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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年07月04日
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白州町の黄金伝説と鉱山

 

 

 

白州町は山梨県と長野県の境の釜無川の右岸に展開し、西を南アルブスの山脈が南北に連なる、町としては広い区域を擁する所である。地質の面から見ると、大雑把に言えば四万十帯と花岡岩帯の山岳部に、フォッサマグナと呼ぶ地溝帯を埋める沖積層地域に分けられるが、町域の大部分は山地である。

 

 この町の産業としての鉱業は、鉱物梁瀬の乏しい事から未発達に終わっており、表題に付けて有る黄金伝説も地元には今日に伝えられてはいない。では何でこんな物語を綴るのかと言えば、色々な話を集めて行くうちに、鉱山などに纏わる事柄が見えて来たのである。

 

【鉱物】

 

 この町域から産する鉱物は重石および絹雲母に水晶である。重石については明治期の初め頃発見されたと言われ、僅かながら白粉の原料に採集出荷していたと伝える。絹雲母は、キララと称して絵画等の顔料として使われるが、他にも電気の不良導体として使い、熱にも強い事から灯り取りなどにも利用された。水晶は紫水晶が主体と言われ、無色透明な純粋な水晶は少なく、殆ど品質が悪いとされる。水錫(スイエン・スイシヤク)も産したと言われるが不明である。

 

【金山・砂金】

 

 金に付いては後項に譲るが、町域の南北つまり北は入笠山系の金山、南は鳳皇山系の御座石金山が在る。所謂武田信玄の隠し金山だが、白州町域はスッポリ空白域に成っているのである。此処は花岡岩地帯であるから金成分も含まれている。昔と言っても五十年は前の話であろう。好事の者が尾白川で砂金を採取していた、と云う話が残っている。どの辺りで掬っていたのか場所は不明だが、恐らく尾白川流域に僅かながら金鉱脈を含む所が有るものと思われる。同じく花岡岩地帯から流下する濁川(神宮川)での砂金掬いは聞いていない。黄金の事は後に回して先きに進める。

 

【水晶】

 

 町域では有史前の縄文時代から、川原などで拾って来たものか、水晶を石器として使用した遺物が、埋蔵文化財調査で発掘されている。しかし、歴史時代に入ってからの特産物としての記録は残されていないが、江戸時代後期の「甲斐国志」に「流川は旧くは玉岐川と云い上流で水晶を産す」と紹介されている。しかし、地域産業と成っていない処を見ると、梁瀬が乏しかったのであろうと思われる。

 

 

 

白州町の鉱山 倉掛鉱山

 

 

 

 明治時代の初期頓に鞍掛山付近で重石・水鉛(水錫であろう)・水晶等が発見されたと云う。明治3637年頓には地元の人が採掘を行っていたようである。

 

 我が国の鉱山開発は戦争と無関係では無く、明治時代は維新政府によって産業振興が指導され、その始めの頃は盛んに鉱脈さがしが成されていた。明治278年の日清戦争の頃は古い鉱山の再開発が盛んであり、明治378年の日露戦争の折も同様であった。だが産出物から見るとここの鉱山は軍事的には結び付き難い。明治末の鉱山名が重石鉱山と称していた。

 

であるから、どんなものであろう。昔話に採り集めた物を曳に入れて担ぎ下ろし、選別してから出荷していた、その量も大変に重い物だったから、其はど多くは無かったといわれる。小人数でのささやかなもので在ったらしい。大休この鉱山の所在地は標高1700米を越す所に在り、山の傾斜も険しく里からの距離もかなり有る。採鉱も荷下ろしも全て人力である。人手が多ければそれだけで採算性は無い。この重石鉱山は残された記録も無いから、不明な所が大変に多く、明治末から継続して営まれていたものか判らない。消長を繰り返しながらも大正後期から昭和の初期にかけ、小規模な採掘が成されていたのである。産品は重石とキララ(絹雲母)が主とされている。

 

