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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年08月02日
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カテゴリ:山口素堂資料室

誤伝 山口素堂の背景 山梨県の調査から


一 

 さて調査の手はじめに『白州町誌』・『甲斐国誌』・『北巨摩郡誌』等を読む。町内の石碑や痕跡を改めて調査するが、後世のものかりで残存する資料も少なく途方に暮れる。県内の刊行書の内容は、『甲斐国志』が中心に書されている。時代の経過とともに素堂家は甲府府中魚町の酒造業を営む家であり、教来石の家は郷士であったとの説が追加されている種々の辞典・文学研究書に出会う。 

また素堂の墓が在ると云う甲府尊躰寺に行き調査を始める。門外漢の私には理解出来ない点が多く何度となく訪れる。素堂の母の墓石や素堂を模した地蔵が新しい時代のものと感じられたし、親族以外に墓を訪れた跡が無い事も一抹の淋しさを感じた。(山口誓子の供養塔婆があった)私は甲斐が生んだ全国に誇れる文人素堂の墓前には線香の煙が絶えないものと信じていたのに現実は紙上だけの賛美であったのである。墓所には埼玉の俳人山口誓子が手向けた卒塔婆が傾いて立てかけてあったのも印象的であった。山梨県文学の歴史上、山口素堂は最上位に位置する人物である。諸本の中では無く人々の心の中に生きる素堂の希薄さが私には信じられなかった。

『国志』を再度読むがどう読んでも素堂が教来石村の生まれとは書してはいない。「祖先は甲斐国巨摩郡教来石村字山口の生まれ」としか読み取れないのである。素堂に関する諸本を読むと「素堂は甲府魚町の生まれ」「江戸の生まれ」などの諸説が入り混じっている事が分かってくる。しかし山梨県の素堂に関する歴史書は「俳人素堂」として扱い、その内容は『国志』の丸事引用で実際に再調査した形跡は見られずに、その後甲府文庫の生みの親功刀龜内氏の『甲州俳人伝』素堂の項と著名な素堂研究者の論文が大きく作用して、以後の素堂伝として現在まで伝わって既に定説化しているのである。最近では甲府城も大掛かりの調査の結果で、長年にわたり天守閣の無い城とされていた定説が覆った。度々歴史調査の難しさに直面するが素堂事蹟の真実を求めて『国志』以下の定説を捨て白紙の状態で素堂の生涯を追い求めることを素堂の墓前で誓い調査活動を再開した。

 

三、諸書を読み直して見たら

 

 県内外の古書店をはじめ図書館巡りを始める。仕事の合間の調査活動であり時間の遣り繰りに苦慮する。各地の知人からの調査協力もありは思わぬ進展を生む。素堂の足跡は芭蕉関係の書に多くの記載があり、その抽出を重ねる。しかし『国志』以前のものには素堂が教来石村字山口はおろか甲斐との繋がりさえ実証する文献一向に現れてこない。『国志』は素堂が没後百有余年を経て編纂されたもので「素道」として紹介されその筆調は他に見えない講談調で、この項は素堂の事蹟が主ではなく、元禄九年の甲府代官桜井孫兵衛の事跡を素道の項を借りて記載した内容で、その基は濁川の傍らにある「桜井社」と孫兵衛の親族である斎藤正辰建立の孫兵衛の「顕彰碑」である事も解かった。素堂の事蹟は顕彰碑には記載はなくそれを窺う記述も見えない。又現存する桜井社の建立も孫兵衛の死後で生祀では無いことは明白になった。(孫兵衛の没年は享保十六年、建立は十八年)

 『国志』の記載はその後の素堂伝に大きな影響を及ぼしている。特に濁川改浚工事の責任者の件は確かな資料を持たずに有名になって独り歩きする。虚実でも複数の同様な記事は読む人に史実として伝わりしかもそれは定説となる大きな要因ともなる。定説化の主因は高名な人が書す事と繰り返し同説を掲げる事であり、これは歴史に良く見られる「歴史洗脳」とも云える。『国志』以外に素堂の動向を伝える文献は何処にあるのであろうか。

