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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月11日
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カテゴリ:古代史料

甲斐古代年表 雄略13年(469)~天平3年(731)

 

《註》参考資料、山梨県史他

…詳細は『国書』・『山梨県史』・『各市町村誌』の各編を参照…

●雄略13年(469)9月【『日本書記』】

…木工猪名部眞根の死罪を赦す勅使が甲斐の黒駒に騎り馳せて刑場に至り眞根の命を助ける。…ぬばたまの甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒…

●推古6年(598)4月【『扶桑略記』】

…聖徳太子が良馬を求めて、甲斐烏駒を得る。

…太子命左右、求善馬竝符諸国令貢、甲斐国貢、烏駒数百匹太子

指此馬曰是神馬也、令舎人調使麿飼養。云々

●推古6年(598)9月【『一代要記』】

…太子試験馭甲斐烏駒浮雲東去。云々  

【『見聞集』】…烏駒は足は四本白であった。此馬は甲斐の穂坂産。    

【『節用集』】(零写本)…烏駒(クロゴマ)聖徳太子の御馬也。甲斐国より出。

【『塵袋』】

…黒駒と云ふは聖徳太子の御馬甲斐の黒駒の外はなき歟、黒き馬をは黒駒と云はむか、なき歟如何。名物に混乱すれは、くろきこまなれと、くろこまとは云はす。但しかひのくろこまと云ふ事は太子の御馬ならねとも、昔もありけり。

…雄略天皇の御宇十三年秋九月猪名部、云々(参考-日本書紀、雄略十三年の項)

【『今昔物語集』】

…亦、太子、甲斐の国より奉れるき小馬の四の足白き有り、其れに乗て、空に昇て雲に入て東を指て去給ぬ。〔調〕使丸と云ふ者、御馬の右に副て同く昇ぬ。諸の人、是を見て、空を仰て見て (ののし)る事尤限し 太子、信濃の国に至給て、神輿の境を廻て三日を経て還給へり。

【『三宝絵詞』】

…聖徳太子とその妃は、同日死去した。その日、太子の黒駒は草水を口にせず、太子の墓まで行って一度いななき、倒れ死んだ。また、太子がかって衡山より持って来た経も、その日消え失せた。

【『源氏物語』】「黒駒」

…さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御送りにとて、黒駒たてまつりたまふ。

《筆註》 

…奈良県生駒郡斑鳩町東福寺には聖徳太子の愛馬「甲斐の黒駒」の駒塚古墳があり、飛鳥の橘寺には黒駒の像がある。

 

○考徳1年(645)8月5日【『日本書記』】

…東国国司の発遣

…国造と郡領とだけは従わせてよい。公用でゆききするときに限り、管内の飯を食べることができる。

○天武1年(672)6月24日【『日本書記』】「駒関連記事」

…この日、天皇は出発して、東国にお入りになった。急なことで乗物もなく、徒歩でお出かけになったが、程なく犬養連大伴の乗馬に出会ったので、これにお乗りなった。皇后は輿に乗せてお従わせになった。津振川に着く頃、やっと天皇の乗馬が追 いついたので、これにお乗りなった。(略)大伴連馬来田(略)追いついた。(略)屯田司の舎人、土師連馬手が天皇の従者の食事を奉った。湯沐の米を運ぶ伊勢国の馬五十匹と莵田郡家の前で出会ったので、米を捨てさせ、徒歩の者をそれに乗らせた。云々

○天武1年(672)6月24日【『日本書記』】

…大海人皇子 東国に入る。

○天武1年(672)7月2日【『日本書記』】「甲斐の勇者関連」

…紀臣阿閑麻呂らに数万の兵を率いさせ、伊勢の大山より倭に向かわせる。

○天武1年(672)7月4日【『日本書記』】

…甲斐の勇者

…近江方に破れた吹負は、僅か一人二人の騎馬兵を連れて遁走す。吹負は散り散りになった兵士を召集した。(略)来目という名の勇士があり、刀を抜いて馬を駆り、まっしぐらに、敵陣に突入した。騎兵がすぎこれに続き、遁走する近江の軍を追って、多くの兵士を斬った。一方この日、三輪君高市麻呂と置始連菟とは三本の道路のうち上道の守りにあたり、箸陵のほとりで戦って近江軍を大破し、勝ちに乗じて鯨の軍の背後を切断した。このため鯨の軍は散り散りとなって逃走しし、多くの部下が殺された。鯨は白馬(あをうま)に乗って逃げたが、馬が泥田に落ち込み動けなくなった。

