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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月12日
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カテゴリ:山口素堂資料室

素堂と濁川開鑿(かいさく)

 

   清水茂夫氏著 

一部加筆 山口素堂資料室

 

 山口素堂が元禄九年甲斐の濁川の治水工事に従事したことは、既に諸書で紹介されている。荻野清氏は「山口素堂の研究」(昭和四年十二月)の中で彼(素堂)は後にもいふ如く元禄九年甲斐濁何の治水に、代官桜井孫兵衛政能の懇請によって助力したのであるが、当時の事を誌して『甲斐国志』には『素堂ハ薙髪ノママ挾双刀再ビ称山口官兵衛』といってをり、馬場錦江の稿本『蕉素二翁提盟』の中にも同様の趣を述べてある……この治水が元禄九年(1696)三月二十八日に起工され、五月十六日に竣工を見た旨を「一古老の手記、元禄九年の条に曰」として記してある『山梨県水害史』の説を挙げるにとどめて置く。

と記していて、それ以後の管見に入った素堂の伝記には、この程度の記述しかなされていない。荻野氏の主としてよっている「甲斐国志」は、松平伊予守定能が編纂したものである。享和三年(1803)に甲府勤番支配であった滝川利雍が甲斐国志の編纂を富田富五郎に命じ資料の採訪を始めたが、文化二年(1805)八月三日甲府城大手勤番支配となった松平定能が、その志を継承し、文化三年に内藤清右衛門・松永弾正左衛門・森島其進・広沢勇八らに計画を立てさせ、村々や寺社などから書き上げを提出させて、九か年の日月をかけ編集したものである。内容も極めて精確で、諸説も要すれば合わせ掲げる程で、信頼し得る記述である。しかしながらその完成は濁川開鑿の実施された元禄九年(1696)から百十九年を経過した文化十一年(1814)十一月で、工事の実施からは相当な月日が経過している。それ故まず古記録によって濁川工事の実態を明らかにし、更にこの工事に尽力した素堂の姿勢をも考察してみようと思う。

 

 一 濁川

 

濁川というのは、高倉川・藤川・立沼川・深町川等が甲府市城屋町の南、板垣との境で相会しているが、ここに水門があって、それから下流を古くは呼んでいた名称である。川は東南に湾曲しながら流れ、酒折堺から里吉・国玉の間を南に向かい、蓬沢を経で増坪の北方横手堤に至って東流し、西高橋の南で笛吹川の支流である平等川に合流していた。元禄の頃は現在と違って平等川が笛吹川の本流をなし、水量も豊富であった。ところがその平等川が土砂の堆積のため河床が上がり、濁川の川尻が閉塞されて排水されず、少し増水すると氾濫して水害を受ける村が九か村にも及んだのが元禄の頃であった。特に甚だしかったのは蓬沢と西高橋で、蓬沢出の小野家蔵古文書には当時の状況をうかがうに足る資料が多く、それによれば水害は既に延宝年間に始まっていた。例えば延宝三年正月西高橋・蓬沢河村名主・長百姓連名の訴訟文は、平等川氾濫の難面を述べ、水ぬき普請の実施、拝借米の許可を陳情し、この水ぬき工事のため迷惑を蒙るはずの東油川村住民の同意までも書き添えている。また元禄二年八月には、右二村の外七沢以下七村を加えて、「水所九ケ村水ぬき御普請奉願御訴訟」が出されている。河村の民家は軒まで水につかり、畔村分の堤防が決壊したことによりわずかに流失をまぬがれたことを述べ、水ぬき普請の実施を陳情し、利害関係のある東油川村村民の同意を得ている旨をも詳細に書き添え、被害は西高橋・蓬沢以外の七村にも及ぶに至ったことを訴えている。

 

 被害地の疲弊の状況は、天和二年(1682)正月に出された「中郡筋蓬沢村御川除御役儀御赦免奉願候御事」と題する訴訟文に如実に述べられている。延宝三年以来の請願にもかかわらず、工事は実施されず、天和元年(1681)の水害には被害面積が全耕作面積の八十八,七%にも及び、住民の疲弊は重なり、転出者は多く、最も必要であるはずの川除工事にさえ、人夫や資材の負担に耐えられないことを訴えているのである。被害の高まった元禄七・八年の情況を小野家蔵の日記に見ると、

 

