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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年08月06日
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  異説日本史.人物篇 義光 足柄山の笛に闘する疑問

 山梨県には新羅三郎義光の由緒を持つ神社仏閣が沢山ある。これは武田家が新羅三郎をその祖とすることから始まる。

 彼は甲斐に来たことも、住んだこともない。後世の神社仏閣の由緒書はその殆どが創作由緒であり、これはヤマトタケル・弘法大師などの伝承とも類似している。

 また足柄山の『笙の笛の秘曲伝授』についても、史実として取り上げている書も多く見られる。今回はその経緯と間違いを指摘する。

 陸奥にある兄義家め苦戦の報に接し、左兵衛尉を辞して東下した新羅三郎義光が、足柄山で豊原時元の子時秋に笙の笛の秘曲を伝へて、別れた話は有名であるが、近時學者の研究によれば、これは些か疑問が多いいう。

まず、その話を述べると、義光は豊原時元の弟予で管絃の妙を極めていた。時元には時秋という子があったが、未だ幼少であつたので、大食(たあじき)入詞曲は義光にだけ教えて卒してしまつたのあった。

こゝに義光は奥州の合戦に参加することに成り、京を立ち、近江の鏡の宿にっいた頃、烏帽子を付けた男が後れじと駈けて来た。これは豊原の時秋であった。義光は、何故に、と問うたが、ただお供を申したいと請うたのであった。義光も仕方なく暫く時秋を伴い足柄山の関まで至った。

そこで義光は、「この関は厳しい。しかし自分は官を辞し命はなきものとして罷向ったのであるから、闘は厳しくとも蹴破って通るが、そなたはそれ程の用向きはないから、これから戻ったがよかろう」と懇ろに諭した。しかし、時秋は肯じない。頷く義光は、その意中を悟ることが出来た。そこで、馬を下り楯二枚を引き、鞘より一枚の文書を取出して時秋の前に置いた。これはそなたの亡父時元自筆の秘曲の譜である。自分は今や千里の戦いに赴く、生きて帰る事は期し難い。今これをそなたに授けよう、といって取らせ、たまたま月明を幸いも笙を奏して学ぶべき処を授けて、東西に袂をわかった。(古近著文書・時秋物語)

 これについて、松本愛重・岡田正之・大森金五郎氏などの考証があり、いづれも一致した誕をなされているが、ここに岡田氏によると、義光が奥州へ下向したのは寛治元年(1087)八月のことであった。この年には誤りはない。然るに、寛治元年は、時元は未だ生存中で、時秋は未だ生まれていないのである。表示すれば、

    寛治元年(1087) 義光下向   時元三十歳

    承徳元年(1097) 時秋生る   時元四十乖

    元永二年(1119) 時秋二十三歳 時元六十二歳

    保安四年(1123) 時秋二十七歳  時元卒、六十六歳

 

となる。中右記元永二年(1119)九月指目の條に、

殿下之北政所於鴨院殿寝殿養佛云々、

楽人左時元右時秋、

とある。また同年十月十五日の條に、

今日舞業次第云々、召時元云々、

とある。

これは義光め奥州下向より三十二年後にあたる。また『績世継』に、堀河天皇の笙を善くして時元を師範となされたことを記して曰く、

  時元といふ笙のふえふき御おぼえにて、

夏はみづし所に氷めしてたまふ、

おのづからなきおりありけるには、

すゝしき御あふきなりとて給はせなどせさせ給ひけり。

とあり、さらに『楽所袖任』および『地下家傳』を観ると(この二書では、一年の相違があるが、家傳の方をとれば)時元は保安四年(1123)六十六歳で卒しているのである。保安四年より寛治元年(1087)まで逆算すると二十七年の隔たりがある。これで、義光下向のとき時元は卒していたというのは誤まりであることが分る。

 また時秋は、『楽所補仁』によると、保安三年には二十六歳ぐらいであつたから、生れたのは承徳元年(1097)頃であり、時元の卒した時は二十七歳ぐらいであった。そして、義光下向の年よりは十一年余後に生まれているのである。

 さり乍ら、この風雅な話は全く形蹟のないことではない。『著聞集』や『時秋物語』は、その記した者の聞き誤りでもあろう。まこと話は『績世継』『にゐまくら』の章にある。

まじりまろ(交じり丸 笙の名前)は

時忠(時元の兄)が子の時秀といひしが傳へ侍りしを、

子も侍らざりしかば、

この頃は誰れにか傳へ侍らん、

時忠は刑部丞義光といひし源氏の武者の好み侍りしに教へて、

笛をもとよりとりこめて侍りける程に、

義光あづまの方へ罷かりけるに、

時忠もいかでか年ごみのほいに送り申さざらんとて、

はるばると行きけるを、この笛のこと思ふにや心得けん、

我が身はいかでも有りなん、

みちの人にて此の笛をいかでか傳へざらんとて、

返したびたりければ、

それよりこそ暇乞ひして帰り上りにけれ。

 

