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2021年08月07日
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カテゴリ:俳人ノート
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​山梨の俳人 石原八束氏




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『俳句年鑑』 巻頭言 俳句批評について 石原八束氏著

 

一部加筆 山口素堂資料室

 

山梨県錦村二之宮(現・笛吹市御坂町二之宮)の人

 

 今年二年間、雑誌社の命に従って、毎月一回の鼎談の批評会に参加してみた。様々な句に出合い、様々な意見をも聞いた。それについて当人も様々のことを考えさせられた。相手の二人が当方より十八、九歳も後生の男ざかりの中堅であって、意見には初めより、勢いがあった。議論は活発であったから、ときにぱ当方もそれにまき込まれて混乱しそうになったこともしばしばであった。座談、鼎談というものは結論が

はっきり示されずに、途中で尻切れトンボに終ったり、横道にそれてしまったりすることが多いのが、読者からみると、とかくもの足りないのを痛感するといった場合もある。

むろん、これとは反対にいきなり面白い問題点が提言されて会話が核心をついて興味も湧く場合もあるが、私自身は、どうもこの座談会というのは苦手である。意見でも批評でもまず文章を通して知りたい。どういう発想とどういう知識や書き方による文章によってその結論をどう読者に訴えてくるか、いねばその人らしい文体で読者に伝えてくれるその道すじの鮮やかさ、面白さを味わいながらでないと、詩歌の批評などは読みたくないのだ、と言っていい。

 

こんな考え方を持っている私が、どうして一年間も苦手の鼎談を続けることが出来たのだろう?と他人ごとのようにつぶやきながら、実はいまもって冷汗をかいているのである。

何事もスピーディに進む今の世の中だから座談記事を読みかじって時代の動きを知ったかぶりをしているのでは、実はよい俳句は作れないのであることくらいは、今の賢明な読者は承知の上で、雑誌には一つくらい座談記事があったほうがよいと一般は考えていることもまた事実であろう……。

 ともかく、苦手の鼎談ではあったが、このことを通じて私はいくつかの新しい体験をして、自分の考えを整理することができたのはいねば苦労甲斐のあることであった。

 その一つは毎月読む数百句の中にはかなりの数の佳品秀作があって、いま「結社の時代」というその結社誌からはこれ程の秀作は見出せないことをも考え併せると、総合誌の俳壇における役割の大きさを再認識する思いであった。こうした佳品秀作の鼎談に於ける評者三名の評価は、しかし、余りにも大きく異なりすぎていることが多かったのには、ただただ驚くばかりであった。

 もともと、批評ということは水掛論が前提とされるのが当然のこと。どれがよく、どれが悪いということは言えない道理である。そのことにはすぐ気付いたので、こころみに私は他の諸雑誌に載る評論や秀作鑑賞文などを毎月何篇か読みあさってみた。ほとんどが私どもより十五も二十も、或は三十も年下の筆者であったけれど、論評の基本はすでに今から二十年も三十年も前に、当時気鋭の評家が提言したことの焼直し評論がほとんどであって、それらを踏み越えて少しは自分の批評をも身につけて来たつもりの当方にとっては、こうした二番煎じの評論でも、または幼稚な眼力にしても、ただうんざりするばかりであった。

そこで、一転してそれら批評家が作る俳句そのものに、二、三年来の「年鑑」に当って調べたところ、これがまた個性も新意もない無気力の作品であって、見るべき程の作句力を示しているのはごく限られた人ば

かりであったのにも更に驚いたのである。

 つまり、俳句のような(短歌も現代詩も)特別の専門文学は長年根気よく自分のモチーフを選びテーマを限定してこれを掘り下げて来たものでないと、徹底しては、俳句を鑑る眼力はそなわって来ないものである、ということをここで改めて思い知らされたのである。そうして、そのためここ十年くらいの間は、新しい俳句評論家は育っていないのではないかという大きな失望感を背負うこととなったのである。これは自分をもふくめた俳句人の責任にちがいない。もう少し別の展望がひらけてこないものだろうかと。意をつくせないがこれが一年間の鼎談を続けてきての第一の率直な感想ということになる……。

 

ところで、最近詩人や歌人が俳句に深く関心を示しているのは、俳句という定型に惹かれるからだろう、という意見が誰かの論評の中にあって、これは違う、と思ったことを忘れない。私見で言えば、現代詩人は自分たちの詩の中に、俳句にみられるような自然をもっととりこみたい、と考えているのではないだろうか。自然の中にみられる原始的なユーモアに惹かれているのではあるまいか、と私には思われるのである。

この問題も実は根の深いことであって一概には論じられることではないが、俳人である私などの考えで言えば、先に言うような新俳句の育だない第一の原因は、俳人が余りにも、文化の根をもたない自然に溺れすぎているためではないか、とさえ思っているのである。自然に簡単に溺れてばかりいて、詩というものの文化的な或は哲学的な思考や探求を忘れがちなところに俳句の脆さがあると思えるのだが、これもまた俳句評論の今後の大きな課題といっていいだろう。






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最終更新日  2021年08月07日 15時36分48秒
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