2298730 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年08月29日
XML
甲斐俳人・北原台眠は北原市之焏光久(白州町台ケ原)
池原錬昌氏著『甲斐俳壇と芭蕉の研究』一部加筆
昭和四十二年、甲府市、橋田家(よう、当主登氏)に格差してあった芭蕉のソラ宛手紙(元禄七年五月十六日付)が新出したが、その折、蘭更の曽良庵文輔宛(上諏訪の俳人)の手紙もみつかった。この間更の手紙は芭蕉の遺髪について述べてあり、資料価値の高い内容であった。その内容については当書、第一章「芭蕉の遺髪と落歯」で述べた通りである。
 
この稿は、
この手紙の末尾に登場してくる〈台眠〉という地方俳人について述べたい。
手紙の走り書の文中、(台眠〉の「台」の字がひどく崩してあり、どうしても私には解読できなかった。困りはてた私は、いつも解読のご指導を仰いでいる森川昭先生に手紙の写真をお送りし教示を乞うた。折返し、返信をいただき〈台眠〉なる人名であることを知らせていただいた。手紙の台眠についての個所を示すと左の通りである。
 堂藁ふき間もなきに朽中候まゝ、かゝるものにて葺替可致慎まゝ、台眠なともそのかたへ集被遣可被下このかたへは一向ととき不申候
 この台眠は如何なる俳人か? 
何処の俳人か? 
如何なる句をのこしているか? 
そのあらましを知りたい、と私はった。
次いで、私は闌更関係の京都の芭蕉堂主、岩井博美氏に台眠について教示を求めた。しばらくして、岩井氏から返信が届き、台眠は『花供養』に寛政五年と同七年に一句ずつ、入集していることを教えてくださった。左記すると、
  折さしと火のとはれけり夜の花  台ケ原 台眠
  日つもりや見尽しかたき雨の花  台ケ原 台眠
 下段(台ケ原 台眠)の文字をみたとたん、私はひどく嬉しかった。台ケ原は甲斐、北巨摩郡(北杜市)白州町に所在する「字名」だからだ。台ケ原は素堂の生地、教来石(正しくは山口)にも近い。屹立した甲斐駒ケ嶽を前面に望み、信州と甲斐の県境にも遠くない。又、台ケ原は甲州の銘酒『七賢』の酒醸元、北原新次氏の居宅と工場あることでも知られている。
私は十年程まえ、辻嵐外の手紙や遺墨を拝見のため、市川文蔵氏(甲州十五人衆の一人で北原家とは姻戚関係)に同伴、北原家を訪れたことがある。
で、まず、北原家に電話、台眠をご存じや否や、お尋ねした。と、当主、新次氏は
「台眠はわが家の四代目の当主にあたり、墓碑の裏面には発句も彫りつけてある」
との回答を得た。私の自坊から台ケ原迄は車七約四十分余の距離がある。私はさっそく、春雷誌友、栗原康浩氏の串を煩わし、北原家を再度訪れた。北原家玄関左脇正面には「文部省」と筆太に銘記した木札が建っている。
 説明
明治十三年六月、山梨、三重、京都御巡幸の際、同月二十二日、行在所となりたる処にして、
主要部分はよく旧規を存せり。
 注意
一、火気に注意する事
一、工作物樹木等を損傷せぎる事
  昭和十年二月 文部省
この日、私達は当主、北原新次氏のご案内で北原家墓地を調査、主要墓碑の拓本をとり、また、家系図をみせてもらった。次で当家収蔵の俳諧資料のあれこれを拝見した。この折、当主、北原新次氏は台眠が北原家四代の祖、北原伊兵衛、諱、延辰なる人物と言われた。墓碑の法号は「昌壽院永屋良全居士」文政十三年(1830)正月中七日卒、北原伊兵衛延辰行年四十一歳)ときざまれている。裏面の辞世句は
盃の□りかけんやふしの山  (□=不明)
としるしてある。
 当主北原新次氏が伊兵衛延辰は〈台眠〉であると言われたのは、それはそれで拠りどころがあってのことである。というのは『峡中俳家列伝』(明治三十九年八月十三日刊行、著者、佐藤二葉)や「北原家・家系図」の書入れ(この書入れは後人の筆による)に「台眠は伊兵衛諱延辰」と記載されているからである。
 さて、以後の推論は森川先生のご指導を得ながら追跡した台眠のありようである。