元禄七年は五月から八月にかけて氾濫四度、八年には七・八月に六度記されている。特に七年八月二日の大水は六日にやっと引いたかと思うと九日朝には再び出水、十三日まで屋敷のうち水引かず、九月四日には三たび出水、十三日に引いたかと思うと十四日に又々出水、麦の仕付けも出来ず、一面に氷が張る有様であった。

延宝三年(1675)から元禄九年まで二十二年間、九か村にも及ぶに至った水害が、度重なる請願にもかかわらず除去されなかった原因は、河東領である東油川村に水路を開かねばならないということもあったが、それよりも当時の為政者の無能によるものであった。

 

  二 桜井政能と素堂

 

 元禄七年代官触頭であった桜井政能が、この地に至った時、住民は涕泣して窮状を訴え、治水の対策を懇願したのであった。政能は住民の患いを坐視するに忍びず、早速老臣を動かし国君綱豊の許可を得るために懸命の努力をしたのである。【註 甲斐国志】代官触頭は郡代とも呼ばれ、平代官よりは上位であったが、開鑿事業を担当する川除奉行があり、そのうえ甲府城城代・定番があったので、それらの人々の意見も国君を動かすためには統一する必要があった。代官が国君綱豊の許可を得ることは、相当に困難なことであったが、政能はそれを敢行し成功したのである。

 桜井致能を理解するために、その家系を調べると、当時桜井五家と呼ばれ、代々将軍家に仕えていた。もと墓は小石川金富町金剛寺にあったが、金剛寺の過去帳から必要部分を摘記すると次のようである。

 

光政-政茂―政良 

     ―定政―政能-政相

     ―政在

 

『寛政重修諸家譜』によれば、政良については

「畿内および近江国に赴き洪水にそこなひたるところの地を巡見す。」とあり、甲斐国志にも

「有野村(山梨県白根町)水防ノ事ヲ勘定所へ書上シ案文アリ。」

とあるし、政蕃も溝奉行を勤めている。諸家譜の政能の項は次の通りである。

 

 政能(孫兵衛) 

 

母は須藤氏の女。桜田の館において清揚院殿につかへ、代官をつとむ。宝永元年文昭院殿西城にいらせたまふのち御家人に列し、廩米二百俵をたまひ御代官となる。

享保十一年九月十一日老を告て職を辞し小普請となる。此の時黄金二枚をたまふ。

十六年正月十四日死す。年八十三。法名道就。小日向の金剛寺に葬る。のち代々葬地とす。妻は長岡氏の女。後妻は松平越後守家臣荻原五左衛門某が女。

 

 政能が代官として甲斐に居ったのは、元禄七年から同十四年までの八年間であった。また死して葬られたのは小日向(金富町)の金剛寺であるが、明治になって中野区上高田の金剛寺に移葬され、現在同寺に残されている墓石には「霊照院殿切山道就居士鷲覐位」と刻まれ、側面に俗名桜井孫兵衛尉政能と彫られている。

 ところで素堂が政能の手代となって濁川工事を指揮するに至った機縁を尋ねると、甲斐国志では、元禄八年素堂が甲斐に帰り政能に面会したのによると記している。

 それを証拠づける資料としては、素堂家集に収められている「甲山紀(記)行」を挙げることが出来る。「甲山記行」によると素堂は元禄八年八月十一日庵を出て甲斐に至り、九月八日葛飾の庵に帰着している。

 

それの年秋甲斐の山ぶみをおもひたちける。そのゆゑは予が母君いまそかりけるころ身妖詣の願ありつれど道のほどおぼつかなうて、ともなはざりしくやしさのまま、その志をつがんためまた亡妻のふるさとなればさすがになつかしくて葉月十日あまりひとつ日かつしかの草庵を出。

 

とあるように、素堂は身延参詣と墓参とを目的として甲斐を訪れたのである。ところでこの「甲山紀行」は俳句・短歌・詩をあげ、その詞書を綴るといった程度に日時や場所が記されているに過ぎない。

そのためであろうか桜井政能との面会も濁川についての記述もいささかもなされていない。一方「甲斐国志」には

 

