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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年08月21日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐源氏 甲斐国司(5)

 

○康和2年(1100)3月・8月28日【『百錬』】

◆甲斐守…藤原行実…在任。

 

甲斐源氏と甲斐国司(4)1100~

 

○康和2年(1100)7月1日【『為房』】

◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。

 

○康和2年(1100)1月【『柏尾白山出土経筒』】

…僧、寂円、甲斐国山東郡牧山村米沢寺に於て写経を開始。

 

○康和2年(1100)3月【『為房卿記』】

◆甲斐守…藤原惟実。伊勢神宮神人を凌轢する。  

 

○康和2年(1100)6月28日【『百錬抄』『甲府市史』】

◆甲斐守…藤原惟実。

…六月廿八日、甲斐守惟信・大膳亮仲範を贖銅(しょくどう/罪を犯した者に実刑の代償として、相当額の銅を納めさせたことをいう)すべく、左近府生秦武忠を禁獄すべきの由宣下す。

 是去る三月伊勢太神宮の神人、途中に於いて前の大相国(だいそうこく/太政大臣)に遇い、無礼いたすの間、武忠神人を搦め取る。神宮の訴えに依りてなり。

 

○康和2年(1100)7月1日【『為房卿記』】

◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。

…内覧となって最初の着陣に向かう藤原忠実の前駈をつとめる。

 

○康和2年(1100)8月28日【『百錬』】

◆甲斐守…藤原惟実。在任。三月の件について惟信は贖銅に処される。

 

○康和3年(1101)7月1日【『宮寺縁事抄』】

◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。石清水八幡宮臨時祭で陪従をつとめる。

 

○康和3年(1101)10月13日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。右大臣忠実に馬二頭を贈る。

 

○康和3年(1101)12月9日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。在任。藤原忠実邸に家司として出仕する。

 

○康和4年(1102)1月23日【『魚魯愚抄』

   甲斐掾 (不詳) 甲斐掾に任じられる。  

 

○康和4年(1102)5月13日【『中右記』】

◆甲斐守…藤原惟実。甲斐守を重任する。

《解説》【『甲府市史』】

…甲斐守、藤原惟実は4年の任期が終わったが、成功(じょうこう)により、重任を許された。平安時代中期以後、中央の財政が乏しく行く中で、国司の中には任期中に私財を肥やし巨富を積む者が多く現れた。そこで国司に内裏の殿舎の修築、宮廷の各種の行事、あるいは寺社の堂塔・社殿の造営など、本来は公費から支出すべきものを負担させその「功」を「成」し遂げる者に特に重任することを認めた。

 

○康和4年(1102)2月3日 【『殿暦』】

◇源義光 ☆刑部丞源義光、右大臣馬二疋を贈る。

 

○康和4年(1102)7月15日・21日【『諸寺供養類記』『殿歴』】

◆甲斐権守…藤原宗仲。在任。楽行事の補佐及び堂童子をつとめる。

 

○康和4年(1102)3月18日・7月21日【『諸寺供養類記』『中右記』】

◆前甲斐守…藤原行實。在任。

…受領成功(じょうごう)として五寺五大尊像の費用負担。

 

○康和4年(1102)11月12日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。馬二頭を藤原忠実に献上する。

 

康和5年(1103)

○牧山村。勝沼町出土の経筒に康和五年、山東郡内牧山村米沢寺の記。

 

○康和5年(1103)

…1月22日・4月3日・10月12日・11月14日・11月21日、在任。

…【『御産部類記』『柏尾経筒』『殿歴』『本朝世紀』『中右記』】

◆甲斐守…藤原惟実。宗仁親王の誕生七夜読書儀で、読書博士にう禄をとりつぐ。

 

○康和5年(1103)2月30日【『本朝世紀』】

◆甲斐権守…源惟兼(これかね)従五位下。在任。

 

○康和5年(1103)2月30日【『本朝世紀』】

◆前甲斐守…藤原行實。武蔵守に任じられる。離任。

  

○康和5年(1103)7月25日【『僧網補任』】

◆前甲斐権守…藤原仲宗。在任。

…前権守藤原宗仲が再建された興福寺の落慶供養において南大門行事をつとめ、この賞で従五位下となる。

 

