カテゴリ:山梨の歴史資料室
甲斐源氏と甲斐国司 1133~
○長承1年(1133)2月11日【『治信記』】 ◆甲斐権守…高階為基。在任。関白藤原忠通家の執事となる。 ( )為基 長承 2年 2月 1133 権守。 御坂町誌。 ~ 8月27日 没。 中右記。
○長承2年(1133)8月27日【『中右記』】 ◆甲斐守…藤原範隆。死去する。
○長承2年(1133)9月21日【『公卿補任』】 ◆甲斐守…源宗賢。従五位下。在任。 源 宗賢 長承 2年9月21日 補任。 中右記。
○保延3年(1137)4月1日【『中右記』】 ※甲斐鎌田荘…藤原宗忠が、甲斐国鎌田荘を関白藤原忠通に寄進する。
○保延3年(1137)【『中右記』】 ※甲斐鎌田荘…藤原宗忠が、甲斐国鎌田荘を斎院怡子親王への同荘寄進をはかる。
○保延3年(1137)12月29日【『中右記』】 ◆甲斐守…源宗賢。重任。
○5年(1139)1月24日【『公卿補任』】 ◆甲斐権守…平信範。従五位下。補任。 平 信範 保延5年 1月 1139 権守。 御坂町誌。
○保延6年(1139)1月12日【『殿下政所下文案』】 ◆甲斐権守…平信範。在任。政所別当として署判を加える。
○保延6年(1140)7月23日【『殿下政所下文案』】 ◆甲斐権守…平信範。在任。政所別当として署判を加える。
○康治1年(1142)1月23日【『本朝世紀』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。従五位下。在任。除目入眼。 藤原顕遠 康治1年1月23日 1142 補任。元摂津守。 台記。本朝世紀。
○康治1年(1142)1月23日【『本朝世紀』】 ◆甲斐掾…源清政。在任。内舎人。
○康治1年(1142)2月26日【『台記』】 ◆前甲斐守…源宗賢。前甲斐守、源宗賢が出家する。
○康治2年(1143)1月3日【『本朝世紀』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。朝覲行幸に奉仕した賞で、正五位下を授けられる。
○康治2年(1143)1月27日【『本朝世紀』】 ◆甲斐権守…源盛業。在任。従五位下。蔵人宿 源 盛業 康治2年 1月27日 1143 除目。甲斐権守。 甲斐国志。
○康治2年(1143)1月27日【『本朝世紀』】 ◆甲斐掾…橘盛久.在任。従五位下。内舎人。 橘 盛久 康治2年(1143)1月 掾。甲斐権守。「甲斐国志」
○天養1年(1144)1月24日【『九条家文書』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として院丁下文に署判を与える。
○天養1年(1144)9月29日【『九条家文書』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として院丁下文に署判を与える。
○久安1年12月30日(1145)【『清原重憲記』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。重任。
○久安2年7月10日(1146)【『根来要書』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として院丁下文に署判を与える。
○久安3年(1147)1月28日【『本朝世紀』】 ◆甲斐権守…藤原成佐。在任。従五位下。式部。 藤原成佐 久安 3年 1月28日 1147 甲斐権守。 甲斐国志。
○久安3年(1147)6月10日【『神護寺文書』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽法皇の院宣の奏者となる。
○久安4年(1148)1月28日【『本朝世紀』】 ◆甲斐権守…藤原成佐。甲斐権守を離任し、式部権少輔となる。
○久安4年2月1日(1148)【『本朝世紀』】 ◆前甲斐権守…源盛業。在任。前甲斐権守源盛業が左馬助に任じられる。
○久安4年(1148)3月15日【『本朝世紀』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。鳥羽院判官代として祇園感心院の一切経会に参仕。 藤原顕遠 久安 4年 3月 1148 判官代甲斐守。 ○久安5年(1149)4月9日【『本朝世紀』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。甲斐守藤原顕遠が勘解由次官を兼任する。
○久安5年(1149)4月9日『甲斐国志』 ◆甲斐 平範家 正五位下。小除目あり。勘解由次官 藤原顕遠皇后権大進甲斐守平範家去年任右少辨替。 平 範家 久安 5年 4月 9日 1149 甲斐守。勘解由次官。 。
○久安5年(1149)7月23日【『武田系図』】 ◇源義清…甲斐市河荘で死去(年七十五) ○久安1年(1145)7月23日【『大聖寺過去帳』】 ◇源義清…久安元年七月廿三日卒。
○久安5年(1149)8月3日【『院号定部類記』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。在任。美福門院の判官代となる。
○久安5年(1149)7月26日【『甲斐国志』】 ◆藤原惟任…正四位下。行兵部権大輔平朝臣時信卒母 …(中略)正四位下藤原朝臣惟任女也。
○久安6年(1150)1月29日【『公卿補任』】 ◆甲斐守…藤原顕遠。甲斐守を離任する。
○仁平2年(1152)9月30日【『兵範記』】 ◆甲斐守…(姓欠)信行。在任。 …甲斐守信行が伊勢斎王喜子内親王の御禊の野宮入前駈をつとめる。
○久寿1年(1154)1月23日【『兵範記』】 ◆甲斐守…藤原盛隆。甲斐守に任じられる。補任。 藤原盛隆 久寿1年1月23日(1154) 補任。 兵範記。 ~応保2年1月27日(1161) 見任。 山槐記。
○久寿1年(1154)1月30日【『兵範記』】 ◆甲斐判官代…源清雅。甲斐判官代源清雅が春日祭使藤原兼長の前駈をつとめる。
○保元1年(1156)7月11日【『兵範記』】 ◇甲斐源氏…塩見五郎・六郎 源義朝勢として、保元の乱に甲斐から参加して、六郎は戦死する。
○保元2年(1157)8月9日【『兵範記』】 ◆甲斐守…藤原盛業。在任。 …甲斐守藤原盛隆が、藤原基実の任右大臣大饗を割り当てられる。
○平治1年(1159)1月29日【『保元四年大間書』】 ◆欠員◆除目…欠員の甲斐介・権介・権掾は不任となる。
○平治1年閏5月(1159)【『東寺百合文書』】 ※甘利荘…甲斐国甘利荘が、宝荘厳院領荘園のうちの一つとして注進される。
井沢四郎信景 ○平治1年12月(1159)【『平治物語』】 ◇甲斐源氏…井沢四郎信景。保元の乱に源頼朝方に参加。朝方に参加。 平治1年12月 9日(1159) 平治物語 上 井沢信景、平治の乱に源義朝の軍に加わって奮戦、負傷して帰国する。 「平治物語 中」 甲斐の国には井澤四郎信景を始めとして宗徒の兵二百人、以下軍兵二千余騎云々 井澤信景は(中略)遠江に知りたる人ありしかば、それにおちつき、傷を療治して弓うちきりて杖につき、山伝いに甲斐国井澤に落ちけり 《筆註ー多くの所伝は石澤信光は、武田清光の子の信義の五男としているが、石澤信景の存在が気になる。信景の生年・没年は不詳であり、正確なことはいえないが、石澤信景の家系にあった人物ともとれる。》 ※『甲斐国志』
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最終更新日
2021年08月21日 14時43分57秒
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