元禄八乙亥素堂年五十四帰郷シテ拝父母墓且謁桜井政能。

政能見素堂喜ビ抑留シテ語及濁河事丿歎息シテ云、

濁河ハ府下汚流ノ所聚、

頻年笛吹河瀬高ニナリ下水道ノ雍ガル故ヲ以テ

濁河ノ水山梨中郡ニ混浴シテ不行。

被水禍者十村、

就中蓬沢西高橋二村最モ卑地ニシテ田畑多ク沼淵トナリ、

雨降レバ釣釜床、田苗腐敗シテ収稼毎二十之二三ニ不及。

前ニ没居者数十戸既ニ新善光寺ノ山下ニ移レリ。

余民今猶堪ヘザラソトス。

政能屡々之ヲ上ニ聞スレドモ未ダ聴カレズ。

夫為郡観民意乃救レ之コト不能ヤ吾弁テ去ラソト欲ス。

然レドモー謁閣下自陳事由決可否ベシ。

望ミ請フ、足下姑ク此絆サレテ補助アランコトヲ。

 

素堂答テ云、人者コレ天地ノ役物ナリ。観可則進ム。素ヨリ其分ノミ。況ヤ復父母ノ国ナリ。友人桃青(芭蕉)モ前ニ小石川水道ノ為メニ尽力セシ事アリキ。僕謹テ承諾セリ。令公宜旃ト云々

 

と述べられている。素堂が身延詣でをすませ甲府に帰ったのが八月二十三日、江戸葛飾に帰ったのが九月八日であるから、その間に政能との劇的な対面がなされたのであろうか。否定すべき資料もないのでこの事実を一応認めて記述を進めよう。

 

「甲斐国志」は素堂と致能との関係について、かつて素堂が政能の属僚であったと述べている。すなわち

 

甲府殿ノ御代官桜井政能ト云者能ク其(素堂)能ヲ知り頻リニ招キテ為僚属。居ルコト数年致仕シテ寓東叡山下専ラ以儒售ル。

 

とある。政能は慶安二年の生まれであるから、素堂が江戸に出たと推定される二十歳のころ、寛文元年にはまだ十三歳であった。『寛政重修諸家譜』に記すごとく綱重に仕えて代官となったとしても延宝年間に入ってからであろう。素堂は延宝二年十一月には上洛しているが、おほよそ江戸に居たと考えられるから、素堂が属僚として政能に仕えたとすると、それは甲斐においてではなく江戸においてであったであろう。

 

また素堂が東叡山下上野不忍池畔に退隠しだのは、荻野氏も説かれたように延宝七年であろうと推定される。

延宝八年板の「江戸弁慶」(言水編)や「向之岡」(不ト編)に

  宿の春何もなきこそなにもあれ      (江戸弁慶)

  亦中上野の秋に水無瀬川         (向之岡)

などの句が見えるところから、延宝七年暮春に長崎への旅から帰って程なく致仕したと思われる。

延宝六年九月十四日には政能の仕えていた甲府宰相綱重が歿したが、この頃素堂は長崎への旅にあり、政能は主君の死に遭遇したのである。あるいは綱重の死が長崎から江戸に帰った素堂が致仕する機縁となったでもあろうか。

ところで、「甲斐国志」によれば、素堂の同意を得た政能は国君綱豊の許可を得るため江戸に赴くに当たり、村民に対して生命も地位も一切を懸けて苦難から救済せんとする決意を披歴したのであったが、幸いにも開墾の許可は与えられ、工事実施の運びとなったのである。

 

工事の記録としては蓬澤出の小野家蔵古文書が最も詳細である。

 

元禄八年四月三十日、桜井孫兵衛・遠藤治郎左衛門の掘瀬検分。

同九年三月廿八日、蓬沢村への水抜仰付、

同四月一日、十四か村への水抜仰付、

同二日、川除奉行の検分並びに杭打、

同九日に着工、

関係村の出人足と請負とによって工事は進められ、堀瀬は五月十六日八ツ時に掘り落とされた。

「右の棚瀬五月十六日入ツ時分に堀落し申候へば、川瀬早川杯の様に水脚早く落申候。其夜の内に村の内水落ち申候。野田の儀は二十日の昼時分野良中水落申候。」

 

という記述には、宿命ともいうべき劫苦をのがれた村民の喜びがにじみ出ている。延長三千二百三十間、延べ人足一万三千五百三十四人、総工費二百二十二両分という大工事であった。

「甲斐国志」によれば、素堂は薙髪のまま双刀を挾み再び山口官兵衛と称して、夙夜に役夫を督励したが、事業の完成とともに再び葛飾における隠者生活に入ったのである。

 

