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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年06月14日
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  芭蕉は何時甲斐に来たのか 何故素堂を頼らなかったのか?

 

 素堂は甲斐の出身とされ、高山糜塒(傳右衛門 谷村藩国家老)の主君秋元但馬守に素堂は蚊足(和田源助)を世話している。

芭蕉が帰庵した折も、庵新設を呼びかけている。としたら??

 芭蕉の甲斐入りについては後世の書が多く、我田引水の記述が多く見られる。

 また天和二年暮れの火事では江戸秋元屋敷も類焼している。糜塒も芭蕉処の話ではなく、又谷村藩では農民の困窮から越訴も行われ、多くの名主たちが命を落としている。その世相の中芭蕉は糜塒を頼り甲斐に行ったとの説は無理がある。残された句も後世の偽発句が多く見られ、碑などもほとんど後世のものと断定できる。芭蕉は素堂を頼るべきであった。素堂が甲斐の出身であれば??

 

【参考文献】 『新修 芭蕉伝記後説』阿部正美氏 

明治書院 昭和57年刊

   一部加筆 山口素堂資料室

 

十二月二十八日 

江戸の大火で深川の草庵も類焼し、暫く甲斐に居を移した。この火難について、共角の「芭蕉翁終焉記」(『枯尾花』所載)は次のやうに伝へてゐる。

 

  天和三年の冬、深川の草庵急火にかこまれ、

潮にひたり筈をかづきて煙のうちに生のびけん、

是ぞ玉の緒のはかなき初め也。

爰に猶如火宅の變を悟り、無所住の心を發して、

その次の年(割注 天和三年)夏の半に、

甲斐が根にくらして富士の雪のみつれなければと、

それより三更月下入ル無我といひけん

昔の跡に立帰りおはしければ、……

 

其角は火災を天和三年冬といふけれども、『随斎講話』(成美著、文政二年刊)に換刻された素堂の芭蕉庵再建勧化簿の序の日附は天和三年九月なのだから、草庵焼亡はそれより前と見なければならない。

又『虚栗』其角撰、天和三年五月跋)春の部に。

      烟の中に年の昏げるを

   霞むらん火々出見の世の朝渚   似春

 

とある句文は天和三年初春以前に大火があったことを示してをり、其角の錯誤がいよくはっきりするのである。

この大火は天和二年十二月二十八日駒込大円寺から出火して、本郷・下谷・神田・日本橋・浅草・本所・深川にまでひろがったもので、入庵から草庵再建までの火事といへば、これを指したと考へるより外なく、其角はその年次を一年取り違へて記したのであった。

 芭蕉が罹災して一時甲州に赴いたことは、共角が「甲斐が根にくらして」と述べた外、四月廿四目(元禄三年)附北枝宛書簡に。

  池魚の災承、

我も甲斐の山ざとにひきうっり、

さまざま苦努いたし侯へば、

御難義の程察中。

 

と芭蕉自からもいってゐるので、事実と認められよう。

1.      この流寓生活はどういふ縁故によったのか、又その生活状態がどうであったかは、これを明示する資料がない為に、そのおほよそを推定するに止まるのであるが、甲州へは高山糜塒との関係から、その庇護に頼ったのではないかと思はれる。

『真澄の鏡』(白太撰、安政六年十二月序)に、糜塒の子息が書いた芭蕉真蹟軸箱の裏書があって、その一節に亡父が芭蕉と親しかったことを述べ、

「甲州郡内谷村へも度々參られ、三十日或は五十日逗留す。又ある時は一晶など同道す」

とある。谷村には糜塒が国詰の屋敷を構へてゐたといふから、この伝へは後年のものながら相当信じてもよささうである。

これを他の方面から見るに、『蓑虫庵小集』(猪来撰、文致七年自序)に、鹿府の「胡辨垣穂(へぼちぐさ)に木瓜も無限かな」を発句とした一晶・芭蕉との三吟歌仙があって、この成立年代を考へると、『真澄の鏡』の記事の信憑性が裏づけられる。この発句は謙遜の意をあらはしてゐるから、若し他人の催した会での挨拶の句とすれば、亭主に対して礼を失することにならう。従ってこの歌仙は糜塒が主催してその屋敷で巻かれたと見るべきである。彼の屋敷は甲斐の国元と江戸の藩邸と二つあったが、発句に詠まれたやうな景は江戸の藩邸に相応しいものではなく、やはり国元の屋敷の周囲に材を採った句でなければならぬ。

そこでこの三人が甲州に集まった時期は、芭蕉の号が用ゐられてゐるので、当然天和元年以降であり、同二年歳末の類焼の後、翌年五月頃まで甲州にゐた期間が最も適当であらう。

