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2021年08月08日
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白州町下教来石の文人(俳人) 塚原甫秋、幾秋、雲鳳

(参考資料 続・土方物語 -白州点描-)

 

下教来石に塚原甫秋、幾秋、雲鳳と三代続いた俳句一家がある。

甫秋の生年没年は解らないが「山梨県教育百年史」に依ると文化年間寺小屋を開き「教庵 をしえ」と称し実名を彦平と呼んだ。五十才の祝賀に寄せられた詩は駒井の柏斉源重礼、竜王の青柳南嶺、小笠原の俳人金丸朝平、塚川の輿石豊一、谷戸の森越義敦、義樹父子、甲府の天野蜀山等俳友、寺小屋関係の友人から贈られて居る。

俳諧の雲水として諸国を行脚し代表作として

日長中蝶狂い込む関屋かな

小さいは女の業か雪まろげ

等の句がある。

 

幾秋は甫秋の子で彦平教庵を継いだ。晩年は中風で右手がかなわず左手で字を書いたが結構達筆であった。明治十七年(一八八四)七十九才で逝去、明治十五年(一八八二)七十七才の時、山高の神代桜にあやかって句集『大桜集』を出し、実相寺境内に芭蕉の句碑を建てた。『大桜集』は扉に県令藤村紫郎の書、序文は青島貞賢、抜は駒峰中山正俊納める句詩、和歌は甲信一流の人達を網羅している。

雲鳳は幾秋の子、孝心深く明治十三年(一八八〇)明治天皇巡幸の際に召されて、金円を賜って居る。明治三十年(一八九七)七十才で物故、韮崎の凧塚奥野宇石の書いた碑が一時紛失した時、替わるべき物として韮崎の穂坂祖竜、祖光と共に之を建てて居る。

咲きにほう故の山高の大桜

たちさりがたき花の木のもと   幾秋

親とともに幾世をかけて仰ぎみん

まれのさくらに雪の富士の嶺   雲鳳

 

参考 〔塚原幾秋〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)

 

甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代

 

文化年間以降、下教来石の甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代によって、この地方の俳諾の道が高揚された。幾秋は文化二年(一八〇五)下教来石一五四番戸に生れた。幾秋の父は通称彦平といい、号を甫秋と称した。幼少のころから風雅の道を志し、俳諸雲水として諸国を行脚し、見聞も広く超然として衆にぬきんでていた人である。幾秋はこのような父の影響もあって、風流の道に詳しく、各地の俳人と交わり、明治六年(一八七三)初代鳳来小学校長として教育にもつくした。

幾秋は通称の名であり、また俳号でもあって、父の教庵を継いで号ともした。この時代は県内でも峡北地方は府に俳諸の浸透がおそかった。それでも山口素堂とその弟子の輩出、貞享三年(一六八六)四月、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途次、教来石宿に立ち寄ったことなどから、この地にも俳諧の道が盛んになっていった。

(註 この記載は諸書に紹介されているが、確かな資料は持たない)

幾秋の宗匠としての活躍は各地にその事績が残されており、峡北の天地に燦燗たる光彩を放った。当時の宗匠仲間としては、石原嵩山、小野松濃、広島南里、有泉?斉、輿石守郷、山本閑潮、金井志雪、宮沢随斉などがいる。山高の幸燈宮に献吟の額が納められている。「時天保重光単□玄吉辰」とあるのがそれで、辛卯天保二年(一八三二)、幾秋二十六才のときに甫秋(雲鳳)、嵩山等峡北俳人五十六名が名を連ねている。

その後慶応三年(一八六七)七月発行の「甲斐俳家人名録」にも幾秋、雲鳳の名が見える。

幾秋は、

「遊びよき家に遊びて夜の月」

と詠じ、

雲鳳は俳画の名手で鶴二羽を一筆画きにして、

「馬市の場も田とたり青みどり」

と作句している。

〔塚原幾秋の事績〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)

幾秋の最も顕著なる事績としては、晩年の明治十三年(一八八〇)、山高の実相寺境内神代桜の下に「しばらくは花のうえたる月夜かな」の芭蕉の句碑を建てたことである。(註 芭蕉はここを訪れていない)この記念事業として、翌々年、明治十五年(一八八二)に「大桜集」を発刊した。この句集には三枝雲岱の大桜の絵を、篁石が画いて版にしている。東京、京都、尾張、三河、駿河や近くは蔦木、立沢、乙事、金沢など信州諏訪郡の村々、県内各地から有名俳人が寄稿し、幾秋も

「月に明け花に暮るるや草まくら」

と詠じている。この句集の諸言に、私は病のため右手は全くかなわず、筆をもつことができないので、孫の甲子磨が代筆し版を録した。費用は子の雲鳳に任せ、此の編はすべて子と孫によって成ると記している。

巻末は駒峰中山正俊が撰文し、雪斎小池真清が書をしたためており、

咲きにほう故の山高の大桜

たちさりがたき花の木のもと   幾秋

親とともに幾世をかけて仰ぎみん

まれのさくらに雪の富士の嶺   雲鳳

と結んでいる。幾秋は、その二年後の明治十六(一八八三)年六月二十二日、七十九歳をもつて逝去している。

〔塚原雲鳳〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)

雲鳳は天保元年(一八三一)七月七日に生れ、通称を甫秋といい、祖父の甫秋と混同しやすいところから号を松垣または雲鳳と称していた。

雲鳳は幾秋亡きあと、よく教庵を継承し、明治十三年明治天皇御巡幸の折、父母に孝順の故をもって賞賜された。明治二十八年(一八九五)刊行の「ももよぐさ」には次の句が掲載されている。

あら楽し千町八千町庭のまど

明治三十一年(一八九八)四月二十四日、六十八歳をもつて逝去した。

四秋〔甲子太郎〕

孫の甲子太郎は、元治元年(一八八四)十二月二十八日生れで、四秋と号している。四代の「秋」を継承したという意味であろう。俳諾と和歌をたしなみ、明治三十一年(一八九八)刊行の「百花園」に数歌が掲載されている。

甲斐が嶺の雪の中より立つ雲は

誰か炭がまの煙りたるらむ

〔塚原四秋〕松屋に勤務 白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)

四秋は谷村郡役所に勤務していたが、定年退職後は上京し、家族とともに松屋に勤め、北多摩郡三鷹町牟礼に転住し、同所において昭和十六年(一九四一b)十二月七日、七十七歳で逝去した。

日最中蝶狂い込む関屋哉     甫秋

薮梅や寄りもつかれぬ枝配り   幾秋

美濃の羽子近江の屋根へ外れけり 雲鳳

 

甫秋……ほしゅう(生没年不詳)

子息、幾秋(明治十七年 一八八四歿。年79歳)。

その子息、雲鳳(明治三十年 一八九七歿。年70歳。

その子息、雲鳳(長坂上条穂見諏訪十五所神社の扁額『俳諧相撲発句戦』(嘉永七年/1854)の判者が塚原雲鳳である。






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最終更新日  2021年08月08日 06時34分00秒
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