 素堂周辺の資料からは元禄九年の動向は不詳でこれは素堂の生涯で度重なる不幸に原因していると思われ、それは元禄五年の妹の死去、元禄七年には朋友松尾芭蕉と妻の死去、元禄八年には長く連れ添った母と死別、更に元禄九年一月には親友人見竹洞が死去して生涯で最も辛い時期となっていた。こうした事実は『国志』には記載されてはいない。これまで「素堂は妻を娶らず」従って「素堂には子供がない」、そして素堂の母の没年は甲府尊躰寺の墓石の元禄三年刻字 老母山口氏市右衛門尉建立を根拠に元禄三年が定説になっているが、素堂には妻も子供もいて嫡孫まで確認でき、しかも素堂の母の没年は確かな資料で元禄八年夏の事である。

 元禄八年には素堂は亡き母の生前の願いの甲斐身延詣でに江戸深川を出発する。道中記には俳諧や漢詩もあるがこれも山梨県ではどうした事が紹介される事が無い。素堂は尊敬する元政上人が母を伴い身延詣でをしたのを羨み身延詣でに出立したのである。道中の紀行『甲山記行』の「甲斐は妻の故郷」「甲斐府中外舅野田氏を主とする」の言は素堂の出自に及ぶ大切な部分である。野田氏は確証がないが当時の甲府代官野田勘兵衛が有力で勘兵衛の父同じく甲府代官野田七右衛門で代々甲府在住の家柄で、野田氏は素堂の妻の父であるがこれも諸本には見えない。素堂は寛文元年に江戸に出るとされるが、前年の万治三年には府中は大火災に見舞われ府中は殆ど消失する。山口家が如何に富豪であれ家督相続した長男素堂が母を連れこの時期に江戸に出ることなどは有り得ないしそうした記載資料は見えない。寛文年間の山口家市右衛門の母は今諏訪村に在住していたことが資料により判明している。素堂と山口屋市右衛門家は資料からは関係のない家系と思われ後世の作為と結びつけがこうした誤伝を生む結果となったのである。

 当時の俳諧での地位と信頼度は芭蕉より素堂の方が高く、芭蕉も素堂を先生と称した事は有名である。現在俳諧中興の祖とされる芭蕉の俳論の中には既に素堂が予兆を表わしていて、これは資料で確認が出来るのに何故か無視され論外になっている。素堂は文学の世界では芭蕉の陰に追われ業績を認めてもらえない犠牲者でもある。

 

四、調査活動から見える素堂の事蹟 

 

 芭蕉時代の素堂の活躍と事蹟については正確に伝わっていない。幕府儒官人見竹洞(宣卿)とは特に親しくその親交は深く長い。竹洞は素堂の家を訪れた時の様子を日記に書しているが、その屋敷地の広さは広大なものである。また元禄六年に取得した深川の抱地は芭蕉庵に隣接するか、包含する場所で四百四十余坪の敷地で幕府郡代伊那半十郎の屋敷跡地である。

 素堂は門人ではないが水間沾徳を林家に紹介したり、甲斐谷村の藩主で後の幕府老中になった秋元但馬守に芭蕉と同じ伊賀出身の和田蚊助を俸禄二百石で仕官させている。芭蕉の筆頭門人とされる宝井其角や服部嵐雪も素堂の周辺の人で俳諧集の序文や跋文を与える程の間柄であった。素堂が序文・跋文を与えた俳諧人は多く時の有名な俳人は全て素堂の指導を請い慕ったと言っても過言ではない。重ねて言うと素堂は俳人ではないのである。一時はその道に没頭しようとした時期もあったが、それは芭蕉に任せて学識者として地方に出かけそれは晩年まで続いた。芭蕉亡き後には俳諧の復興を目指して活動し京都とには頻繁に出かけている。晩年の活躍は『国志』も語られていないものである。晩年は困窮した様な記述書もあるがそれは違う。素堂は没年の前まで活動を続けたのである。

又芭蕉の俳諧集の中には素堂の編集意見や素堂と模索した新風論もあり、二人で奏でた数々の試みは絶妙の二人三脚と賞賛する文学者も居られる。

 『江戸両吟集』京都の伊東信徳を加えた『江戸三吟集』や素堂と芭蕉の心の葛藤を描いた「蓑虫句文の遣り取り」や『甲子吟行』(『野晒紀行』)の絡み等は当時の俳人の追随を許さないものである。

 しかしこうした素堂の事蹟を芭蕉の事蹟にすり替えてしまった功罪は多きくそれが後世の素堂伝に大きな影響を与えた。

 私は素堂と芭蕉の句作の優劣については触れる事は出来ないが、客観的に見れば新風を提示する素堂は芭蕉等の俳人に大きな示唆を与えていたのである。その素堂の句に奥行きがないと云う指摘は当たらない。

