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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年08月09日
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カテゴリ:山口素堂資料室

正伝 山口素堂 『連俳睦百韻』




 和歌に再貫之なし、連歌に宗祇なし、然るに近来たはれうたに古人の芳名を着ることあり。徳を慕ひ侍る故へ願ふ。其の始めは無関門と云ふ。

 

芭蕉柱杖 

芭蕉和尚示ク 汝有ラハ柱杖子一  

我与你柱杖子ヲ クバ柱杖子 

我汝ハン柱杖子  

 

◇〔読み下し〕

 

芭蕉柱杖

芭蕉和尚衆に示して云く、

汝に柱杖子有らば、我汝に柱杖子を与えん。

汝に柱杖子無くんば、我汝が柱杖子を奪はん。

 

◇〔説明〕

ここで云う、芭蕉和尚は芭蕉慧清で新羅の人。

百庵謂らく、無関門芭蕉和尚あり。

俳諧子に芭蕉庵桃青あり。俳諧を以て世に鳴る。

深川の片邊に形ばかりの庵を結びて生涯楽隠。

其の頃和漢の才子、

かつしかの隠士山口素堂翁を友とし睦みあへり。

桃青庵中庭の邊に芭蕉一株を栽ゆ。繁茂して人称す芭蕉庵、

人の呼に従ひて翁自称す。

桃青没後に記念として素翁の庭に移さる。

贈者も蕉翁、貰人も素翁、殊によき遣物なりけらし。

されどほどなくして枯れにき。

往昔、水無瀬御流に有らん。

其の心の坐を隔て松あり。御目とヾめさせ給ふなり。

後鳥羽上皇遙の御流の後

いにしへは萩もあるじを志たいにき 

松ぞ人をもおもはざりけり

といふ御歌をその松にかけさせ給ふ間、枯るとや。

(出頓阿井蛙抄雑談

百庵庵云ふ、

松は年寄堅正之木 不霜雪不凋四時 

かくの如きものする□る事あり。

芭蕉は秋風に不甚殊に草なり。

然といへども陸佃日嶺南ノ芭蕉尤高大、

冬不壊儀ク多生子。

百庵熟謂ラク、暖頃風出るに従て異ナル乎。

草木心なしと雖も主人を慕ふ事貴賎相ヒ同じ。

雪裏ノ芭蕉ハ摩詰ガ画と、

天ノ梅蘂(まいずい)ハ簡斎ガ詩

摩詰吾詩自負トリ簡斎集山谷同

雪中王維画多不門四時 

桃李芙蓉蓮衰安 

雪図リ雪中芭蕉象安得心年意到レバ便(スナワ)也。

 

原安適ノ芭蕉追悼に「あはれ芭蕉の霜のよの中」と詠れたり。

安叟其ノ頃「以和歌鳴于世」芭蕉・素堂・沾徳誰彼門人也。

蓋、桃青宗祇法師の遺風名勝地をたづね旅泊を宿とし、生涯旅に終

新古今集に

世にふるはくるしき物をまきのやに 

やすくもすぐる初しぐれ我

とあるをとりて宗紙法師

  世にふるはさらにしぐれのやどりかな

是をとりて芭蕉庵桃青

  よの中はさらに宗紙のやどり哉

と無季の発歌をなす。(有僻説)

此の短冊を深川長慶寺に門人古杉風おさめ墳碑を建つ。

其の後柳居再興して新たになす。

芭蕉俳諧中興の祖、其の門流今に昌(さかん)なり。

是陸佃が嶺南の芭蕉尤も高大、多く生子といへるに叶ふ。

  世にふるは朽ぬ芭蕉のしぐれ哉   百庵

蕉翁没後、素翁上京の砌、吾友芭蕉の墳葉に手向て

志賀の花水うみの水それながら   素堂

是は一休禅師

山城の瓜や茄をそのままに

手向になすぞかも川の水

此の歌の面影也。

 