ところで、『甲州文庫俳諧目録』 には台眠撰の『にふなひ鳥』の一冊(十八丁)がある。この刊行は、寛政十一年(1779)末八月で書林は京四条通河原町西へ入丁 勝田喜右衛門」とあり(瀧亭臺珉撰)と銘記してある。但し、(台眠)の眠を王篇の(珉)としてあり異同がある。この点はなお追跡の余地があるがそのことは暫く置く。ここに、台珉が寛政十一年八月に『にふなひ鳥』を刊行したのだから、この年次を起点として時代推定を進めると次のような結果となる。
                                                          
 台珉は文政十三年(1830)一月七日卒で行年、四十一歳だから逆算すると寛政二年(1790)生れとなる。とすると、
『にふなひ鳥』刊行の寛政十一年(1799)は伊兵衛延辰はわずか九歳の年齢である。九歳で俳書刊行は不自然で考えられない。『にふなひ鳥』の序文は可部里で格調ある文章を寄せ、成美、道彦、巣兆、士朗などその頃の著名俳人が入集している。これだけの撰集を九歳の若輩がなしえられる筈がない。
 次に、北原家墓域群の中にそのものズバリの(台眠院鳳翁光明居士)(万延二年(1861)二月二十一日歿、行年六十二歳)の墓がある。逆算すると、この台眠は寛政十一年(1799)生れとなる。『にふなひ鳥』刊行の当年となる。これ又、該当しない。玄に北原台眠を追跡するため、北原家家系図を図示すると左の通りである。
初代 北原伊兵衛光義                                             
寛延三庚午年(1750)甲州台ケ原へ酒造ヲ姶メテ分家ヲ出該家ヲ見継ク。
明和九辰年(1772)十月三十日当家ニ於テ卒年五十三、法名、道本院卜号ス。
✕二代 北原久蔵延貞 
寛政七乙卯年(1795)七月二十七日卒、法名、良壽院
〇 北原市之焏光久 
北原光義嫡男
 延辰、幼少ナルヲ以テ後見セシム。
 文化十二乙亥(1815)七月二日卒。享年六十八歳。法名、徳寺院
×四代 北原伊兵衛延辰 
二代延貞嫡男
 文政十三年庚寅(1830)正月中七日卒。行年四十歳ニシテ卒。法名昌壽院卜号ス。
松平丹波守、諏訪因幡守、御用相勤テ功アリ。
文化九申(1812)八月信州高遠殿垣外北原正太夫ノ弟ヲ当地ニ迎、当家ヨリ分家セシム。(俳号ヲ台眠)ト云。
【註】(池原曰、誤記ナラン)×印は否定 ○印は該当者ならんか。
【註】
 上、系図を年次割出しで検討すると、北原家三代の久蔵延貞も、四代伊兵衛延辰も、分家元祖八兵衛(台眠院)も『にふなひ鳥』撰者の北原台珉ではないこととなる。
ただ、四代延辰を後見した、北原市之焏光久(台ケ原、初代、北原伊兵衛光義の嫡男)が逆算すると寛延元年(一七四八)生れとなり『にふなひ鳥』刊行の折は五十二歳に当り不自然ではない。とすると、北原市之焏光久が台珉ではなかろうか。
森川先生も市之焏光久を注目された。
 闌更の没年は寛政十年(1798)五月三日である。闌更は文輔宛の手紙で台眠にふれていることは前述した通りだが、この状は晩年の筆と思われる。文中「近年は横身がちにて」の表現はそのようにうけとれる。没年にちかいとすれば寛政十年よりいくばくか前の手紙とみていいだろう。従って台眠(珉)四十七、八歳ごろにあたるのではないだろうか。
 茲に『峡中俳家伝』の誤記は訂正せねばならぬ、と思う。
 
終りに『甲斐文庫史料 第八巻 甲斐俳諧編』に該当、『にふなひ鳥 滝亭台珉撰』が翻刻されているので可都里の序文、台珉発句、盛徳(脇)、可都里(第三)と次で台眠、可都里の歌仙を示しておく。
にふなひ鳥 滝亭台眠撰(十八丁)
それ俳諧は、こころの色なり。たとへは月草のものに移ろひやすく、かゝみの影のよくものをうつすかことし。それか中に、不易あり流行あり、且しはらくもとゝまらす、さたむるともさためかたきは、かの造物者の無尽蔵なれはなるへし。かくて目にさへきり、みゝにとゝろき、こゝろに感する事あれは、おふけなくも、天骨なくも、ことの葉の色に染出るわさなりけり。されは尾張の士朗はなたねの花に、小すゝめの背をそめて、其よしはひとく鳥に見えたり、流行の色をあらはし、これ