『一葉集』所出の「夏馬の遅行状を檜に見る心かな」以下の同じ連衆による付合も、同じ頃のものとすれば、これらが「一晶など同道」といふ事実の徴証となることは論を待たない。

糜塒は秋元家の家老職であったから、一人や二人の世話をする余裕がなかったとは思はれず、芭蕉は甲州を去るまで谷村で彼に寄食してゐたと見てよい。さうすると前に引いた書簡の「さまざま苦努いたし」といふ文言をどう解するかが、聊か問題である。家老の許にゐればさしたる苦労もなささうではあるが、考へて見れば甲州は芭蕉にとって糜塒以外に何の縁故もない地であった。それに、住むべき家を失った火災後の江戸に何時帰れるか、急には見込も立たなかったらう。

芭蕉の「苦努」は物質的な面よりも寧ろ精神的な面が多かったと思ふ。其角はこの災難から無常を悟ったやうに書いてゐるが、さういふ心構へは今に始まったものではなく、入庵当時或いはそれ以前から芭蕉の内心深く包蔵されてゐたのであらうから、其角の「猶如火宅云々」は単なる文飾と見て差支へあるまい。ただかういふ厄難に直面して、この世を夢幻の世界と観ずる傾向を深めたことは想像に難くないのである。

 糜塒との関係が或る程度確かめられた以上、それ以外の説を顧慮する必要は余りないが、一応簡単に触れておくことにする。成美の『随斎講話』に、

  芭蕉深川の奄池魚の災にかゝりし後、

しばらく甲斐の國に掛錫して、

六祖五兵といふものをあるじとす。

六祖は彼ものゝあだ名なり。

六祖かつて押法をふかく信じて、

佛頂和尚に參學す。

彼もの一文字だにしらず。

故に人呼で六祖と名づけたり。

ばせをも又かの禅師の居士なれば、

そのちなみによりて宿られしと見えたり。

 

とある説は、よく知られた伝へではあるが、何等根拠の明らかでないものである。

杉浦正一郎博士がその著『芭蕉研究』で紹介された本間文庫旧蔵の『奥細道管菰抄』板本にある朱註(筆者は本間契史かといふ)の記事はこの伝説に関聯したもので一寸面白い。

  

此時価頂和尚甲州にあり。

祖師(注、芭蕉)は六祖五兵衛を主とすと一書に見えたり。

六祖五兵衛は高山氏にて、秋元侯の家老也。

幼名五兵衛、後主税と云は通称にて、今も猶しかり。

六祖の異名は佛頂和尚の印可を得しより、其徒にての賞名也。

祖師と同弟なれば寄宿せられし也。

今高山氏に祖師の筆蹟甚多し。

米櫃の横にさへ落書せられしもの残れり。

 

これによると、糜塒が即ち六祖五平といふことになり、事実とすれば非常に興味深いことであるが、どうも余り信用出来かねるのである。私が高木蒼梧氏に御教示を仰いだ所では、これを裏づける資料は何もないといふことであった。

 

先づ幼名五兵衛といふことがをかしく、高山六家の一に五百石取の代々五兵衛を称した家があったのと混同した疑ひがある。糜塒が仏頂に参禅したかどうかも確証は見当らないのであった。杉浦博士は前の記事の続きに六祖は糜塒の次男らしいといはれ、荻野清氏も同様のことを述べられたけれども、この次男は貞享二(一六八五)年生まれで、天和二・三年にはまだ生まれてゐなかった。要するにこれらの説は何等真実性がなく、六祖五平は全く架空のものと断じてよい。それに裏附けを欲する心理が実在の高山糜塒に附会するに至ったのであらう。湖中の『芭蕉翁略伝』(弘化二年刊)

に見える杉風の姉が甲州初雁村にゐたのを頼ったといふ説も、他に傍証を得ないので何ともいへない。なほ穎原博士は『新譜』の「思ひ出す木曾や四月の梗狩」の句の条で、天和三年四月頃甲州に滞在中に木曾に遊んだことがあったであらうといはれてゐる。句の成った貞享二年夏より前に木曾に遊ぶ可能性はこの時に限らないので、まだ確かとはいへないが、有力な推定と考へられる。

 

一品は芳賀氏、名は治貞(一に治有)、通称を順益といった。京の人で医を業とし、後江戸に移った。俳諧を鶏冠井令徳に学び、談林風の矢数俳諧等も行ったが、晩年は前句付の点を専らにしたといふ。宝永四(一回七)年四月歿、年六十五。

 芭蕉が仏頂和尚に就いて参禅の経験があったことは、門人達の書いたものによって事実と認められる。其角は「終焉記」の中で。

  元来混(?根)本寺僧頂和尚に嗣法して、ひとり開仰の法師といはれ、一気鐡鑄生(ナス)いきほひなりけれども、……

といひ、又支考は。

  武江の草庵に在ながら佛頂和尚の禅室にまじわり、(『俳諧十論』)