 芭蕉中心の俳諧論は戦国時代の武将中心の記載内容と良く似ている。織田信長が本能寺で明智光秀に殺害されたと云う定説も、矢切止夫氏が資料をもって史実で無い事を訴え、最近でもその説を取る人もいるが、歴史学界には何の変化も起きない。一旦定説になるとなかなか訂正されないのがこの世界なのである。

 隣の長野県の考古研究者は縄文時代既に稲作があった資料をもって主張したが、多くの考古学者は一笑に伏していた。最近では実証される遺跡が出現し定説の改変が迫られている。一部の学者の説を定説化してしまった事が起因している。素堂や県内歴史についても定説を繰り返すのみでなく確かな資料や遺構の出現が期待される。

 話は横道に逸れたが素堂の功績も長年にわたって芭蕉信仰で来た文学界では見直される事はなく、最近更に希薄になって来ている。素堂の事蹟資料は現在でも生きているのである。表面に出ないだけの事である。

 私は調査では作品よりは生活の一端を窺わせる部分の記述を重視した。また序文や跋文、及び俳文や前書きを拾うことで素堂の事蹟と人物像を探ることに専念した。理解不能の箇所については師と仰ぐ小川健三氏にお願いして理解を深めるために、山梨県立図書館に納められている数々の素堂関係書のうちで特に俳諧作法秘伝とも云うべき「素堂口伝」は重要なもので、素堂没後も与謝蕪村や小林一茶にも少なからず影響を与えていたのである。俳諧にのめり込む事のなかった素堂の句作を「奥行きがない」「追求心がない」「愚作が多い」などは素堂を理解されない人の妄説で、俳諧を業とする人と一芸として俳諧を嗜む人を一緒にして論じる事は避けるべきであり、素堂に対するこうした評は素堂の人間性にまで及ぶ事もあるので十分な配慮が必要である。素堂は芭蕉や他の俳人の様に業俳宗匠では無く、広い活動を展開し俳諧はその一部分であったことの理解が欲しい。

 

五、実録 山口素堂『甲斐国志』他について

 

一、素堂は甲斐巨摩郡教来石村字山口の生まれとする説。      

一、素堂は甲斐甲府府中魚町の生まれであると云う説。         

一、素堂の生家は魚町山口屋市右衛門である。               

一、素堂の家は「山口殿」と呼ばれた。                         

一、素堂は二十歳の頃、江戸に出た。                

一、素堂の仕官先は(否定 桜井孫兵衛の僚属となるは年齢で無理)

一、素堂は甲府代官桜井孫兵衛の僚属であった。(否定 形跡は無く、両者の年齢から云って無理)

一、素堂は林家の門人か(肯定 資料から裏づけられる。元禄六年)

一、素堂は父母の墓は甲斐尊躰寺か。(疑問 素堂の墓は江戸であり、母や妻の墓も江戸であり、尊躰寺の墓は山口屋のもの)

一、素堂は甲斐濁川の工事を指揮したか。(疑問 『国志』の以外の文献が無い)

一、甲斐は素堂の出身地か。(疑問 素堂は自ら著した『甲山記行』で「甲斐は妻の故郷ととれるくだりがある)

一、素堂の墓所は(否定 『国志』のみ甲府尊躰寺説。素堂の墓所は江戸の感応寺(今の天王寺)後甥の黒厳浄院に移す。位牌は天王寺に現存)

一、濁川工事の完成にともなって建立された「山口霊神」は   (疑問  桜井孫兵  衛の生祠も死後のもの。山口霊神は『国志』以後の諸本のみ)

一、素堂の母の没年は元禄三年か(否定 素堂の母の死は元禄八年)

一、素堂は官兵衛・市右衛門を名乗ったか。(否定 『国志』のみ。名乗った形跡は見えない)                               

素堂の家系にある寺町百庵の『連俳睦百韻』の序文によると素堂は太郎兵衛

一、素堂の祖先は山口に住んでいた郷士か。(否定 資料がない)

一、素堂の生誕日は五月五日か。(疑問 『連俳睦百韻』では正月四日とする)

 

 他にも疑問点があるが、『国志』一書のみに記載された事項が如何に多いかが理解していただけると思う。一書のみで史実とするのは危険な事で、歴史書は後世書されたものより時代が近いものが優先されるべきである。『国志』より三十年前に刊行された『連俳睦百韻』には素堂の家系を伝えている。もし『国志』に素道(素堂)の記載が無かったら、『連俳睦百韻』の云う「素堂は太郎兵衛で鼻祖は蒲生氏郷の家臣山口勘助である時点で蒲生氏郷から離れ町屋に下ったと云う。素堂の出生については定かではないが、その後の活動から見て江戸とするが妥当であろう」となる。残念ながら『国志』の編纂者は『連俳睦百韻』を見てはいなかったのである。

