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2021年07月23日
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穂坂牧『山梨県の地名』「日本歴史地名大系19」平凡社刊 一部加筆
 
 茅ケ岳山麓、現韮崎市穂坂町地区付近にあった御牧(勅旨牧)。「延喜式」左右馬寮に載る甲斐国の三御牧の一つで、毎年の貢馬数三〇疋は同書所載牧中で最大である(ただし承平元年に四〇疋貢進の武蔵国小野牧が成立する)。
「日本紀略」延喜四年(九〇四)八月一七日条の「御南殿、覧穂坂牧馬」という駒牽記事が当牧のみえる早い史料であるが、
天長六年(八二九)には甲斐国御馬の貢馬が行われ(同書同年一〇月一日条)、また同四年には甲斐国の牧主当を改めて牧監を置いているから(同年一〇月一五日「太政官符」類聚三代格)、甲斐の御牧の成立は少なくとも九世紀初頭までさかのぼるのは確実である。
ただ八世紀後半に令制下の牧を転入して設置されたとみられる卸牧の多くが、牧馬の押印に「官」字を用いているのに、穂坂牧が「栗」字であるのは(延喜式)、他の御牧と当牧との成立事情の相違を反映したものといわれる。牧域を具体的に示す史料はないが、当牧での生育頭数八五三疋との一志茂樹氏による計算数字があるように(官牧考)、毎年三〇疋の貢馬を維持するためには広大な面積を要したと思われ、現北巨摩郡双葉町の赤坂台地から同郡明野村小笠原方面にまで広がっていたとの推定がある(韮崎市誌)。 
御牧から貢進される馬は前年に検印され、翌年八月までに中央に送られて駒牽行事が行われた。甲斐国貢上の馬は左馬寮の所管とされたが、駒牽日は牧ごとに定められていて、当牧は八月一七日であった。
前掲の延喜四年をはじめ、同七年(日本紀略)・同一〇年(政事要略)は規定の一七日に駒牽が行われており、延喜五年(政事要略)・延長五年(九二七、「西宮記」)には八月二〇日と若干遅れるが、一〇世紀前半にはほぼ期日が守られ、貢馬数も延喜五年・同一〇年の例のように定数三〇疋が厳守されていたらしい。承平三年(九三三)八月一七日の建礼門において分与された甲斐国御馬(樗蕪抄)は穂坂の牧馬であろうし、前九月一七日に藤原忠平が下賜された「穂坂四鹿毛」も(貞信公記抄)、その年の定例日に真上された馬のなかからであろう。
ところが天慶四年(九四一)にはすべての御牧の貢馬が遅延する。これは前年の平将門の敗死によって終焉した将門の乱の影響とみられるが、これを契機に遅延するケースが目立ってくる。当牧においても
天慶四年の貢馬は二月四日で、数も二〇疋にすぎなかった(本朝世紀・政事要略)。同九年には規定どおりの八月一七日に貢進できたものの(北山抄)、
天暦元年(九四七)には九月四日二〇疋(政事要略)、
同二年一〇月一〇日一六疋(日本紀略)、
同三年九月二二日〈同書)、同四年一一月四日(北山抄)と違期・減数が続く。
 こうした事態は当牧だけではなかったものとみえ、天暦六年、太政官は御牧の所在する甲斐・武蔵・信濃・上野の国司に対して、「今後違期と定数を欠くことのないよう」厳しく命じ、違反すれば牧監は解任、国司は減給に処することとした(同年九月二三日「太政官符」政事要略)。その効果であろうか、
翌七年の貢馬は八月一八日に行われ(樗蒙抄)、
同八年は九月二七日であったものの(北山抄)、
同九年には八月一七日(西宮記)、
天徳四年(九六〇)八月一一日(同書)、
応和三年(九六三)八月一七日(樗嚢抄)、
康保元年(九六四)八月十七日(同書)、
しばらくは所定の期日が守られていたが、
天元元年(九七八)には貢進が遅れ、
九月二六日に武蔵国秩父牧とともに駒牽が行われた(「小右記」編年小記目録)。以後貢馬時期は大きく崩れて、
同二年には一〇月六日(同目録)、
永観二年(九八四)は一一月九日(小右記)、
以下