素堂翁退隠の後、しのはすの蓮他に十蓮の佳句あり。

其ノ後深川阿武に移る。

享保元八月十五日に終る。谷中感応寺中瑞音院に葬る。

  志のはずの水手向ばや秋の月    百庵

是前に蕉翁を素翁追悼の句による者也。元しのはずに住み、今谷中に葬るによりて也。

 

【註記】 素堂の家系

抑々素堂の鼻祖を尋るに、

其ノ始メ河毛(蒲生)氏郷の家臣山口勘助良佞〔後呼佞翁)

町屋に下る。

山口素仙堂太良兵衛信章俳名来雪、

其の後素仙堂の仙の字を省き素堂と呼ぶ。

 

其の弟に世をゆずり、後の太良兵衛後ち法體して友哲と云ふ。

後ち桑村三右衛門に売り渡し婚家に及ぶ。

其ノ弟三男山口才言は林家の門人、尾州摂津侯の儒臣。

其ノ子清助素安兄弟数多クあり皆な死す。

其ノ末子幸之助佗名片岡氏を続ぐ。

 

雁山(黒露)ノ親は友哲家僕を取立て、山口氏を遣し山口太良右衛門、

其ノ子雁山也。後チ浅草蔵前米屋笠倉半平子分にして、

亀井町小家のある方へ智に遺し、

其の後ち放蕩不覊て業産を破り江戸を退き、

遠国に漂泊し黒露と改め俳諧を業とし、八十にして終る。

 

蓋、古素堂翁和漢の方士、芭蕉翁に省る叟にあらず。

□然此の叟詩歌を弄び茶事を好むらん。

其の余多芸、俳諧の妙手なるといへども俳諧のみにあらず。

門弟子をとらず、誠に絶者なりけらし。

然るに蕉翁俳諧を好み是に妙也。

行状侘びに超て閉逸に其の妙今に絶す。国々在々までも崇る事仏神の如し。

蕉翁の末弟乙由後ち麦林と呼ぶ。

于時佐久間長水、後ち彼が門弟となる。

始め沾徳の門人、沾徳六十五にして死す。

『白字録』と云ふ追悼集を撰す。其の子勢吉五つの時歳旦を長水催す。

彼が句に

    はま弓や取て五ツの男山    勢吉

勢吉長水の代句をして引附を出す。

後ち麦林が門人に入りて麦阿と呼ぶ。

それより東武蕉翁の門流多く、

猫もしゃくしも、芭蕉と云へば俳諧子のやうになれり。

是れ蕉翁の徳の至にやあらん。

手鑑佐々木一徳来雪は、黒露が門に入りて俳諧を弄ぶ事ねもころなり。

予も往昔知己なれり。是蕉翁の徳の至りにやあらん。

 

于茲佐々木来雪は黒露の門に入りて俳諧を弄ぶ事ねもころなり。

予も応昔千古なき素堂翁を信仰し、

今般素堂の芳名を附て、来雪安素堂と改名したき由予に告ぐ。

予も其の名の事は四十余、素堂の孫素安が我に名各乗るべき由を伝え、

恐れあれば不名乗。其の趣きは予が撰る『毫の秋』と云ふ編集の中にしるす。

乃、之の後ち素堂と関防の印に著はす。其の事『毫の秋』に委しく述ぶ。

 

然るに素仙堂大路と云う者、今亥初度小冊を催し、

素仙堂の芳名を付けて侍る事、

尤も縁なき者にして紛れ者なりと予に告ぐ。

それはともあれ来雪庵素堂、汝ならで有べからざると、

佐々木民某に免し与ふるものなり。

しかいふものは、

古素堂の外甥黒露、素翁嫡孫素安、親族百庵かく聯綿と伝来正しき三世の素堂云々

 

〔参考 挿入『毫の秋』〕

 