 出鉱する重石は含有するタングステン鉱採取が目的である。古くは白粉の原料として出荷されていたが、電気が作られ電球が発明され、そのフィラメントに使われるようになると需要が高まり、鉄鋼のより強いタングステン鋼が開発されると、軍事上からも必要度が増した。タングステン原鉱の埋蔵の少ない日本にとり貴重な鉱山であった。

 

 昭和年代、軍事色が強まるにつれタングステン鉱の輸入が規制され、日中戦争(支那事変)が始まって昭和13年に入ると、これまでの手掘り採掘から、より生産性のある機械掘りに移す鉱業として、再開発の工事が始められ、1年半を掛けて「鞍掛鉱山」としての採掘が始まったのである。

 

 現場には事務所・宿舎(飯場)・選鉱場・部材工場などと共に、火力の自家発電所も造られ、電動さく岩槻での採掘に到ったのである。資材の搬入から荷下ろしも全て人力で、従事した人達は現白州町(菅原村・駒城村)武川村・芦安村の人々であった。

 

 この鉱山は第二次大戦(太平洋戦争)中稼働していたようであるが、その終わりは軍事秘密とも言われて、その全貌と共に不詳である。

 

 ここに従事していた人達は、半月は泊まり込みで作業に当たり、つぎの作業員と交代したと云うが、下山の時には土産に水晶(紫水晶)の塊りを持ち帰ったと云う詰もある。恐らく純粋な水晶は高度な通信機器の開発に必要であるから、持ち帰りは出来なかったであろう。鉱山としては紫水晶は必要なかったのであろう。

 

鉱山の間歩へ行くには尾白川の支流・鞍掛沢沿いに木道を掛けたり、細い道を作ったりして交通路としていたが、今日ではその場所も詳らかではない。

 

 

 

その他の鉱山

 

 

 

 下教来石に流川鉱山が在った。国道20号線より4キロほど山へ入った所に在った。今一つの鳳来鉱山と共に綿雲母鉱床が広がり、生産物は雲母と少量の水晶であった。共に昭和の後期にかけ閉山した。

 

 

 

白州の黄金伝説

 

 

 

 白州町域の黄金伝説となると無いに均しいのであるが、前で触れた通り地元には残された伝承は無い。殆どが外部から持ち込まれた説のようでしる。その一つが「中山の埋蔵金」話しで、その昔の天正10年の織田信長による武田氏征討戦の時の事である。

 

 

 

 緒戦に破れた武田勝頼は新府城に退いたが、織田軍迫る新府城の完成直後の城を焼き払って、再起を掛け天目山退いて行った。この時に城に蓄えていた黄金財宝を家臣に命じて埋蔵させたと言われる。その一つが中山の地であった。

 

 この中山は信州往還を画する要衝の地で、武田民時代には山頂に砦が築かれ、狼煙台を設置して信州筋よりの急朝を伝達する、要の一つであった。この砦を守ったのが武田勢の一手である地元の武川衆だが、信州筋での戦いに敗れた武田軍が新府城に遁れると、その守りに武川衆は中山砦に拠ったのである。しかし、織田軍迫るとの報せに33日、勝頼は新府城を退いて行くと、武川衆も砦を出て散って行ったのである。

 

 敗走する武田勢を追って進軍する織田倍長は、この中山の麓の大河原(台ヶ原とも)一帯に布陣し、次いで釜無川を渡り花水坂を越えて新府城へ向かった。尚、砦を撤退するに当たって武川衆は、武田氏に関係する物など主な物を処分して行ったと云う。

 

 武田氏が滅んで後、信長は中国地方平定に出陣し、6月の初め京都本能寺に暗殺されると甲斐国内は混乱した。信長の同盟者・徳川家康が甲斐の経略に掛かると、武川衆は徳川勢に加素早く加わり中山砦に拠ったのである。その8月、相模の北条氏直は甲斐を従えようと侵入して、徳川勢と戦いを展開した。この合戦は徳川氏の勝利に終わり、北条勢は退いていった。武川衆も防戦して北条勢を破ったと云う。

 

