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2021年08月21日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏と甲斐国司(3)「奥羽戦乱と東国源氏」

 

源頼信、河内守

?《参考》年不詳【『甲斐国志』】

◆甲斐守…源義光。称新羅三郎(頼義三男)任甲斐守即甲斐源氏所祖

  源 義光  永保3年  1083  義光、左兵衛尉。年三十九才。

 

**年三十九才。

**長兄の義家が後三年の役が陸奥国で苦戦、義光、援軍として上奉して暇乞をするが認められず、許可なく馳せる。

**義光、時秋に足柄山にて笙を伝授する。

**義光、陸奥国菊田荘(いわき市内)を押領を図る(修理太夫藤原顕季の所領)

**明簿奉呈(家臣になる意思表示)をする。義光受領、常陸介となる。現地に赴任し、大豪族大掾家の娘を嫡男義業の妻に迎え、佐竹郷に居を構える。

**義光の勢力、佐竹郷を中心として、国内北東部一帯に定着する。

 

 康和4年2月 3日 (1102) 

**刑部丞源義光、馬二疋を右大臣忠実に贈る。「殿暦・武川村誌」

  年五十八才。この時義光五十八才。

  (「殿暦」……忠実の子忠通の日記)

**新羅三郎。常陸・甲斐守。左衛門。刑部丞。平日住三井寺。

**義光の子義業…吉田太郎清幹の娘を娶り、佐竹冠者昌義を設ける。

**義光、義業を久慈川流域の佐竹郷に配置。

**義光の子義清…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。

**義光、義清を那珂川北岸の武田郷に配置。

 

 嘉承1年6月( 1106)

**源義家の子の義国と義光が常陸国で合戦。 永昌記

 

 大治2年10月20日 (1127)

 

**源義光死去。    「尊卑分脈・大聖寺

**義光の所領は常陸国多可郡の国境に近い菊田庄であったといわれる。「十訓抄」

 

 注…『新編相模風土記稿』巻之八十七 鎌倉郡巻之十九には次の記事が見える。

 大寳寺 佐竹山にあり、多福山一乗院と号す。此地に新羅三郎義光の霊廟あるが故、其法名多福院と云ふを執て山号とす云へり。されども義光の法名を多福院と云ふもの信用し難し、恐らくは訛なるべし。

 

 佐竹常陸介秀義以後敷世居住の地にて今猶当所を佐竹屋敷と字するは此故なりと云ふ。『諸家系図纂』に秀義の後裔右馬頭義盛応永六年(1399)鎌倉に多福寺を建とあり。

 

 多福明神社…新羅三郎の霊廟と云ふ、明応八年(1500)権大僧都日證一社に勧請しその法号を神号とすと伝ふ、恐らは佐竹義盛の霊廟を義光と訛り伝ふるなるべし。云々

 鎌倉長勝寺、寺宝、寳陀観音像一体(新羅三郎義光の守本尊と云ふ)

 

 注…鎌倉市大町大宝寺…

 大宝寺浦野墓地にある変形の宝篋印塔で、後裔の佐竹氏が建てたという。義光は頼義の子で、新羅三郎あるいは館三郎と称し、兄義家を授けて清原武衡・家衡を討った。

 

  「歴史と旅」鎌倉興亡史

 注…大宝寺…多福山一乗院といい、承暦年間の創建で、当時は真言宗で、俗に佐竹屋敷といわれる所で後三年の役後、新羅三郎義光がここに館を構え、その後佐竹秀義が住んだと伝えられる。  

 

  「歴史と旅」鎌倉興亡史  

 

 注…常陸国を去った義光は京都に戻る。除目待つ間近江園城寺に住む。近江国義光所領の地は柏木、山村の両郷など近江国に多く見られる。

**義光は補任として甲斐守となる。その所領は加賀美郷・逸見郷・甘利郷・塩部郷・石和御厨・原小笠原郷・一宮郷・一条郷・ 上条郷・下条郷・板垣郷・吉田郷・二宮郷・岩崎郷など。

**義光は嫡男義業を常陸、次男義業の次男義定を配置する。

** 没年諸説 大治2年10月 2日 1227  年八十二才。

       大治2年10月20日1227  年七十一才。

「甲斐国志」

 

途絶えた甲斐の貢馬

 

 一、新羅義光   烹雑の記(滝沢馬琴)

 

 鳥羽天皇の天仁元年戊子春二月、源ノ朝臣義綱を、佐渡国へ流す。舎弟義光に誣(しひ)られ、無実の罪を得たればなり。

 

 一、新羅三郎義光 笙の事   松屋叢話(小山田與清)

 

 清和天皇四代満仲之子曰頼信。其子頼義。于時将軍任ス伊豫守ニ。其子有四人。一人出家快誉。一人ハ義家。鎮守府ノ将軍號ス八幡太郎。一人義綱。號加茂次郎。一人號義光。是新羅三郎也。

 この義光は、かくれなく笙に得たる名人也。豊原の時元の子時秋といひし、幼稚にして父をうしなひければ、秘蔵の事をもえきかで有しに、時秋道に深くや有けむ。永保のとし、義光、武衡、家衡を責んとし、戦場に趣給ひしとき、江州かゞみの宿まで跡をしたひて馳参じ、御供仕むといひけるを、義光深く諫給ひけれども、猶参まゝに足柄山もでこえてけり。義光仰られしは、此山は関所もきびしく有べければ、かなひがたかるべきと懇に申給ふをもきかで、さらにとゞまるべくもあらねば、義光かれが思ふ所をしろしめし、馬よりおり人を退、芝をはらひ、楯など敷て、大食調の譜を取出して、時秋につたへ給ひけり。時秋相うけて帰り、豊原の家を興しけるよし、橘の季茂が記にみえぬ。むかしの人の、道のこゝろふかゝりける事、かくまで殊勝にこそ有けれ。

 

 一、義光   一話一言(大田南畝)

 義光甲斐源氏之祖也。

佐竹・逸見・武田・小笠原・加々美・秋山・平賀・大内・南部等の源氏是より出。

 

 一、新羅明神《新羅三郎義光が元服した場所》

  兎園小説(瀧澤馬琴) 新羅明神は三井寺北院現在谷に鎮座也。祭神は素盞鳴命(須佐之男命)也。此神五十猛神を師て新羅国に至り、智證大師唐土より帰朝の時、船中の佛經を擁護して日本に帰り給ふに依て、新羅明神と崇め現在谷に鎮座也。其後永正十年九月二十一日、明尊始めて祭祀せしにより、今なお九月二十一日佐竹家より供物有。新羅法楽の歌の會に、俊頼褒貶の巻有。それより今に至るまで、和歌の法楽を供するを式とす。卜部兼邦が歌に、

  新羅より三井の流れにやどり来て いく代住むべき神のこゝろを






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最終更新日  2021年08月21日 07時16分45秒
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