略) いや見せじ富士を見た目にひへの雪 季吟 世上は霜枯こや都草 信章 季吟は 「白雪を戴く富士山を見たあなたには、ここ京都から見える比叡山の雪などお目にかけることはなどできないでしょう」 と言って、信章にあいさつをし、信章は 「あたり一帯は霜枯れの寂しい景色ですが、都にはあの特有な都草が見られますよ」 とあいさつを返している。 宗因と素堂については次のように記されている。 延宝三年五月には、新しい談林俳諧の主唱者である西山宗囚が江戸に下った。素堂は桃青(後の芭蕉)・幽山らと共に宗因を迎えて百韻を興行した。桃青も幽山も、新傾向の俳論に新出発を期しており、素堂も、また、強い関心をそそられた。素堂はこの時、初めて芭蕉と出会ったのである。 が、二人の交友は芭蕉の没するまで続いた。 梅の風俳諮国に盛んなり 信章(素堂) こちとうづれもこの時の春 桃青(芭蕉) 右の句は、延宝四年二月に興行し、天満宮に奉納した『奉納二百韻』の発句と脇句である。 梅の風は、梅の花が春風に薫ることと梅翁(宗因の別号)を表し、一句で宗因の俳風が俳壇に流行している様を称えている。脇句は宗因の俳風に共鳴する自分達の満足感を力強く端的に述べる。 翌五年の冬から六年の春にかけても、京都の伊藤信徳を江戸に迎え、桃青と共に三吟三百韻を興行し、『江戸三吟』として出版した。 この年出版された『『江戸八百韻』(幽山編)は江戸の新傾向の俳人八人で興行したものだが、信章は来雪と改号して参加しており、早くも談林風に満足せず、より新しき俳風の第一声を挙げたものとして俳諧史の上から注目されている。 また長崎旅行の目的については、 延宝六年夏から翌七年の暮春にかけて、長崎旅行をし、唐津で新春を迎えた。長崎では、。 入船やいなさそよぎて秋の風 (『俳枕』) と吟じ、港に入って来る船を眺めながら、東南から吹く風が草木の葉をそよがせているのに、秋の風が吹く時となったと、あわれを感じている。一体、この旅の目的は何であったのだろう、素堂は何も書残していない。何か身辺に重大な事があったろうと想像するだけで、皆目見当を付けることができない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月09日 13時54分01秒
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