三 結 び

 濁川工事は大成功であった。村民の感謝は極めて深かった。宝永二年蓬沢(酉高橋にも)の諸職明細帳には、

「桜井孫兵斯様御慈悲万代に奉唱度、庄塚に御小社を立て酉高橋と当村にて二月十四日、九月十四日水難除御祈祷仕候。」

と記されている。宝永二年は政能の存命中であるから、政能は水難除けの生祠として祭られたのであった。

また元文三年(一七三八)七月斎藤正辰が勘定方として毛見のため甲斐に来り、祠の傍に「地鎮銘」を建てたが、それは優れた代官としての政能の事績を簡明に語っている。銘文中に「政能之死久而両村之民愈不能忘乃泰政能為地鎮建祠毎年祀之。」とあるのは銘文からすると死後祭られたようであるが、そうではなく、前記蓬沢村の諸色明細帳のように、生前から祠が建てられ祭られていたのである。

素堂については明細帳も地鎮銘も少しも触れていない。何故であろうか。前者は名主が代官に差し出したものであり、後者は政能の縁故者がその徳を後世に伝えようとして建立したものであるからであろう。

 

「甲斐国志」巻之四十三古蹟部第六「庄塚碑」の項に

 

桜田殿ノ御代官桜井孫兵新政能興功救民恵濁河ヲ浚ヒ剰水ヲ導キ去ラシム。蓋シ大績ナリト云。手代山口勘兵衛補助其事頗有勉。以故二村ノ民喜而利之、終ニ生祠ヲ塚上ニ建テ桜井霊神ト称シ正月十四日忌日ナレドモ今二月十四日ニ祀之。側ニ山口霊神ト称スル石塔モアリ。後ニ斎藤六左衛門正辰者作地鎮銘以勒石祠前ニ樹ツ。

 

と記されている。「甲斐国志」が村々の詳細な書き上げを検討して記録しているところからすれば、濁川工事後百十九年を経ている記事ではあるが、祭られた政能や素堂の記憶は村人の伝承の中に生き生きとしており、これが書き上げとなり、[甲斐国志]に定着したと考えてよいであろう。この記述以外に甲斐国志刊行の文化十一年以前の、素堂が濁刑工事に従事した記録は、目下発見されていない。

黒露編の素堂五十回忌集「摩詞十五夜」は明和二年(1765)に刊行され、また三世素堂襲号記念集である「連俳睦百韻」は安永八年(1779)に刊行されたが、両書とも全く触れていない。

ただ「摩詞十五夜」で「又算術にあく迄長じ玉ひけるも隠者にはをかし。」と述べているのは、素堂の土木事業など実務的才能の並々でないことを証することになり、開鑿工事に従事したとしても、それにふさ和しい人物であることを裏書きしているように思われる。

 素堂が不忍池畔に退隠したのは、前述の如く延宝七年と推定されるが、退隠後の生活はその作品を通して推察することができる。

「東叡山のふもとへ市中より家をうつして」と詞書きして。

  鰹の時宿は豆腐の雨夜かな

と吟じ、今は鰹の時節であるから世間の人々は盃を傾けて鰹を賞美しているであろうが、私は豆腐を食べながら草庵に降る夜の雨をあわれんでいる、と言って自己の退隠生活と栄達にある友人とを比較したがらも、自己の現在に満足を感じていた。

  宿の春何もなきこそ何もあれ

「とくとくの句合」の判詞に「何もなきこそとあるは有無の無にてはあらざるべし。此無にはあらゆる物な傭へて胸中の楽しみはかりがたし。」とも述べている。素堂が葛飾の阿武に居を移したのは、荻野氏の説かれる如く、芭蕉が野ざらしの旅から帰庵した貞享二年の四月以降、「統虚栗」の序文に江上隠士素堂と署名した貞享四年霜月までの間であったが、葛飾での生活は一層隠者生活が徹していったと思われる。移居した時の作と言われる「長明が車に梅の上荷かな」が語るように、長明の隠遁生活を理想としての移居であった。芭蕉は「嵯峨日記」卯月廿二日の条で「長嘯隠士の曰く、客半日の閑を得れば、あるじ半日の閑をうしなふと、素堂此言葉を常にあはれぶ。」

と記して素堂の生活に強い同感を寄せている。素堂の隠者生活はまことに自得している清閑な生活であったように思われる。  

 

 

