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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年07月22日
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台ケ原村荒尾明神除昆虫祭礼略式

 

〔概略の説明〕

 

 農村において、旱害や風害とともに昔から恐れられてきたのは虫の害である。そのために、農村では農作物ことに稲作に害をもたらす虫を追い払う儀礼・呪法(じゅほう)は、古くから各地にさまざまな方法で実践されていた。

「虫送り」・「虫除け」とよばれ、「雨乞い」や「風祭」と同じく、村人が共同して、虫による被害を防ぐために村中の共同行事・祈願祭の一つであった。

田植からやがて田の草取りが終り、稲穂がみのるまでの間にはきまって虫害が生ずる。したがって虫送りは、毎年行われる行事(祭)でもあった。

 巨摩郡武川筋台ケ原村(現在北杜市白州町台ケ原)では、同村の荒尾明神の神前で祭礼が行なわれ、村内の龍福寺(曹詞宗)・智見寺(修験当山派)の住持が、社頭において読経することから祭がはじまる。村役人をはじめ村中の人が集まり、やがて、

「勧行の道、南・北・中三筋あり、当社主は中道を年番相染めて勤歩し、南北へは同社の高札と寺院廻り」(『甲斐国社記・寺記』第一巻神社纒)、結顕揚は釜無川対岸の庁嵐村の花水集落(白州町・元長坂町中丸)であった。

 資料は、台ケ原村の虫除祭礼に関する記録で、天保十四年(1843)から慶応三年(1867)間における、祭礼の順序・形式、年番村役人等が年代を追って記録されており。ときに幕末期の農村内部の状況をも説明しながら、旧例にしたがった儀礼を示す具体的資料である。

 

台ケ原村荒尾明神(田中明神)除昆虫祭礼略式

 

 村中依り懇願の田畑虫除け災いの難、祈執行乞いの守護神霊を授け与え、

この間虫除け清地に於いて、尺尊信懇願祈る者可有り、五穀豊饒(ほうじょう)土地潤沢のもの也。仍(よ)って執達の件の如く。

  神祇官統領神祇伯王殿

  文政七年二月     雑掌 

 

年々心付可申第一は、虫送り御神前より出立之節、御神殿開帳、村中之衆松明(たいまつ)に付火の元用心の事、

 

 

正一位田中大明神於御神前 昆虫祓祭礼略式

札二枚 荒尾社 当社神主 此の札南筋を廻り

 内府社殿 一枚は肩書 此の札は北筋を廻り二枚共に花水の決願場へ立てる。

是は竹枝に差し、上を結ぶ。弊竹二本、人足二人、名主元より出る。

他に小旗二十本、いずれも上へ「より」を附ける。夕方札と旗ともに社頭に於いて、年番へ相渡す。

 小籏の内訳

1、唐土大明神       2、満米の神 

3、埴夜須之命(黄色・中央)4、保食之神      

5、品々物生之熨(?)神  6、美叙八之女命・黒北 

7、大年之神        8、三社末社小神

9、大日本大小之神祇   10、恰根之神(稲以年)

11、当村大小之神祇    12、加久都知命(赤・南)

13、安伴之神(栗阿八)  14、天神地祇八百万神

15、金山日子之命(白酒) 16、日之恵神(稗此延)

17、久々廼稚之神(青・東)18、級長刀倍之命

19、級長都彦之命     20、武喜廻神(麦・牟支)

  

奈是尓北南之多米尓植志実乎西与里東風恵登不奈伊那虫

 

  当日昼午後より、竜福寺・智拳寺社頭へ来て読経する。

  七つ時より年番役向追々村中小竹壱本・松明持ち参集まる。

  寺院より茂小籏を名主に渡す。

 

供物定式

  花入 酒二升 青・赤・黄・白の紙

  当社並びに寺院等へも名主より出る。

この外に当社へのみ定式

  大幣帛並びに御熨より紙と札竹二本也。 

人足二人出るに被持、此の竹へ附け候

  札、御本社南筋、田中社北筋へ人足持ち回り、結願所へ置く、

  此の札二本は当社のみ也。

村中惣集の上、三組二人わけ、社頭ノ大庭或は鳥居下。

 中筋 

祭主当社、両社の秘符懐中通行、名主役案内、長百姓相添、

 

北筋 

竜福寺、長百姓或は百姓代案内、此方江甲田社相廻る、

南筋 

智拳寺、百姓代衆案内、此方荒尾社相廻る。

    定式神酒壱俵、結願之上開く、当社並び寺院村中、花水橋場で落合う、

 