これを見た将軍吹負は甲斐の勇者に、「あの白馬に乗っているのは廬井鯨だ。急いで追って射よ」と命じた。甲斐の勇者は、馬を馳せて鯨を追ったが、今にも鯨に追いつこうとしたとき、鯨が激しく馬に鞭をあてたので、馬は泥から抜け出し、駆けて免れることができた。

 

〔甲斐国司 ~延暦21年(802)〕《御牧関係は別述》

☆持統天皇、在位(690~697)☆文武天皇、在位(697~707)

○和銅4年(711)~霊亀(716)

 【『山梨県考古学論集』】村石眞澄氏著

…所載記事

 「甲斐の馬生産の起源」…塩部遺跡SY3・SY4方形周溝墓出土のウマ歯から‥(略)8世紀前半の資料としては長屋王邸跡から出土した木簡群の中に、甲斐と馬の関係を物語るきわめて重要な木簡6点が存在し(原2002山梨県2001)その中の1点には次のように記されている。

表…御馬使信濃-□甲斐-上野二口右

裏…四米四升五月二日「受板部…黒万呂」

 原正人(1995)によれば、「馬司」は長屋王邸に属する家政機関の一つで、邸内の厩舎で馬の飼育を任務としたとされる。馬司には甲斐・信濃・上野などの出身の専門職員が複数人おり、木簡はいずれも一人あたり一升の米を請求し、支給を受けた際の帳簿として使用されたものらしい。長屋王邸跡出土の紀年木簡の年代幅は、711~716年に限定されるという知見から、この時期に甲斐など三国にはすでに御牧の前身にあたるような牧が存在し、良馬の生産として知られていたため、朝廷や有力貴族のもとで、その専門技術を生かして馬の飼育に従事していた専門職員が存在していたと推定している。

《参考》奈良文化財研究所の「木簡データベース」によれば、甲斐関係の木簡として次の物を挙げている。

Ø  形式番号…039(平城宮1-14)

…□「甲斐国」山梨郡

Ø  形式番号…031(木研1-56頁)

…「甲斐国」山梨郡雑役胡桃子-

天平寶宇六年十月(762)

Ø  形式番号…031(平城宮1-20)

…「甲斐」山梨郡雑役胡桃子-

天平寶宇六年十月(762)

Ø  形式番号…6039(飛5)

…大井里人

Ø  形式番号…081(木研10-91頁)

…依私改度不破関往本土甲斐国戸人麻呂=

Ø  形式番号…081(平城宮4-4199)

…泉伊勢参河近江甲斐下総常陸

【「」小野朝臣人公】 

Ø  形式番号…019(木研9-118頁)

…甲斐国山梨郡加美郷丈部宇万呂六百

天平寶宇八年十月(764)

Ø  形式番号…011(城21-21上)

表 御馬司信濃 口甲斐 口上野二口右

裏 四米四升五月二日「受板部黒万呂 」

Ø  形式番号…081(平城宮2-1916)

表 馬司帳内甲斐常石 廣末呂 右四人米

裏 受赤人十一月九日 稲虫書吏

Ø  形式番号…081(平城宮1-295)

表 馬司甲斐二人*上*野四人六人

裏 米一斗二升十月十二日「大島」

 

形式番号…019(平城宮2-1917)

表 馬司帳内甲斐四口米四升

裏 受勝麻呂十月廿四日石嶋書吏

 

形式番号…6011(平城宮1-297)