 豊臣秀吉の時代、家康の後に入国した浅野氏が新府城跡を徹底的に調べたが、武田氏の埋蔵金は発見出来なかった。中山の埋蔵金話は真実であろうか、一時何人かの人が調査はしたらしいが、未だに発見はされていない。出ればこんな面白い事はないのだが、どうも武川衆の中山撤収の事に関係が有りそうである。

  

「埋もれた金山」

  

それは濁川(神宮川)の奥に「埋もれた黄金山」が、かつて存在していたと言うのであるが、地元には金山話は伝えられていない。泉昌彦氏の「埋蔵金説」によれば、武田時代に四キロ四方に亘る大貴金山が一夜にして、山崩れにより埋まった「鬼窪」金山で、金掘り千軒と称される盛山が、乱掘によって大崩落を起こし、一夜にして埋没したと言うのである。 

 

泉氏によると「鬼窪」は鞍掛山の西北を流れる濁川の奥入りに在り、川を挟んで右が鍵打山、左が玉峽山で、この辺りの伐採に当たっていた山師が「武田時代に盛山だったと云う黄金山が、この辺りの鬼窪に在ったが、大きな山崩れで埋まってしまった,」と語ったと云う。この伐採師は木の搬出道を付ける時に発見した水晶(紫水晶)を取りに行く時、同道して現地調査をすると記されている。次に、この説を考察して見よう。

 

 濁川(現在は神宮川)は鞍掛山の西北大岩山より流出するがこれが木谷で、支流の大滝川(笹の沢)はその上流でアレ沢と喜平次沢に分かれ、その喜平次沢は同じく大岩山の北麓に端を発する。

 

この水源の所が「鬼の窓」と呼ぶ断崖の洞窟の輿である。

 

「鬼の窓」と呼ぶ洞窟は「昔、悪人(鬼とも山賊とも)が棲豪として、里へ出て来ては悪事をしていた。それを坂上田村麿が退治した」と云う伝承をもっているところである。

   

次に古文書で濁川についてみると、

 

 △文化二年(1805)白須村文書

 

濁川水上は鬼の窓より流れ出て、凡そ村上二里餘り流れ、釜無川に落

 

ち云々

 

 △文化五年(1808)白須村文書

 

  濁川は鬼の窓より出で云々

 

 次に山の名と地名に付いては目下調査中であるが、少しばかり考証してみよう。

 

最初に流川は旧名を玉峽川と言ったと言う事は前に触れたが、江戸時代の文化二年(1805)「教来石村明細書上帳」によると流川、当川転岩山之裾より流出」と記載されている。転岩山とは雨乞岳の事とも言うが、その前山の事と考えた方が妥当である。雨乞岳は多くのこぶ(峰)の集まった山系で槙高20368米あり、南に鵜川を挟んで日向山(16696)-大若山(33193)と対自し、西側は釜無川の源流部に当たる、南アルブス山脈の中で異色の隆起準平原・大平(16248)の囲脈に接している。大岩山も大平に接し北東山麓を境川水系と、釜無川水系の水源と成っている。

 

 泉氏の説ですと川を挟んで鍵打山と五扶山」が有る事になっているが、玉映山は雨乞山の前山の一つ、鍵打山はその所在が判らない。前出の鎌打山と同じである。鳥原渡辺文書「山論御裁許裏書写」に出て来る逆境に「大おとし山嶺益打山」の名がある。恐らく鍵打山とは権益打山」の事ではなかろうか。では「大おとし山」とは何処を指すのか、目下調査中であるから今後に残して先え進もう。濁川は今日神宮川と名称が替わっているが、

 

古文書から見ると現在の支流に位置づけられている「笹の沢」を指すと考えられる。山境としての「鬼の窓」はこの笹の沢の源流部にあり、釜無川の支流黒川の上流果津沢に接している。それでは「鬼窪」はどの辺りか、以前古老から「鬼の窪」と云う所が在るとは聞いた事は有るが、その昔在ったとの事でその所在は判らないと言う。この時は金山のきの字も出ず炭焼の話があっただけである。昔は鬼の窓まで杣通がついていたと語った時の話であった。尚、鎰打山鎰の字を字苑で見ると「金の数位の名目(二十両)」と有り、溢の字にも作ると有った。