北筋と申すは、寺の大門をヲ出はずれ、古明より大久保屋敷を平を下り、花水へ出候を北筋と称え、竜福寺執行之道也、長百姓或は百姓代衆案内なり。

中筋と申すは、鳥居前より宿内を下り、往還通りを花水へ出る。

当社より執行道筋、名主案内に相応、また長百姓も添える。

◇南筋と申すは、鳥居前往還より川原道へ出る、

山田筋へ根古屋より曲足(まがりあし)より横山出候を唱え候、

智泰寺執行の道筋、案内長百姓或は百姓代等也、

前式をもって執行の年、これより前祭りは、社記にこれ在す。

  左の通りに付き、落年は祭無き年なり。

 

◇1、 天保十四年(1843)

八月二日、名主八兵衛(北原)殿、

◇2、 天保十五年(1845)七月五日夕方、如雲に温蚊渡る。

七月九日、名主伝右衛門(伏見)殿、

◇3、 弘化三年(1846)

   六月十九日、名主伊兵衛(北原)殿。

◇4、 弘化五年・嘉永元年(1848)

   八月六日、名主伊兵衛(北原)殿。

 5、 嘉永二年(1849)

   六月五日、名主伊兵衛(北原)殿。

   柳沢社、小池姓不幸、導師被頼忌中に付き、

札・小籏など石田備前(白須若宮神社宮司)認相頼む。

年番へ渡し、社頭より年番・長百姓相添え、中筋を渡る。

寺院は例の通り南北へ廻る。

◇6、 嘉永四年(1851)

   七月二十九日、年番・名主伊兵衛(北原)殿。

◇7、 嘉永七年・安政元年(1854)

   七月十九日、年番・名主伊兵衛(北原)殿。

◇8、 安政三年(1856)

   七月二十一日、名主御用に付き、差し支え、長百姓・百姓代衆のみ勤方

など吉例の通り、当社道筋へ長百姓衆相添え、但し年番は、八兵衛(北

原)殿。

◇9、 安政四年(1857)

   年番、傳右衛門殿、執行吉例の通り也。

◇10、安政五年(1858)

   七月十九日、年番、傳右衛門殿、執行旧式の通り也。

 ◇11、安政六年(1859)

   末七月、年番、傳右衛門殿、執行是迄の通り也。

 ◇12、万延元年(1860)

六月廿四日名主傳衛門限、先式之通り済、名主傳右衛門殿、当社案内に

て、下宿迄相下り候節、急に御用の筋が出来、それより引返し帰宅、外

長百姓衆案内に成る。

◇13、文久元年(1861)

七月十九日、年版傳右衛門限、今年は村方衆集り、甚遅刻故、出社礼の

み触れ当て、人足を以結願所へ立、小籏は当社はじめ寺院共に名主へ相

渡し、御神前にて定式の御神酒をひらき、当社中の屋にて済し、銘々引

取被成。

 ◇14、元治元年(1864)

七月六日、年番逸三郎殿・八之丞殿・濱平殿、比三人当年始めて也、当

六月人役披露、問屋も同じく新役也、逸三郎案内、八之丞殿相添え執行

済、百姓代は左衛門殿・福左衛門殿。

◇15、慶応元年(1865)

七月廿日、虫送り年寄逸三郎殿・長百姓浜平殿、案内定式之通りニ勤行

済、寺院衆旧式之通り南北へ廻る、札いつも通り南北ヲ廻り花水へ立て

る。

 ◇16、慶応二年(1866)

   六月十二日、虫送り、定式之供物礼迄入る、名主浜平殿案内、並びに問

屋に長百姓喜代作殿相添え、中通り去年の通り執行、当社大礼二本を結

願所花水に立、寺は百姓代八左衛門殿、院は百姓代源之助殿案内、去

年、貯穀差し違え一件より八ノ丞殿、役向き遠慮に付き。百姓代三人

となる。

  

◇17、慶応三年(1867)

    六月二十一日、虫送り。名主、浜平殿方より、寺院共に定式の贈り物。

    並びに、何時も当社にて糊入り十二枚、弊竹二本、並びに、札持ち人

足二人とも出る。

    此の内、酒は上げず、去年八月七日、夜大風雨にて、凶作に及び、酒

造は相休み、伊兵衛(北原)殿方にても、大晦日に限り、当春は諏訪

高遠の酒を以て、小松屋・油屋にて売る。

その代凡そ一升一貫三百五十の位に付き見合い相なり、酒は上げずに

候。

さて勤行の中筋の案内は、名主浜平殿、問屋相添い、百姓代喜代作殿・

八左衛門殿、政右衛門殿は智見寺へ付き、逸三郎殿は北筋の寺に付く、

此の四カ年前頃より、子供松明を以て伐り置き候松葉、或は肥やし杯に差し置き候。今年は廻り場所も此れ無き候、

中台上り鼻に、積み置き候酒屋の表から「にう」に火を付け、「大に

う」三本焼き上がり候、三四日雨天が続き、事に風無く候故、愛宕堂

も竜福寺も無時に候えども、さもなき候はば、危なく被案候。

このいたずら(悪戯)三人也、

花水結願場にて、来年よりは子供には松明を持たせない事、一軒一人

の為、主もの可持と定める。

但し三人昨日調べと相成候て、酒屋逸三郎(北原)殿方へ、侘び証文

を差し出し候よし。

今年は竜福寺は病気に付き、雲水を以て代わって出す。

百姓代は未だ去年の通り、

八ノ丞殿は去年の貯穀以来、出席は無し。

 