ところが次の書簡は素堂が上野隠退後も公的な什事に従事したことを物語るものである。

 

今日野生儀不存寄町方御用掛助被仰付難有仕合奉存候兼両脚懇命被下候ニ付此札一寸御知せ申上度御座候趣申候 

  早々頓首

  二月朔日    素堂 拝

  琴斉先生貴下

 

素堂が素堂を号とし始めたのは、上野退隠後の延宝八年からであるから、この書簡は少なくとも延宝八年以降のものであろう。

琴斉先生もまた御用掛助となった町も不明であるが、上野退隠後において素堂が町方御用掛助となったことは歴然たる事実である。《註》この書簡の出所は不明。

 

「摩訶十五夜」で算術に長じていたと記述されたことも、従ってまた致能の依頼によって濁川開鑿に従事したことも、一つの裏付けを得たと云えるのであろう。 

 

 濁川開鑿の政能の依頼に当たって素堂の答えは

「人者コレ天地ノ役物ナリ。観可則進ム。

素ヨリ其分ノミ。況ヤ復父母ノ国ナリ。

友人桃青モ前ニ小石川水道ノ為メニ尽セシ事アリキ。

僕謹テ承諾セリ。令公宜旨勉旃。」(甲斐国志)

 

と述べたと記録されているが、この返答の中から生れた故国に尽そうという素堂の姿勢を察知することができる。

 葛飾で閑静な生活を送っていた素堂が、甲斐の国まで赴いて濁川工事に従事したことは、並み並みならぬ努力が必要であり、決然と立たせたものは政能の苦難に沈む住民救済の精神に刺戟された素堂の父母の国に尽そうとする精神であるが、その基底に素堂を形成した儒教精神を指摘しなければならないと思う。

 

素堂の漢学については「摩詞十五夜」で黑露が「春斎先生の高弟」と述べ、百庵も「従春斎先生人見竹洞叟を学友とし」と述べている。素堂が春斎の門弟であった以上、程来の学を学んだであろう。また人見竹洞は春斎門の高弟で、貞享三年には木下順庵と共に「武徳大成記」を編述しているが、その竹洞から送られた素琴を、素堂は[是を夕にし是を朝にして、あるは声なきに聴き、あるは風にしらべあはせて長く愛翫しているところからすると素堂の程来の学も相当に深かったと思われる。また素堂の句には儒教的性格の濃いものが相当あるが、例えば「誹林一字幽蘭集」所収の

  一葉浮いて母につげぬるはちす哉

について「とくとくの句合」の判で、素堂は自ら「沾徳が幽蘭集考の部に出せり。山谷詩に蓮を見て母の慈を思ふとは、実の事をいへり。一葉の浮みたる所をつげたるも、猶考の心なるべし。」と述べている。

 

錦江は「山谷は食ふて母を思ひ素翁は告で母をよろこばす。其心を養ふといふべし。」と評している。素堂が母に仕えて至孝であったことは請書に伝えられているが、「後妻を迎えなかつたのも一つには母の意にたがはん事を恐れたためらしい。」元禄五年秋には母の喜寿の賀宴を設け、芭蕉ら六人を招き、元禄八年には母の遺志によって身延詣でをしている。「誹林一字幽蘭集」所収の句も母に仕える生活の中から自然に戌ったものであろう。かく見て来ると素堂の隠者生活を特色づけていろもののIつが儒教的精神の道統であったように思われる。濁川開繋工事の如きも素堂の儒教的精神の躍如たる現われであると言い得よう。

 

    素堂と濁川改浚工事

 

 素堂像を大きく歪めたのは元禄九年の濁川改浚工事への素堂の関与が、『国志』に劇的に記載されたことが起因である。

 この項はよく読んで見ると、時の代官触頭桜井孫兵衛政能の事蹟顕彰を「素道」の項を借りて記述している。こうした記述方法は他の人物の項などにはなく独特のものであり、講談調の語りを入れるなど「お涙頂戴」の構成になっている。

 素堂没後約百年経てから編纂された『国志』「素道」の項は素堂の事蹟、特に「濁川改浚工事」への関与を特書して、命を賭けて国を救った土木技術者として祭り挙げてしまった。後年になり事蹟顕彰の石碑が立ち土木書に引用され、山梨県内外の歴史書には素堂を義民の生神様としてしまった書もある。

 






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最終更新日  2021年06月12日 15時58分03秒
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