執文朝が愛子失にし嘆き我もおなしかなしみの袂を湿すことや、

往し年九月十日膏祖父素堂亭に一宴を催しける頃、

    よめ菜の中に残る菊

といひしは嵐雪か句なり、猶此亡日におなしき思ひをよせて

    十日の菊よめ菜もとらす哀哉

かくて仏前に焼香するの序秋月素堂が位牌を拝す、

百庵もとより素堂か一族にして俳道に志厚し、

我又俳にうとけれは祖父が名廃れなむ事を惜しみ、

此名を以て百庵に贈らむ思ふに、

そかゝるうきか中にも道をよみするの風流みのかさの晴間なく、

たゝちにうけかひぬよつて、

素堂世に用る所の押印を添て、

享保乙卯の秋(二十年・一七三五)九月十一日に素堂の名を己百庵にあたへぬ

                 山口素安

万葉集

  くるしくも降来る雨かみわが崎 

さのゝわたりに家もあらなく

是をとりて京極黄門定家卿、

  駒とめて袖うち払ふ影もなし

さのゝわたりの雪の夕ぐれ

評に云ふ、万葉の歌はその場にいたりてよめる。

定家卿の詠は想像でよめる題詠也。

予 

さのゝわたり降来る雪か白妙の

袖こそはらへ冬の夕暮

      浅草不二山人  百庵道阿八十五 翁

 

来雪といふ事の出所に詠之而己与之於佐々木氏

 

来雪庵記

今はむかし、百歳の星霜をふり積りても名はうづもれぬ、

素堂翁来雪師といふ人生れながらにして智し。

和漢の才ひろく、其の初は忍ぶの岡の麓の蓮他の辺に住みて、

濁りに染まぬ心もて、垂乳根に孝行の余力あれば、

詩文を愛しみ、大和歌.連歌の奥ふかくたどりて、

俳諧を口遊み、菷木々のあるか此の世を悲しみに堪ず、

剃髪の姿となりて深川の辺に庵をむすびて、

秋の徒然には琴をまさぐり、

知音(己)を求むるに近隣に芭蕉翁閉居し侍りければ、

壁の透間に煙りを渡したる心地して起臥を伴ひぬ。

其角・嵐雪など云へるも招かずして集会し、

ある時は菊乃宴を催し、秀逸とも今の世にも義歎しはべりぬ。

 

素堂師はじめは来雨とか云へるを、口宿もあらなくにと言うを、

袖うち払ふ陰もなしと詠みかへたる、

佐野の渡りを思よせて自り、来雪をば改めしとかや。

隣友を失ひし後は聞知もなしと、琴の緒は絶ち侍れども、

猶俳諧の奥は世に残さん事を黒露師に口授して、

其の身は古来まれなる年も過ぎ、

明日しらぬ命は風の前乃花の本にて春死なんと読まれし言の葉、

月のかげに誘ひ引かれ、西の空に迎へを願はれしまゝ、

享保始めの年中の秋野に消へ給ひぬと語る。

 

佐々木氏何某、

幼きよれ漢大和の文を読むに、蛍を集め窓の雪に詠吟して月日を送り、

父の口につけて飛州に趣きしころ、かの果露師に面会して師弟の約をなし、

朝夕に風雅を好み侍る執心をみて此の師風義を口授して、

其の流れを残すためなれば素堂と成し侍らんと云ふに、

師の命いなみ難く来雪とは付け侍る。

さるにても、先師の高名を汚さん事身に負はぬ心ちして、

功つき家に杖つく齢にも成り侍らば、

素堂とも成し侍らんと紛れさし後ち、

此の師も八十年余にして空しく成りぬ。

かの蓮言忘れじと学び怠らず、

公のこと繋き仕へして、国々に行帰る旅泊の感情を歌枕とし、

都にある時は風月乃祖神に歩を運び、古風を吹き直すとかなと祈り、

予にも事の由を告げて此の顧ひ多年に及べり。

去年より此の京に在りしが、東の側に住はる人前のゆへ有るにや、

来雪の流れを汲み侍りつるとて、自分から素堂とならんと言へる由、

友どちより数多度告げて、深川の深さ浅さもたどらず伝へたる根ざしもなくて、

何のあやめも分からぬ与所に引とらるべき名にはあらずと、

頻りに改名を進め侍る数の玉章なれば如何せむ、

自称とや思はんと定めかね侍ると、予にも此の由を間度ひぬ。

壮年にて給せられしこゝらの年も越ゆる期の五十じ余りなれば、

惑はずして進めに任せ給へと云ひ添へ侍るにつけて、

去年の師走二十日あまり四日に来雪庵素堂と成しと、

 