◇18、慶応四年・明治元年(1968)

    六月十二日、晩方に祭礼を実施。(土曜晦日に入る)

    当社寺院共へ定式供物札酒等上る、当社前より定式之糊入幣竹二本、人足二人出る、

名主は逸三郎殿、今夜病気に付、名主代理、浜平殿案内をもって南筋

を下る。

百姓代、仁左衛門泉・和助殿・伊助殿なり、長百姓向ハ御通行在これ、

浜平殿一人なり。先例の通りに済む、寺院御宮へ出勤の上、南北へい

つもの通りに百姓代相添え廻る、

七月九日夕温蚊渡る、右に付十五日、虫送り祭礼在る。

名主逸三郎殿方より花入一重・酒札一枚・札百文・黄紙二十五枚入り、

是にて四ツ切にいたし、小札百枚残す。

寺も智見寺も同じ、寺へは赤紙が行く、智見寺ヘは青紙が行く、

昼後より当社へ寺院村中役向銘々詰める、田畑は廻らない、神酒一俵

庁屋にて相開く。

当社へはいつも之定式糊入十二枚と幣竹弐本入り、大札は十六日、人足をもって花水結願場へ立てる。是はいつも当社にて行うなり、

智見寺は十二日、甲府より帰りがけに、病気に付き、昨日の風祭にも、今日の虫送りにも、名代を以て出席なり。

 

他見無用

 

仲通行之訳、鳥居下にて人わけ致し、名主・長百姓の案内にて宿ヲ下

り花水まで行く。これが中筋と唱え、往古よりの当社の執行の道筋な

り。

北筋と申すは、寺の大門を行、出はずれより関前へ掛り、大久保より

屋敷平を下り花氷へ出る。此の筋は寺の勤める道にて、長百姓或は百

姓代相添う。是へ田中の大札相廻る。

南筋と申すは、鳥居下より直に川原道へ入り、山田筋より根古屋曲足

辺より横山へ出て花水へ行く。長百姓或は百姓代相添う。

荒尾の札相廻る。智拳寺の勤めの道は是也。

 

◇安政三年(1856)

七月廿一日、送り之節、智拳寺佑源より中筋を勤めたく申し出る。

役向き衆余村中を相尋ね候ところ、寺院外筋廻り侯義、何人にも覚え

無き申、院は南筋法螺貝(ほらがい)を吹披致執行。

寺は北筋と甚五兵衛其処八九人中之、寺も是まで迄銘々道筋を替へ執

行致候無きの旨と申し、旧式之通り、是迄の道筋江銘々廻る。

    住寺は恭髄僧代。

 

  ◇安政四年(1857)

    七月四日、虫送りなり。去年の虫送りの節、佑源(智拳寺)より中筋

    を勤めたいとの申し出があり一条、六月中より古例に無きの段に付き、

    百姓代弥五兵衛殿・五郎作殿、他に重右衛門殿・平左衛門殿・孫右衛

    門殿などが立ち入り、やはり是までの通りの道筋、銘々執行可致し様、 

智拳寺方へ相談、年番へもその段相届け、則当社へも右の衆被参、古

例の通りを以て執行被相頼、四日の夜祭無時済み、名主元より寺へも

相尋ね候ところ、古来の道筋の他少しも否無の旨此れ申す。その段

立ち入れ衆より当社へも口上がこれ有り、名主は傳右衛門なり。

 

   ◇安政五年(1858)

    七月十九日、虫送りなり。去年取り定めの通り、各々執行する。

名主は傳右衛門殿。

 

   ◇安政六年(1859)

    村形相より候、社頭において当社中筋御勤めの儀、宿内御下りのみを除き、寺の大門出はずれより東へ下り、鍛冶屋村吉蔵際の道より往来へ出る。御禊の御祓い執行に預かりたくと申し出る。また智拳寺より札竹二本差し出し候様、年春へ申し遣わす。年番にてこれまで寺院へは札竹など二本を差し出し候様、年番へ申し遣わす。年番にてこれまで寺院へは札竹等さし遣わし候例無き候に付き、被相断り候にて止る。今年は右左口村より荷物を付け渡し一件につき、村内もかれこれ事多き付き、追って当社へ可頼出、先今年は旧式の通りと村中へ申し聞く、いつもの通りに済む。年番は傳右衛門殿・

