カテゴリ:俳人ノート
辻嵐外 『甲斐俳壇と芭蕉の研究』 池原錬昌氏著 一部加筆 左の書留は「第三章-甲西地区俳諧史」の嵐外の項目に記載済(略)であるが、当項構成上、削除を止め、重複を承知の上、記入することとする。 利三郎(嵐外)、京都ニ居候節、俳諸名、五六と号す。二十四才迄叔父一鼠方にて女郎を買、大ニ不埒ニ付、闌更之点書ニ付、(五味)可都里方へ達し候処甲州へ不来、士朗方へ行候ニ付、再、闌更ヨリ士朗へ申送、夫より二十五歳の時、かつり(可都里)方へ来り、夫より甲州ニ足を留候事凡、五十八年ニテ被没候 右(上)の書留により嵐外の甲州入りの顛末のあらましが判る。 又、ちかごろ入手した嵐外の手紙はいささか野卑にすぎるので発表をためらったが、人間・嵐外を知る上の、うってつけの資料と思われるので敢て紹介することとする。 収蔵者は北巨摩郡白州町で幾百年来酒醸を営む北原新次氏である。当家には嵐外の半折、書簡が多く格護されている。 紹介の手紙は嵐外自筆の絵からみて遊女にさしだした連絡文と思われる。次の通りである。挿入写真を参照されたい。 嵐外自画像 よむ処 かねて御やくそくいたし参りつもりの処いかなる事にや淋病さしおこり御約(役)にもたち不申、しかし柳町三丁目大神宮へ祈願いたし候まゝ大かた今はんあたりハ悼も用立可申とそんし候へはかならす今晩ハ手入をいたし一いくさ手きはよく一せんいたしたく何事も其せつ腹一はい フンスウ‥‥ いきをきらしても一いくさと相たのしミ 申候併これはこちらはかりのそんしよりとなりてやられてはつまらぬ 御事 (挿入 遊女文をよむ絵) これをこれがよむ処 めてたし めてたし 極月大さう色事のもてる月御そんしなき方より 御そんし様 この他、甲斐で興行した歌舞伎を報した嵐外手紙がある。 前文略す。 市川団十郎は甲斐市川出身であることは知れわたっている。私はこんなことを聞いた記憶がある。 (江戸で歌舞伎を興行するとき、まづ、甲斐でそのだしものを興行してみる。甲斐で当っただしものは江戸で必ず大入りになったと言われる。)と。 「第三華 甲西地区俳諧史」嵐外の項で嵐外の叔父は京都の井上出雲大掾であることを私は示した。 嵐外は浄瑠璃、歌舞伎についても嗜みき者であったとみていいだろう。 猶又此頃夜芝居大あたり 岩井歌右衛門 松本半四郎 瀬川冠十郎 相揃誠ゞゞふしきの大あたり見物ハ閣魔大王釈迦如来其外様ミの見物、これとても見物のひとつにて、御誘ひ合御光臨奉待上候 早ゝ頓着 九月廿八日 この手紙は「夜芝居大あたり」と述べているから、そのころ甲府には夜芝居のできる小屋があったのだろう。甲斐の演劇資料としてこの手紙は役立つのではなかろうか。 なお、嵐外の叔父、井上出雲大掾についてあれこれ調査を試みたが、今のところ判らずじまいのままである。右、手紙も嵐外から北原家へ送ったものである。
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最終更新日
2021年08月25日 14時25分58秒
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