素堂尊像

友どちの方へ告げ知らせ云ふ同じ日に、あやしの木像を市人に求め得たり。

只人ならぬ霊像なればと煤けたるを洗い滑るに、

老翁(素堂)かの絶絃を抱き、琴面を撫る終なり為とやらん。

漫ろにゆかしく安座の裏を見るに、虫はみ残る文字あり。

年来位し云ふ素堂の尊像疑ひなし。

思はざりき此日に当りて、爰に願向し給はんとは、

正しく風義を弘め伝へよと、年を取りて師の教へ云ふならし。

□には年比の願いを満して云ふ、尊神の加護浅からず。

是につけ彼につけ感涙の袖を干しあへず、聞かんさへ鼻うちかみぬ。

吾幣奉り、手向のため武蔵野谷中瑞音院中に庵を卜して月次の会を催し、

永く聖廟に捧げ挙りんの趣意を述べよと、

我に乞ひたまへと口拙くかき集めんとし、腑の種々恥を残さむを辞し侍ど、

神徳の燿やかん事は社司の願ふ所ならずやと、

すゝめにいなみ並て僻事書き綴りぬ。

糸は柳の末ながく、若竹の世々こめて根さへ枯めや、

自気乃散り失せぬ言の葉、もてはやす月並の詠めに、

心のあへる友の寄り来る雪の□と云ふ事しかり。

   安永八のとしきさらぎ日    洛北梅真花下

                    法橋能悦恵隆  花押

 

素堂寿像感得の記

人の生霊限りあるが中に、口を開いて笑ふ事一月のうち四五日に過ずとや。

古人寸陰を悼み燭をとり、かげをつくのことわりさら也。

予、逆旅を家とするの仕へありて、

夕に洛下の花にやどりて春眠のたのしさあるに似たれど、

旦に難波江が葦聞こぐ舟のゆくゑさへ知る人なきをかこつあるは、

渺茫たる東海に魂を消し、嵯峨たる木曽路に断腸の思ひをなす。

かく幻に行きかふこと十余年、徒らに東西南北の人とはなりけらし。

又今年安永戊戌(七年)卯月、洛陽の瓜期尽て武陽に帰り、

再び公事ありて文月の頃、故園を出て洛陽の客舎に移り一年の旅寝をし侍る。

されや、秋の日も昨日今日と云ひ暮して飛鳥川の流れ早く、

今はた三冬つくる頃二十日あまり四日には成けり。

爰に西の京下□(?)と云ふ所に、

古器なんど持てたつきとする商人近江屋某とて、年頃予が客中音信れる者あり。

此の日古き木像を一体もち来りて告げ申しけるは、近頃此物を求め出しけるが、

其の形ち尋常にもてはやす諸祖の姿とも思へさぶらはず、

僧形にて打ち掛け様の物打おほひ、安坐して琴を鼓する体何となくしほらしく侍る。

予、常に古物を愛する癖あれば、何ぞ思ひ当れる事やあると問ふ。

よって其の物つらつら見るに彼が申す如くにて、坐像の丈六寸ばかりもあるらん、

面想七十余りの老僧の無絃の琴を膝に上げ、左の手にして抱き。

石の手を持て触る風情、幽玄高尚いふばかりなく、

彼の悠然として南山を見る面影に似かよふて、

只人ならざるを装ひのゆかしく頻りに包み終わるに求めたるも、

此の園に依りて此の縁を生ずるなるべしさるにても、

余り煤け汚れたればとて布巾を持て湿し悉くふき侍るに、

座の裏に文字の様なるもの瞳に見へければ猶なつかしみ、これを見れば其の裏書に、

  摂陽の隠士酒堂東都之大隠素堂翁之

恩口を慕ひ同志茶瓢と寿像を製し畢る。

         享保二年酉八月也

かく寿像の座に出志たるに、はじめて驚き始て信じ、

夢かとぞ思ひ悦び、只呆然としてうち守りしばかりなりけり。

抑此の翁は寛永十九年壬午正月四日誕じて、

享保丙申八月十五日」にして終りをとれり。

 