○康和5年(1103)10月12日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。在任。舞姫を献ずるよう五節定で決定される。

 

○康和5年(1103)11月14日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。在任。惟信らの献じた五節舞姫が参入する。

 

○康和5年(1103)11月22日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。甲斐守藤原惟信が賀茂臨時祭の陪従をつとめる。

 

○長治2年(1105)1月27日【『大間成文抄』】

◆甲斐少掾…源国次。正六位上。補任。

 

○嘉承1年(1106)10月28日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。在任。甲斐守惟実、関白忠実に馬七疋を贈る。

《解説》【『甲府市史』】

…甲斐守藤原惟信の忠実への貢馬は、康和三年二疋、重任直後の同四年二疋、それに今度の七疋と満五年間に三度も見える。公的な駒牽に代わる国司の権門への私的駒牽の感がある。

 

○嘉承2年(1107)12月28日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原惟実。在任。(10月28日、在任記事)

…藤原忠通の右中将就任の慶申にあたって馬四頭を忠通の父忠実に献上する。

 

○嘉承2年(1107)4月【『平安遺文』】

※東寺、甲斐など十カ国の封戸の済物進未勘文を注進する。

…勘進未済国

甲斐国…康和二…以後七年未済…千五百五十石

 

○天仁1年(1108)1月7日【『中右記』】

◆甲斐権守…平知信(とものぶ)。従四位上。兵部大輔。在任。

…平知信が摂政藤原忠実の使者をつ める。

 

○天仁1年(1108)1月24日【『中右記』】

◆甲斐守…藤原師季(もろすえ)正四位下。補任。甲斐守に任じられる。

…保安元年(1120)7月19日卒。

 

○天仁1年(1108)7月27日【『中右記』】

◆甲斐権守…平知信。摂政藤原忠実の使いで藤原宗忠のもとに赴く。

 

 

甲斐の馬記載事項

○天仁2年(1109)9月6日【『殿暦』】

◇甲斐甘利馬。

◆甲斐守…藤原師季。摂政藤原忠実の高陽院(かやのいん)で競馬が行なわれ、甲斐守藤原師季の馬と忠実の甲斐国甘利の馬が出場する。

…六番…右…右番長佐伯国重余随身。鹿毛。阿万利余馬也。

 

天仁2年(1109)9月6日

 ○競馬、高陽院競馬の礼式作法。《殿暦》

 五番 左出方(左)左府生中臣近時、(左大臣随臣)栗毛、

 (方人甲斐守師季朝臣出馬)

 

 

○天仁2年(1109)9月26日【『殿暦』】

◇甲斐甘利馬…甘利の馬が摂政藤原忠実の高陽院の競馬に甘利栗駒出馬する。

 

甲斐の馬について

○天永1年(1110)6月9日【『武田系図』】

◇甲斐源氏…源清光。源清光が生まれる。   

…新羅三郎義光-武田冠者義清-逸見黒源太清光

……義清。久安五年(1149)於、市河荘卒、七十五歳。

……清光。仁安三年(1168)甲州卒、年五十九歳。

 

《武田系図について》

 武田系図の内、二説を取り上げて見た。大きな違いは義清から清光の段、即ち ・ ・ の項について『綜覧』では、清光の兄弟は師光だけだが、『群書』では、清光・光長・信義・遠光・義定が兄弟となっている。

 石和五郎信光については、信義の五男とするには無理があるような気がする。『綜覧』の方が自然である。又、石和五郎信光の家系は石和信景に見られる様に信義とは別家である可能性も強い。それは行動や頼朝以下鎌倉幕府の対応の違いからも読み取れる。

 これは山梨県でも広瀬広一氏が「石和氏は、清光と系統を異にして頼信・頼義の胤にて早く国府の附近にに居り、御厨領を掠めて勃興した氏族である」との見解を示している。系図は後世の所作によるもので、系図にバラツキが見られるのは致し方ない。

 また甲斐源氏が峡北地方を中心に展開していたとの見解も一考を要する問題で、逸見氏を名乗った光長の動向が不詳であり、逸見氏の中には現在の甲府近辺に居住した者もいて、神社や仏閣それに伝説をもって判断することは危険である。文書に見える甲斐の地名は逸見山・石和御厨くらいで、その他は寺院の由緒が先行している。

