カテゴリ:山口素堂資料室
山口素堂 曠野集俳文 川嶋つゆ『芭蕉七部集』「俳句観賞」
目には青葉 山ほとゝぎす 初鰹
初がつを、夏のはじめに相州もゝの一早く江戸に出るのをいふ。 季節ものゝ取合せに過ぎぬが、盛られた内容が溌剌として相映発してゐる。殊に「目には青葉」と上五の字余りのために調子が張って、おのづから、「耳にはほとゝぎす」舌には「初がっを」、といふ活々とし初夏の風物を浮立たせてゐる。 昔の人はこれを三段切れの名句などとも称した。 句形は『大井川藤枝 延宝三年版』所載、宗鑑の作 「目には花 手にや椀 腰に錢」 などに彷彿としてゐる。また万葉集第十 さつき山うのはな月夜ほとゝぎす 聞けども飽かすまた鳴かぬかも
さつ今出はなたちばなにほとゝぎす 隠らふときに逢へるきみかも
などが影響してゐるかとも思われる。
付記 言水の『江戸新道』には、この句に「鎌倉にて」と前書がある。
山口素堂 曠野集員外 川嶋つゆ『芭蕉七部集』「俳句観賞」
誰か華をおもにざらむ。たれか市中にありて朝のけしきを見む。我、東四明の麓に有て花のこゝろはこれを心とす。よつて、佐川田喜六のよしの山あさなあさなといへる歌を實にかんず。叉 麥喰し雁と思へどわかれ哉 此句、尾陽の野水子の作とて芭蕉翁の傳へしをなをざりに聞しに、 さいつ比田野へ居をうつして實に此句を感ず。 むかしあまた有ける人の中に虎の物語せしに、 とらに追はれたる人ありて、独り色を變じたるよし、 試のおほふべからざる事左のごとし。 猿を聞きて實に下る三聲のなみだといへるも、 實の字老杜のこゝろたるをや。 猶、雁の句をしたひて
麥わすれ華におぼれぬ雁ならし
以下、曠野集員外である. ..
前書は、素堂の手紙の文句をそのまゝ取り入れるもので、手紙の中の句を立句として、歌仙一巻を巻いたのである。この句のあとに 「この文、人の事づかりてとどけられしを三人聞き幾度も吟じて」 とあって、 「手をさしかざす峰のかげろふ」 と野水が言をしてゐる。この體を脇越しと称して、追善の場合などには、故人の句を立句としてこの形式に依るのである。 東四明、東叡山即ち江戸上野のこと。・天臺叡山の四明嶽に擬した名である。佐川田喜六、永井直勝の家臣で、その作に、その作に 『よしの山花さくころの朝な朝な心にかゝる峰の白雪』とある。 虎の物語云々、小學致知類に見えてゐる. 猿を聞て實に下る三聲のなみだ、杜甫秋一興の詩の一句である.雁ならし、雁なるらしの意味。 前言は長いが、これは野水の句に倣ったもであって、さんざんに喰ひあらした麦の事をも忘れ、現在咲いている花にも愛着することなく、さっさと帰りゆく雁であることよ、と云ったまでゝある。諸事に拘泥することを潔しとせぬ隠者風の感懐である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月11日 08時18分35秒
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