正暦元年完九〇三」月一四日(「本朝世紀」、三〇疋)、
長保元年(九九九二一月一四日(権記)、
同二年一〇月二八日(同書、真衣野とともに)、
同四年一一月一八日(本朝世紀)と一〇月・一一月が恒例となり、
寛弘三年(一〇〇六)の場合は翌年にずれ込んで同四年正月九日に駒牽が行われ(同書)、
同六年は一〇月五日であった(小右記)。
そうしたなかで、長保四年は珍しく八月一七日に駒牽が行われたが、この時は貢進したにもかかわらず「不中延期逗留状」をわざわざ奏上している(権記)。規定の駒牽日に貢進が行われないことが多かったため、延期逗留の解文を奏上するのが恒例化しつつあったことを示すものであろう。
 駒牽遅延は個別の責進時にも問題にされたが(「権記」長保元年一一月一四日条)、寛弘九年(一〇一二)四月一三日には甲斐国司に対して太政官符が発せられ(小野宮年中行事)、
定数(穂坂三〇疋、真衣野・相前三〇疋)を書上げたうえ、続発する違期・未進を厳しく咎め、期日および定数の遵守と良馬の喜進を強く求めている。しかしその効果はほとんどみられず、
長和五年(一〇一六)四月二三日の駒牽は前年分であり、藤原実資をして「去年八月御馬牽進、今年四年希有事也」と慨嘆させている(「小右記」同年五月三日条)。
寛仁元年(一〇一七)は前年分の貢進が当該年の規定日を過ぎた九月一三日に行われるという異常事態となり(左経記)、甲斐守源保任を召問して怠状を提出させるなどの措置を取った(「御堂関白記」同年九月二六日条)。
だが状況は一向に改善されず、
治安二年(一〇二二)も年越しの二月二日であったのをはじめ(左経記)、
万寿元年(一〇二四)一二月一日(樗嚢抄)、
長元元年(一〇二八二二月一〇日(日本紀略)、
同三年一二月二日(同書)、
長暦三年(一〇三九)一二月二七日(樗嚢抄)と年末の駒牽が続き(本章世紀)
完治二年(一〇八七)八月二一日条の記事が最後の貢上記録となる。
長暦三年と寛治元年は真衣野牧と一緒の貢馬であるが、その間の永承三年(一〇四八)二月二二日(樗嚢抄)、および応徳三年(一〇八六)一〇月一〇日(後二条師通記)の甲斐国御馬の真上も両牧によるものであろう。「延書式」にみえない組合せでの貢進は貢馬数を確保しようとする意図からであろうが、応徳三年には一〇疋しか貢進されていない。記録のうえで定数を満たした貢進は三度しかなく、減数の場合が多かったようである。ただ長暦三年の「真衣野・穂坂六十疋」の記事(樗嚢抄)が実際の貢馬数を反映したものだとすれば、甲斐の三御牧が定数を完納した唯一の事例となるが、当時の状況からは疑わしい。
 「中右記」寛治八年(一〇九四)八月一七日条には「甲斐国穂坂御馬逗留解文」の奏上記事が載るが、この後駒牽が実際に行われた様子はなく、以降は八月一七日が逗留解文奏上の儀式の日として、永く宮中の年中行事に残されるのである。このように駒牽は一一世紀末には姿を消すが、馬生産地としての牧の機能が完全に消滅したからではなく、現地においてはその後も牧経営が維持され、甲斐源氏の勢力基盤の一翼を担ったとみることは可能であろう。
小笠原牧は当牧を併呑して大きくなったとする説もある。なお貢進された馬は競馬などでも活躍している。天慶七年五月六日に行われた競馬では一番が穂坂対穂坂、五番および八番は穂坂対真衣野、一〇番は穂坂対小野と、全一〇番二〇疋のうち五疋が当牧出身馬であり(完暦)、永延元年(九八七)五月九日、右近馬場での競馬第三番では穂坂七葦毛に乗った左府生下野公里と同九鶴毛に乗った右近衛三宅忠正が対戦、敗れた鶴毛が翌朝目に涙を浮べて死んだという挿話が「古今著聞集」巻二〇に残されている。





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最終更新日  2021年07月23日 15時19分48秒
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