表…馬司上野二口甲斐四口

……右六口米六升受

裏…「馬馬郡馬馬馬分…右京馬…」(全体に重書)

 

形式番号…081(城31-27上)

甲斐国山梨郡

 

形式番号…091(城33-22上)

国都

 

形式番号…091(城33-22上)

国都

 

形式番号…011(長岡京2-783)

大乃年料米五斗

 

形式番号…019(長岡京2-784)

大乃

 

形式番号…033(城24-31上

大野郷小田村里舎人部石足

 

形式番号…031(城31-32上)

加美里物部色布知簀一枚

 

形式番号…091(長岡京2-785)

大乃

 

形式番号…030(城34-10下)

茂郷五斗

 

形式番号…6091(平城宮5-6703)

甲斐

 

形式番号…6091(平城宮5-6704)

甲斐

 

形式番号…011(木研22-35頁-2)

大乃白米

 

形式番号…032(白37-26下)

大井里委文部鳥〈〉米五升

 

◎ 平城京出土木簡

…………………………甲斐国…………………

依私故度不破関往本土…………人□万呂□□

…………………………戸□□…………………

 

○和銅7年(714)11月11日【『続日本記』】

騎兵…新羅使節を迎える為に、機内七道から騎兵九百八十騎を徴収。

 

☆元正天皇、在位(715~724)

   

○霊亀1年(716)5月16日【『続日本記』】

高麗人…甲斐国など七カ国の高麗人を武蔵国に移して高麗国を置く。(1799人)

 

○霊亀1年(716)この頃か。【『長屋王邸木簡』】

甲斐舎人…甲斐国出身の舎人が、平城京の長屋王邸の馬司に出仕し、食米を受け取る。

  

○養老2年(718)【『万葉集』】

富士山噴火…高橋連虫麿の歌…もゆる火を雪もて消ち(以下省略)

 

○養老3年(719)7月13日【『続日本記』】

按察使…按察使を設置。駿河・伊豆・甲斐は大伴宿禰に管掌させた。

 

○養老5年(721)1月1日【『続日本記』】

甲斐献上…甲斐国が白狐を献上する。  

 

☆聖武天皇  在位(724~749)

 

神亀1年(724)4月14日【『続日本記』】

騎兵、坂東の九カ国の兵士三万人に乗馬、射術をさせ、布陣の仕方を訓練させた。

  

○天平3年(731)12月2日【『続日本記』】

甲斐…甲斐国が神馬を献上した。体は黒でたてがみと尾が白かった。

 

○天平3年(731)12月21日【『続日本記』】

甲斐国主…田辺広足

★詔★   

…朕は君主として全国に臨み、すべての人々をはぐくみ、日が傾くまで食事をとることも忘れ、夜は寝るのに床をのべるのを忘れるほどである。ここに治部卿で従四位上の門部王らが奏上していうのに「甲斐国守で外従五位下の田辺史広足らが進上した陣馬は、体は黒色で白いたてがみと尾があります。謹んで符瑞図を調べてみると『神馬は河の精である』とあり、また援神契(孝経)には『徳が山や岡の高きに達する時、神馬が現れる』とあります。これはまことに大瑞というべきです」と。しかしこれは朕の徳によるものではない。祖先や国の守り神の賜ったものである。不徳の朕がどうして一人でこれを受けるべきであろうか。天下の人々と共に悦べば、天意にかなうであろう。そこで天下に大赦して、孝子・順孫・高齢者・男女のやもめ・みなし子・独居の老人で自活のできない者に恵みを与えよう。馬を獲た人には位を三階昇進させ、甲斐国の今年の庸と調を免ずる。甲斐国の国司および史生以上の者と、瑞を獲た者に、地位に応じて物を賜った。 

《筆註》

…甲斐から献上された神馬(じんめ)は当時の吉祥の一つとして進上された。甲斐国以外にも進上した国があり、それは年譜の中に掲載してある。また新羅国からの献上された貢ぎ物の中に馬も見える。






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最終更新日  2021年06月11日 06時51分50秒
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