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菅江真澄のこと 旅 浅間山噴火
週間『再現日本史』江戸Ⅱ⑨ 1783~1788 講談社発行 一部加筆 山梨歴史文学館
天明三年(一七八三)二月、菅江真澄言言)は、故郷の三河(現・愛知県)を旅 だって信濃(現・長野県)へ向かった。 その出発からまもなく、四月に浅間山が噴火を始める。やがて、夏にはすさまじい噴煙を上げる大噴火となり、溶岩が地元の村を押しつぶし、江戸市中にさえ火山 灰が降り注いだ。 信淡路を歩きまわっていた真澄は、火山の脅威を目のあたりにしたことだろ う。しかし、本当に恐ろしいものを見たのは、翌年、越後(現・新潟県)を経て 道具(現・東北地方)に入ってからだった。日本列島をおおった噴煙は、道具に 冷夏をもたらし、農業を壊滅させた。
天明五年秋、津軽(現・青森県西半蔀)に入った真澄は、こう記した。
「雪が消え残っているように、草むらに人の骨が乱れ散り頭骨の穴からススキや女郎花が生え出ている」(『楚堵賀浜風』) 『菅江真澄研究の軌跡』の著者で、因果院大学兼任講師の磯沼重治氏は、「『天明 の飢饉』は、自然がもたらした凶作とはいえ、政策の過ちによる人災的な性格が 強かったのです。草の根や水の皮だけでなく、大切に育てた馬やさらには家族た ちさえも、飢えをしのぐ糧としてしまう。真澄は、冷静にその実態をとらえようと歩みを進めていきます。その先にある、見出すべきものを求めて行こうとする探究心と勇気は評価したいですね」と語る。
菅汪真澄は、宝暦四年(1754)三河川渥美郡牟呂村(現・愛知県豊橋市牟呂町)に生まれた。本名は白井英二。隣村に住む、賀茂真淵の縁戚である植田義方に和学・和歌を学び、名古屋・尾張藩の薬園につとめ、文人画家の丹羽嘉言に漢学・画技を、尾張藩の藩医の浅井図南から本草学と医学の知識を習得する。 真澄がなぜ故郷を捨て、旅に出たのかは、定かではない。三〇歳で旅に出て以来、四〇年以上を旅に生きた真澄は、常に美濃紙を綴じた日記帳と写生帳を携帯し、一〇〇種二〇〇冊におよぶ著作を残した。 それらは民俗、歴史、地理、国学、詩歌、考古、本草、宗教などの分野におよび『菅汪真澄遊覧記』と総称されているが、その正確な観察に基づく記録は、民俗学的に貴重な史料として現代でも高く評価されている。
飢饉の津軽を歩いた真澄は、盛岡、仙台を旅し、また北に戻り、念願だった蝦 夷地(現・北海道)へ渡る。ここで数年をすごした後に津軽に戻り、そこをくまな く歩き、秋田領に入ったのが享和元年(1801)のこと。 この後は、秋田藩士の援助も受け、文致一二年(1829)、七六歳で仙北郡角館町(現・秋田県角館町)の地で死去するまで、出羽(現・山形県と秋田県)六郡の地誌(『雪の出羽路』『月の出羽路』『花の出羽路』の三部作)とその図絵集『勝地臨毫』のための巡行調査や編纂にあたった。
菅汪真澄の旅を支えたもののひとつに、薬草の知識があった。彼の日記には、薬狩りに行ったという記事が何度も見える。彼がたびたび医師を訪ね、その家に短い滞在をしているのは、山野で採取した薬草を売り、特には散楽の手伝いなどもしたからであろう。それに加えて、歌会に招かれての添削料、染筆料、賤別などの雑収入はあったであろうが、次の旅を継いでいくための最小限度の旅費を得ると、次の目的へと出版したという。 真澄は農民の為に、科学的な視点から文章と絵で細かく記したのです。とりわけ、多くのスケッチは貴重なものです。(前出・磯沼氏)
彼の文章も絵も、花鳥風月を描く、いわゆる芸術のためのものではない。しか し、厳しい自然の中に生きた雪国の農民の喜びや悲しみを、客観的に描いた彼の 絵や文は当の農民たちにも愛され、感動を与えた。係累さえない秋田の址で人生 を終えながら、友人たちの手で丁重に墓碑が建立され、その記録は今も秋田の誇りとして保管され続けている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年06月15日 06時06分10秒
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