 

とすると覆益打山」とは金を打つ、つまり金を掘った山と言う事も出来る。ロマンを感じる黄金山の話ではある。

 

 

長年、北と南には金山が存在しているのに、何故白州町域には無いのであろうかと思っていた。本当に武田時代に金山が存在していたとすれば、山系としては若干その成因は異なるが同じ系統の地質的素因を有っている訳だから、この疑問が解けるのだが‥……

 

 武田民時代の白州町域は武田信虎・信玄・勝頼三代に仕えた、馬場美濃守信房の治行した所と言われている。この美濃守はこの地の教来石出身で、始め教来石民部と称していたとされ、教来石氏は鳥原地内の流川沿いに館を構えていた。武田信玄の世に取り立てられて侍大将と成り、馬場氏の名跡を継ぎ、次いで武田二十四将の一人に数えられ、勝頼の代の天正三年(1575)の長綾の戦いに敗れた勝頼の退くのを見届け、討ち死にした老臣部将と知られている人である。

 

 この馬場美濃が教来石氏の出であると言う確証は無いが、白州町域を本領とする武川筋(六河筋とも)を治行地として武田領の一角の防衛に当たっていたであろう事はうなずける。この馬場美濃守に付いては別に譲るとして、面白い事実がある。

 

 武田信玄の代に命令で赴任した所が、殆ど金山開発に関係の有る地域であった。(駿河から信州まで)また高遠攻めの時はからめ手として進軍したが、その手勢の路程の確かな記録はない。その上に諜報活動をしていた節も有り、裏道である山越えを行ったのであろう。しかも美濃守の活動資金はどのようにして賄ったか、大いに疑問の残る点である。

 

 武田信玄の先兵として金山開発にも当たっていたであろう馬場美濃の、この本領にそれほどの金山では無くとも、存在していたとすれば面白い話である。

 

この時代の金掘りには砂金掬いの外に、坑道(間歩)を掘って採金する法と、ザレと呼ぷ金鉱脈を含む山自体を切り崩して採る方法が使われていた。

 

 泉説の「盛山であった金山が、一夜にして大崩落を起こして埋まった」とすれば、これこそロマンである。それにしても、濁川水系で砂金を採ったと云う話は今のところ聞いていない。崩落の跡とすれば雨乞山系に在り、笹の沢の支流であるザレ沢の上流部だが、果たして武田氏時代の金山跡が埋まっているのであろうか‥‥‥

 

 馬場美漉守信房(信春とも)についても、武田氏の滅亡と共に、その殆どの贅料が失われてしまった。これには諸説あって確定しないが、前出の武川衆の中山撤退と関係が有るらしい。この地域の資料で武田氏末期から江戸初期にかけての物は殆ど残されていない。

 

 江戸時代の古文書に「御巣鷹」とか「御鷹」と云う文字が出て来る。年代は不詳だが鳥原村が幕府にお花を献上して「濁川の水利権を独占」したと言い、正徳二年の山論裁定でお鷹を献上して御褒美米を貰ったのにその庸のいた「御巣鷹山の所在不分明」と叱責されている。

 

 この「お鷹」とは、元来の鷹の意味の外に「金」の隠語とされてもいたのである。教来石村や大武川村にも御巣鷹山に関する文書が残されているが、「巣籠り」等の文字が出て「いくつ有るか」などの質問もあり、判定しがたいが御留山として伐採や人山を規制している。

 

 現代でも、釜無山に入った人が「雨宿りに入った洞窟の奥に水晶が沢山有った」と云う詰もある。後でそこに採りに行ったが場所が分からなかったと言う。これとても、どこまでが真実であるか、今の処は不明である。しかし、空白域のこの地域には、一つの夢として楽しい事ではある。

 

 平成9年稿 この項おわり。






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最終更新日  2021年07月04日 11時33分59秒
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