今按ずるに、

其の一周に当りて摂陽の酒堂・江都の茶瓢・先師の恩恵を仰ぎ慕ひ、

繁心より生涯菊を友とし、無絃を愛し、園中に集める草庵の幽趣を接写して、

百世の筐とは成したらん。両士の孝心敷するに余り有りと云ふべし。

鳴呼、翁の世を去し事、今上し巳に六十三の星霜に及びぬ。

されば何地の塵ひちに光をうしなひ、埋れ果つべかりしを、

今年今月いかなる日、いかなる時の妙運にや。

忽然と吾もとに来り侍りて、年月信慕する吟月雅心をかぞやかし、

云ふことの不可思議にいと尊とくありがたさよ。

まして此の月朧月二十四日に当りて、奇瑞の感得ある事は幾何年か大庇を渇仰せり。

北野の御ん神の吾れ丹心至誠を憐れみ、いざなひ言ふにやあらんと、

感涙肺腑に銘して、昆山の玉、魯壁の書を得たる心地して悦びにたへず。

此の事を岡のもとの縁ある法橋集の詞家に告げ侍りて、

讃辞を乞ふ事になりぬ。

固より翁は詩歌連俳に自在の人にして、奥を以て売らず名を以て弛らず、

市朝に頂かれ大隠士也。然はあれど、其の弟子としては師恩を思はざんはあらずと、

年比其の願を進ひ、其の道を広くせんと思ふ寸心やまざれども、

故心にとヾまるの年少なく、唯だ惜しむらくは才力短く吟詠寒く、

人にほどこすの日とほしければ、世人の望あまねからざるも、

他のおろかなるにはあらで、自れおろかなるらんと、

日に月に欺きもてゆく程に、いつしか五そじ余りの老にげらしな。

鏡山も間近き京師の旅やどりに、

今年はからざる此の奇瑞あるぞいと能しかりける。

さもあらばあれ、猶今日よりは此の道のかくやかくやとして、

酒堂・茶瓢が葦のすさみも、僅かに吾がためのいさめ也とうなづき侍るも、

力草伏して思ひ仰ぎて、願わくば翁は正しく死に亡びざる文章の士なれば、

泉下に不朽の霊ありて、今はさぞな仙府に文星典吏の官となるらん。

されば、連排和合せし当流興隆の冥応をそえるべかし。

我又風雅のために一挙を奉りて、此の時一大事の心魂を尽し、

屓笈坦□の労にかへて、師恩の名を聯も汚すべからずと聖廟を驚かし奉り、

深く寿像に誓約をなし、頓首再拝して、此の事を誌し侍りぬ。                  

安永戊戊十二月二十五日

     洛陽城客申  来雪庵三世 素堂

 

【註】寺町百庵

 百庵は寺町氏、名は三知、又は友三。号を道阿・梅仁翁・不二山人・新柳亭という。

天明六年(一七八六)没。元禄五年(一六九二)生。

幕府の茶坊主で百俵二人扶持を受け、後坊主頭をつとめたが事あって、柳常連歌の連衆となるべく運動したと伝えられる。)鼓楼時守に落とされ、後には小普請入りとなる。茶坊主三百余人の中で成島道筑と並んで名物男となり、かの紀ノ国屋文左衛門が吉原で豪遊し小粒金で豆撒きをした時、その撒き手になったのが百庵であったと伝わる。(年代考証に間違いがある)この百庵が先の『連俳睦百韻』の中で素安に素堂号の襲名をすすめられたが辞退したと述べている。






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最終更新日  2021年08月09日 07時51分04秒
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