といって、『十論為弁抄』でも同じ趣旨を述べたのであった。

芭蕉自身貞享四(一六八七)年の鹿島参詣の旅では仏頂を訪れてをり、又『おくのほそ道』でも仏頂山居の跡を訪うた記事を懐しみを籠めた筆で書いてゐるの等は、この事実を証するものと見てよい。その時期については、先ず仏頂の動静を見る必要がある。仏頂が鹿島根本寺の住持となったのは延宝元年であったが、翌二年から根本寺と鹿島神社との間に寺領をめぐって係争が生じ、問題は幕府まで持ち込まれることになった。この事件の解決がっくまで九年の間、仏頂は江戸との間を往復して折衝したのである。根本寺側の勝訴となって事が落着したのは天和二年六月であった。支考が「武江の草庵に在ながら」といってゐるのを考へ合はせると、仏頂と芭蕉とが結縁したのは入庵以後訴訟落着以前と思はれるのである。仏頂の滞府中の宿所も深川にあった。

 さて、参禅の事実はこれで疑ひを容れないとしても、それが何処で行はれたかについては問題が多い。従来よく引用されたのは『笈日記』『十論為弁抄』『芭蕉庵小文庫』(元禄九年刊)の史邦の序等の次のやうな記事であった。

  十二日は阿見の忌日つとむるとて、

桃隣をいざなひて深川の長浜寺にまうで侍る。

是は阿叟の生前にたのみ申されし寺也。

堂の南の方に新に一簣の塚をきづきて、此塚を發句塚といへる事は、

 世の中はさらに宗祗のやどり哉   翁

  此短冊を此塚に埋めけるゆへなり。(『笈日記』)

  むさし野のふるき庵ちかき長浜寺の禅師は、

亡師としごろむつびかたらはれげれば、

例の杉風かの寺にひとつの塚をつきて、

さらに宗祗のやどりかな 

と書をかれける一簣を壷中に納め、

比塚のあるじとなせり。(『小文庫』)

  此和尚の在世は大和貞享の比なり。

……武城の深川に禅刹ありて芭蕉庵もそこにちかし。(『十論為弁抄』)

 

これらの記事によって、志田博士は長渓寺参禅説を採られてゐるのであるが、その後の調査によると、同寺と仏頂とは何の関係もなかったといふのが本当らしい。そこで気づくことは、これらの資料がどれ一つとして参禅をはっきり裏づけてゐない点である。『笈日記』の文は参禅とは別のこと左解釈出来るし、『為弁抄』の深川の禅刹にしても、長渓寺と名を指していっだのではなかった。史邦の記事はといへば、所謂「長浜寺の禅師」を仏頂に擬するのは明らかに間違ってゐる。仮に彼が長渓寺と縁があったにしても、それは滞府中の宿舎としてであって、かういふ呼び方は相応しくない。まして事実は長渓寺との関係が何も認められないのだから、これを仏頂とするのはいはれのないことである。芭蕉と長浜寺との縁は恐らく参禅とは無関係のことで、仏頂とは別人の長浜寺の住持と親しくしてゐたのであらう。同寺の天和・貞享頃の住職は松山嶺吟和尚といふ人であった。

 高木蒼梧氏の研究「河南仏頂禅師」(『木太刀』昭和之十六年大子七年所載)によると、当時深川大工町に臨川庵といふ草庵を建て、根本寺の僧の宿所としたといふ。後に昇格して臨川寺となったが、仏頂は江戸へ来る度にここを宿所とした筈である。同じ禅宗でも仏頂とは派も違ひ、何のつながりもない長浜寺よりも、芭蕉参禅の場所としては臨川庵の方がふさはしいと思ふ。

 かういふ求道心の発現の裏には、自分のこれまで辿って来た俳諧風狂の道への相当深刻な反省が存在したであらう。

しかしこの矛盾は、芭蕉の場合俳諧を捨てる方向には導かず、俳諧を内部から変質させ、より高い詩精神を盛る器とする方へ進むきっかげとなったやうである。既に深川に退隠したことが、それまでの行き方に批判的になってゐた彼の生活革新であったが、更に参禅が彼の内面に及ぼした影響は大きく、それが延いては俳諧活動の上で新たな展開を示す原動力の一つになったことは確かといってよからう。

 仏頂は俗姓平山氏或いは藤崎氏と伝へられ、常陸国鹿島郡内島村字札に生まれた人である。幼い頃から釈氏に帰し、根本寺の住職となったのは延宝元年であった。同七年職を弟子に譲ったが、例の訴訟継続中は、彼が実権を握ってゐたさうである。正徳五(一七一五)年十二月二十八日、七十三歳を以て寂した。






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最終更新日  2021年06月14日 17時49分12秒
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