義光と時秋の足柄山の話はこれから誤ったのであろう。

ただ、かの碩學老儒の手になつ『大日本史』に、『績世継』をとら

ず、辻棲の会はぬ『著聞集』をとつたのは何故であらうか。






 武田家歴代の当主 初代 新羅三郎義光

 甲斐守頼義の3男。母上総介平直方の娘。常陸介。刑部丞。甲斐守。左衛門尉。

 弓馬の達人。箋の名人。八幡太郎義家の弟。

甲斐信濃源氏綱要(以下細要と小う)

  によれば、生年は長久5年(1044315日。

ただし寛徳2年(1045)、天喜5年(1057)など諸説がある。

《註》これは没年の違いから生まれる。

近江国三井寺の新羅明神の新羅善神堂の社前で元服したので世に新羅三郎といわれる。後31年の役(1083)のとき、兄義家を助けるため奥州へ下る途次、相模国足柄山の山中で隼の秘曲を師匠豊原時光の遺児時秋に伝えたというエピソードは有名。

《註》これは両者の年代から創作歴史である。

一時、常陸国や甲斐国若神子の館に住んでいたが、その後は主として三井寺に住む。

《註》山梨県には新羅三郎の関連する神社仏閣は枚挙に暇がない。(『甲斐社寺記』)

 また、義光が甲斐に住んだという確実な資料は持たず、後世の系譜などにより創作歴史部分が、歴史史実として諸書に書かれたもの。  

 天喜4年(1056)、後冷泉天皇から父頼義が賜わった日本最古の「日の丸の旗」(御旗)と庶民八領の鎧の一つで義家(一説に義光)が使用した矢をも適さないという「楯無の鐙」(国宝)が武田家に伝えられて家宝となり、その袖についていた菱紋が武田家の家紋となる。

大治2102日に三井寺で死去。享年83(ただし異説がある)。墓地は土饅頭形式で三井寺の塔頭法明院の裏山にある。法名先甲院殿唆徳専了木居士。甲州における関係寺院は正覚寺(須玉町)と義光開基の大聖寺(中富町)である。なお「楯無の鎧」は菅田天神社(壇山市)に収められている。

《註》この鎧については諸説があり、一説には神功皇后が三韓征伐のとき着用し、住吉神社(大阪市)に納められていたが、天喜4年に源頼義が安倍頼時を討っにあたり同社に祈願すると、御旗とともに授かり、これが後に義光に伝えられたという。また平治の乱に敗れた源義朝が東国へ逃げるとき源氏八領の鎧を捨てると、石和信景(第3代清光の子弟か)

がその中から楯無の鎧を拾い上げ、それが武田家に伝えられたという。そして信玄が甲府の鬼門鎮護の菅田天神社(塩山市)へ納めたとか、武田家の滅亡後に向岳寺(同市)の大杉の根元に埋められているのを徳川家康が掘り出して同社へ納めたともいわれている(磯月正義氏監修『図説武田信玄』)。

 

真説 新羅三郎義光

武田義清・清光をめぐって(『武田氏研究』第9号 志田諄一氏著 一部加筆)

文中の各標題は加筆

 

 甲斐武田氏の出自については、新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称したとか、あるいは義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った、ともいわれてきたのであります。

 これらの説は長い間定説とされてはきたが、従来も甲斐武田氏の出自に関しては釈然としない面があったのです。それは『尊卑分脈』や.「武田系図」に、義光の子義清が「甲斐国市河荘」に配流されたと記されていたからであります。義清の配流が甲斐源氏の土着のきっかけになったわけであります。これは甲斐武田氏の研究にとっては、もっとも重要な史料であり、なによりも間題にしなければならなかったのであります。

 だが江戸時代以来の研究者は、このもっとも重要な史料の解釈を一歩から誤ってしまったのであります。義清が甲斐国市河荘に配流されたということは、犯罪により流罪になったことを意味するわけであります。そうすると、甲斐武田氏は、流罪人義清を祖とすることになるのであります。

 そこで武田を最初に名乗ったのは、義清ではなく孫の信義が武河荘武田に住んで武田氏を称した、としたのではないでしょうか。

 義清配流の事実は、甲斐武田氏にとって不名誉なことと考えていたことが知られるのであります。この事実を正面から取りあげて否定しようとしたのが『甲斐国志」であります。

 そこでは、

「義清ガ初メ官ヲ授カリ市川郷ニ入部シタルヲ誤リテ京師ヨリ還サルト憶ヒ、配流ト記シタルナラン、必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」

と弁解しているのであります。「必ズ流罪ニハ有ルベカラズ」というのは、義清が流罪者であっては絶対に困るのだ、という強い意志がみられるのであります。

 「二宮系図」でも義清が甲斐の目代青島の下司になり、入部した、と記しています。『甲斐国志」の説は広く受けつがれ定説となりました。

 奥野高広氏の『武田信玄」にも、「義光の二男義清は市河荘と青島荘の下司として、この地に土着した。新羅三郎義光は義清を嫡子と定めた。つぎに義清・清光父子が経営に着手したのは巨摩郡北部の逸見郷で、逸見その他の荘

園を成立させた。清光の長子光長は逸見荘を守って逸見の始祖となり、次子信義は武河荘の武田に住し、甲斐武田氏の祖とたる家柄を築いた」と述べております。






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最終更新日  2021年08月06日 07時12分02秒
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