 素堂の仕官先の考察については本分を参照していただくとして、素堂は延宝六年から七年にかけて九州旅行に赴き唐津で越年する。これは素堂が仕官先への別離の挨拶に行ったとの説もあるが、この後に素堂の俳諧活動は活発になる。素堂の仕官先は現在でも不明であるが、九州旅行が深い関係をもつことは間違いない。長崎や唐津と素堂の関係はこれも資料が見えないが驚いた事に長崎県の山口姓は全国でも一位である。素堂没後において芭蕉の門人の向井去来に俳諧の再興を促す。去来は長崎の出で家は代々儒家であり軍学は甲州流の奥義をきわめ、素堂が晩年移住まで考えた京都の広沢の池に近い落柿舎に寓居していた。後に『俳諧芭蕉談』を著した長崎の卯七は、去来の門人でその著の中に「素堂云」を多用していて素堂に近い人物なのである。

 山口素堂に最も近い人物として甥の山口黒露がいるが、素堂の晩年には京都にいて、素堂の逝去の後始末をし翌年追善興行を催した人物である。黒露は甲斐府中の魚町山口市右衛門の家僕が太郎右衛門を名乗り、後に山口屋を継ぐとする説もあるがこれは『国志』と『連俳睦百韻』を都合良く結びつけたもので、実証できる資料は無い。中には蒲生氏郷の家臣であった山口勘助が何らかの理由で甲斐教来石村字山口に移り住み郷士となり云々などの資料を持たない推論が史実の様に伝わっている。素堂の家柄については『連俳睦百韻』が詳しく信憑性もあるのに『国志』主論の補佐的に利用されているのが現実である。

 しかし私は『甲斐国志』の説が真実で素堂は甲斐の出身である事を祈っている。三年間の調査の結果を拙い文章で綴ったのがこの研究書である。多くのご批判を仰ぎ、今後も素堂の真実の事蹟に近づきたい。

  信濃の小林一茶は素堂伝来の『仮名口決』を大切に所持して常に参考としていた事は余り知られていない 

 

素堂翁京都                              

 

甲斐国出身とされている山口素堂についてその全生涯を調査しているが、素堂の京都・大阪等京阪地方の事跡についてはほとんど伝えられて居ない。荻野清先生や清水茂夫先生がその著述に若干触れて居られるが、山梨県に於いては紹介されている書物は未見である。素堂は晩年、京都に住む事に憧れて句作の中にもその気持ちが滲み出ている。

 

擧堂編の『眞木柱』(元禄十年・1697)刊には

             都ゆかしく

   いづれゆかむ蓮の實持て広澤へ

 

と詠み、又『とくとくの句合』素堂の自らの著、三十六番句合 自句を左右に別け、判者も素堂翁の自判。

                二十八番 蓮の實

   小野川洛陽に住居求むとて登りける頃

   予も又其志なきにしもあらず

   蓮の實よとても飛な広澤へ

 

 何故に素堂翁が爰まで京都に憧れたのかは定かではないが、元禄十年以降素堂翁の京都往きは頻繁になる。

 

     元禄十一年(1698)素堂五十七歳

 夏から秋にかけ素堂上京。芭蕉の塚の詣で発句二句を手向け(『続有磯海』)鳴滝で茸狩りをし(『橋南』)芭蕉の遺風が天下に満ちた今こそ新風を起こすべきと去来に語る。

 (『去来抄』)

 

元禄十三年(1700)素堂五十九歳 

 三月、嵐雪が上京の為出立。義仲寺の芭蕉の墓を訪ね素堂に会い(『風の上』)京に入る。

 

元禄十四年(1701)素堂六十歳             

 二月二十日、素堂上京の為出立。(『元禄俳諧集』)

 八月、素堂上京し越年。(々)

 元禄十五年(1702)素堂 江戸へ帰る。

 

元禄十七年(1704)素堂六十三歳 

 四月上旬 素堂京都に向かう。(『元禄俳諧集』)この年素堂は 越年か。

 

宝永二年(1705)素堂六十四歳 

 三月支孝が上京し、来遊中の素堂翁と会う。(呂錐・六之宛支孝書簡)