 

甲斐源氏と甲斐国司(5)源義清と甲斐源氏簡略年譜

義清

 生年 承保1年(1074)  義光、二十九才の時の子。

 没年 久安5年(1149)7月23日   年七十五才。

 

清光

 生年 天永1年(1110)  義清、三十六才の時の子。

 没年 仁安3年(1168)7月 8日    年五十九才。

 

義清

 康和4年2月 3日( 1102)

  義光の子…常陸国吉田郡武田郷に住して武田冠者と呼ばれる。  

 

清光

 天永1年 (1110)6月 7日

  義清の子、清光が生まれる。

 

清光

 天永1年(1110)6月19日

  清光が市川平塩岡の居館で生まれている。 大泉村誌

 

義清

 保安4年(1123)  義清出家。   武川村誌

 

清光

 大治2年(1127)   清光十八才。

 

清光

 大治3年(1128) 長坂町誌

 清光は当時居住先の常陸国武田郷に於て 嫡男光長と次男信義をもうける。

 

清光

 大治5年(1130)12月30日 長秋記

 源義清の子清光、濫行を以て告発される。 

  甲斐国市河庄に配流される。長秋記

  常陸国司、住人清光濫行の事などを申すなり。子細目録に見ゆ。

  義清は武田冠者を名乗る(常陸武田郷)

 

  保延6年(1140) 長坂町誌

 清光の子、十三才元服の儀式。   

  小倉太郎光長…逸見庄小倉八幡宮  (この記事の出典は不明)

 武田太郎信義…武田庄武田八幡宮

 

 源義清  

 久安1年(1145)7月23日 義清死去。   武田系図

 久安5年(1149)7月23日  義清死去。   大聖寺過去帳

 

  刑部三郎甲斐守。配流甲斐国市河荘。   武田系図

  保安四年(1123)出家。

 

 治承4年(1180)   「 平家物語」

 平家追討に決起する諸国源氏の甲斐武将

  逸見冠者義清・その子太郎清光

  武田太郎信義・加賀美二郎遠光

  加賀美小次郎長清・一条次郎忠頼

  板垣三郎兼信・逸見兵衛有義

  武田五郎信光・安田三郎義定

 

 仁安3年(1168)7月8日  

 清光没(年59)甲州卒。天永2年生。

 

 茨城県那珂郡武田郷に起こる。新羅三郎  新編常陸国誌

 義光の三子義清、刑部三郎と称し、はじめ那珂郡武田郷に居住し武田冠者と称し、義光の嗣たり……佐竹系図

  

 子清光大治五年罪あり、その父子を甲斐に配し市川庄に置く。是にて子孫永く甲斐の人たり。云々若神子の居館で死す。   武川村誌(?)資料無。

 

(武田郷)の地名初見…和名抄新編常陸国誌

 東西は七町、南北十八、町余ありて、久保、猫山の二組、中、原の二坪を有す。

 即和名抄、那珂郡武田の本郷にて、吉田社仁平元年(1151)文書に「吉田郡云々、

 武田荒野とあるもの是なり。中世大掾氏吉田の一族、此地に住して、武田氏となる。或いは云う、甲斐武田氏も亦此村より出ツ、云々

 

○天永2年(1111)10月5日【『殿暦』】

◆甲斐守…藤原師季。馬十頭余りを白河法皇に献上。

 

 天永2年(1111)10月8日

○贈馬。刑部丞源義光、一匹献之、余見之件馬也。《殿暦》

 

《参考》

○天永2年(1111)11月20日

◆甲斐…大江匡房 死去。『江家次第』の著者。

 

《参考》

…年不詳…

◆甲斐権守…源季明。従五位。在任。

◆甲斐権守…源朝臣季明。在任。【『大間成文抄』春】

◆甲斐権掾…永原貞雅。正六位上。在任。【『大間成文抄』秋】

◆甲斐大掾…大原助道。七位上。在任。【『魚魯愚抄』】

◆甲斐掾……藤原守秀。正六位上。在任。【『魚魯愚抄』】






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最終更新日  2021年08月21日 14時33分34秒
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