  ◇万延元年(1860)

    六月二十四日。虫送り・年番傳右衛門殿。何時もの通り、鳥居下にて人分けの節、智拳寺佑源は足痛につき、当年のみ宿内を下してくれとの候故、当社よりも相尋ね候ところ、案内は百姓代喜代作殿へ心無くも差し掛かりに付き、拠り所なく宿内を下し候故、当社よりも相尋ね候ところ、もはや出先に付き、後刻取斗方可申し立て様申し、則帰りの節、名主伝右衛門方へ智拳寺を差し入れ、今年は智拳寺足痛ゆえ、出先にて無心に付き、拠り所なく宿内を案内いたし候、後日の例には決めて致しまじく、来年祭礼の節、病気足痛に候はば、近院を相頼み候ても、今晩の勤め方致しまじき旨,確かに申し立て置き候。

 

  ◇文久元年(1861)

    七月十九日、虫送り在る。当年は村中集まり、甚遅参いたし、惣寄せの時刻凡そ四つに相成り候ゆえ、何時もの通り触れ当て置き候人足をもって、両社御札結願所花水へ相建てる。小旗は当社寺院共に名主へ渡し、村の衆へ相遣わし、ちゃうの屋にて定式のお神酒を開き、当ご神前より銘々帰宅となる。

 

  ◇文久二年(1862)

定式風祭り、十七日之席にて、当年は殊の外猪が出て荒らし付、十八

日中山鹿狩村中出る。寺社院は出ない、其節近日虫送りを致したく申

し候由申し候えども、急に流行病はしか(麻疹)に凡そ百二十二三十

人も煩い出し、重傷もこれ在り、虫送リは扨拉置二近村遠部迄札はし

か置く。 

    近村遠郷までも麻疹信心に取かまけ。延年に戒り、元治元年(186

4)七月六日に虫送り、但し安政六年(1859)末とし村内より当

社へ無心に及び候、中筋勤めの道筋、宿内のみを除き、当ご神前より

寺の大門へ出る。右大門外れより東へ下り、鍛冶屋の果吉蔵の屋敷の

往還エタの前へ出る。それより結願所へ往還を御下りに御執行相頼み

申したく、それより多年よりも此れ有り、殊には年久しく村内も、も

つれ在り候ども、おのおの仕法替えもこれ有り、名主も交代、伝右衛

門殿より酒屋逸三郎へ相廻し、長百姓八之丞殿・浜平殿も、是より諸

用内相勤め、百姓代重右衛門・喜代作(これは義父・五郎作代理)

両人ともに交代に付き、我等とも百姓代中村内より頼み出候義につき、

御聞き届けに預りたく、両人達より願い出候に付き、此の子七月六日

祭の節、はじめて右道筋で執行する。最も鍛冶屋村上道祖神前へ御抜

けになり候ども、苦しまず、唯々大切なご祈祷に付き、田畑の場をご

執行に預かりたいと申すに付き、

    田畑の場を御執行に預かり、以来外々等へ替わる事は無かった。名主・

長百姓案内に候へば、右の通りに道筋勤行可致す旨と相答える。最も

右の趣年番の処へ書き留め置き候と申す段に付き、今年より右筋相勤

める。札二本南北を廻り、花水へ立てる。

 

◇慶応元年(1865)‐

七月廿日、去年の通り、これ鍛冶屋果ての道より、往還道へ出候て結

願所へ行く、名主逸三郎殿・長百姓浜平殿案内なり。八之丞は五月貯

穀一伴に付き引籠る、諸用向き一切勤めず、遠慮いたして居り候。

 

◇慶応二年(1866)

六月十日案内、名主浜平殿・問屋八郎兵衛殿・百姓代喜代作澱案内にて、去年の通り中筋にて執行、北筋の寺へ百姓代八左衛門殿、南筋院へ百姓代源之助殿案内に立つ。去年七月より八之丞殿は諸役勤めを差し控えい遠慮しているにより、以来百姓代三人となる也。

 

◇慶応三年(1867)

六月廿一日、祭礼在り、定式之通り也、酒札は上げず、これは当年格

別につき高過ぎに付き見合と成る、中筋の案内は名主浜平殿・問屋五

郎兵衛殿相添へ、百姓代喜代作殿・八左衛門殿など也、北筋竜福寺病

気に付き、代僧へ酒屋逸三郎殿毀、南筋へ智拳寺へ百姓政右衛門殿相

添える。

 

 

以上






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最終更新日  2021年08月07日 16時09分58秒
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