 素堂は支孝・座神編『すの字』に序文を記し、閏四月に京を去り、五月まで鳴海の蝶羽亭に滞在し江戸に帰る。

 

宝永 四年(1707)素堂六十六歳 

 春、素堂上京し『東海道記行』を草す。(『白蓮集解説』)

 

 【参考】

 

延宝二年(1674)素堂三十三歳 

『廿会集』北村季吟

             信章(素堂)歓迎興行。

             霜月二十三日江戸より信章のぼりて興行

  いや見せ字じ富士を見た目にひえの月            季吟

  世上は霜枯こや都草                                              素堂

  冬牡丹はなはだとしはやらせて                  湖春

 

寛文五年(1665)素堂二十四歳  

『素堂の研究』荻野清氏著。素堂は寛文五年大和を訪れている。

註…残された句からすると、時期的に少々早そうである。出かけた時期としては、延宝・天和・貞享の頃数度 に亘ったと 考えられる。小川健三氏)

 

年不詳 予が若かりし頃。難波津にて興行(素堂翁序文 「蟻道が句のこと」)

  春日の山の下手代めか                    

   藤原の又兵衛とそ名乗ける           梅翁(西山宗因)

 と付けられしを、人々興に入侍りき。云々

 

元禄十三年(1700)素堂五十九歳

 

嵐雪を悼む辭 (宝永四年・1707 嵐雪歿)

嵐雪子は芭蕉の翁とひとしく、予が市中に住しころより逢なれて、凡みそちあまりの舊知音也。(中略)洛陽に遊ひしころ、大津四の宮にて、本間佐兵衛丹野事勧進能の沙汰を聞きまかりけるに、嵐子も彼浦にありて、山本氏の別業にて、両三日相か たらひ、それより高観音にうそふき、からさきにさまよひ、八町の札の辻にてたもとをわかちしより 面会せず。云々 (素堂家集より)

 

 さて素堂と京都を結ぶものそれは何かというと様々な事柄が推察される。

先ず茶人であり素堂が號したとされる【今日庵】の所有者でもある山田宗偏と素堂の関係が挙げられる。宗偏は宗旦四天王の随一人者で宗偏流の素堂開祖をした人物で京都鳴滝に四方庵があり晩年江戸の四方庵で歿したが素堂翁と関わりは深く宗偏の茶書にも素堂翁は序文を記している。鳴滝の傍らには素堂の句作に見える【広沢の池】もあり素堂と京都を結ぶ線の一本である事は間違いないものと思われる。

 素堂の『松の奥』と『梅の奥』は元禄三年(1690)の著した俳諧秘伝書であるが、後世大野酒竹氏・荻野清先生は偽書とされて居るが、清水茂夫先生は違った見方をされている。私は素堂が書されたものであると信じている。著述ご時代を経る中で写す人物の挿入が有ったり、内容が変る事は諸書にもよくあることである。

 

 又、一人の人物を崇め奉る為に他の人物の著作物を疑書・偽書とする類はこれもよくある事であるり、俳諧に於いて芭蕉をまるで神人の様に計らい汚れた所や同時代の俳人達を全て芭蕉を中心にしてしまって居る刊行書もあまた見受ける。素堂翁が芭蕉に対しての人間的な接し方や影響は深く芭蕉の俳諧や人生に刻まれているのにそれさえも多くの書物は省き芭蕉を中心に置きたがる。芭蕉の生き方を認めある時は諫め励ました素堂の当時の俳壇に尽くした功績と共に高く評価しなければならない。極言すれば「素堂が居なかったら現在のように神格化した芭蕉像も有り得ない」という事である。『松の奥』についても清水茂夫先生が調査研究され、山梨大学の『学芸部研究報告』に発表されて居られる。研究報告は、素堂の人生・俳諧・和歌・河川改修等多岐にわたりその洞察の深さには敬服する。その中の『松の奥』の中の著述にも見逃せない記述が随所に記されて居る。

 

 ※……亦道の邊に清水流るゝの歌は、そゝき上たるるが如し、至極きょうなる所と持明院殿は仰せられしなり。

 

※……予一とせ鎌倉一見の時

             目には青葉山ほとゝきす初鰹

 

※……愚老中頃池の端に住居し侍りしに

             塔高し梢の秋の嵐より

            その後服部嵐雪

             笋やかり寐の床の隅よりも

            と云し、よりと云ひよりもと云面白し。

 

 






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最終更新日  2021年08月02日 07時03分34秒
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