の台珉はほとゝきすの音にむら雨をそゝきて、不易の心を染出せり。さてその雨そゝきの、あさらなる色をはしめとして、遠き近き人々の、花紅葉のめてたきいろいろ、蝶鳥のあはれなる風情まて、おのかこゝろのまにまに、やをらかいあつめて、ひといろの巻となしつ、そもやこのはいかいの色をこのまさらん人は、たまのさかつきのそこなきかことくならむかしと、わらふてふと手をそむるのみ。
                          さねかつらの可都里しるす
にふなひ鳥
霍公鳥むら雨かゝる遠音哉         台珉
   月ともいはぬ山あいの夏         盛徳
笠縫かゆふけの莚冷ぬらむ        可都里
                        以下略
歌仙
   大かたの月夜にあへりうめのはな   可都里
 * うくいすの身はしつかなりけり    台珉 
   四つ五器をそろゆる春に住つきて      里
  * 行ともとると橋の二すち         珉
  * かきつはた市の中よりひらきかけ     〃
   手のひらに降むら雨をみる         里
   旅人をあすは隔てん伊駒山         〃
 * 楠のはつれに鳴は何鐘          珉
   くれくれと下手に出来たる張火桶      里
  * 連歌の恋にせめられるゝ身は       珉
   翠簾の香の右へ除れは左より        里
  * 月の夕霧ほかほかとたつ         珉
   引板鳴子静に里をさわかせて        里
  * 地蔵ほさつの眼もあかぬ秋        珉
   又六に損をかけたる雨のくれ        里
  * 琵琶もつ足のたゆむ舟はた        珉
   一重山ふたつの中のたゆむ舟はた      里
  * ひはりの啼ぬ曙はなし          珉
 * 我庵はちいさけれとも春かすみ      珉
   盗人後世の縁にひかるゝ          里
  * 玉川の水をいくつも飲くらへ       珉  
   炬のあかりに卯の花かちる         里
 * 惚くと夏にすゝめる菅蓑や        珉   
   信夫の氏をつゝむかなしさ            里
  * 念仏を聞く鷺の眠るらむ         珉
   浪を相手に生のひる人           里
* 朝顔のことさらはやき志賀の京        珉   
 早稲の餅つくさかり也けり         里
* 澄きって五夜も六夜も秋の月       珉   
 こゝろかよれは鉢たゝく僧         里
 土器を踏つふしたる這入口         里
* 馬を負せし花の大枝           珉   
* 長閑なるおとゝの姿おかみけり      珉       
 宇治の朝日に夏かちかつく         里
 声は駒鳥ならす鶯ならす          〃
* にふなひ鳥といふは渡鳥         珉   
      
滝亭台珉 撰 寛政十一年未八月
  京四条通河原町西へ八丁  書林 勝田喜右衛門
〔北原臺眠〕
 臺眠は現在の白州町の台ケ原集落(合併により北杜市白州町台ケ原となる)の生んだ俳人であり、当時の著名俳人とも交流が深く、それは伝えられる以上のものがある。北原家は江戸時代の寛延二年(1749)頃、信濃の高遠から移住して造酒屋を営んだのにはじまり、(「家譜」/村役人連署「差上申済御証文之事」)現在山梨名醸として現在に至っている。
 家の作りも抜きん出ていて、切妻中二階式の大型町屋で山梨県教育委員会発行の『山梨県の民家』に詳しく報告されている。幕末には信濃諏訪高島藩の御用商人となり、窮乏する高島藩の為に千六百二十五両を用立てた証文を蔵して居られる。 
 また長野県の『富士見町誌』には産米を北原伊兵衛宅に納めた記録が残っている。
 天保十二年の家の古図によれば醤油の醸造、明治には北原銀行も開設している。また中の間と書院造りの彫刻欄間の主題は「竹林七賢」で立川流の名工立川富種の作で諏訪高島
主より贈られたと伝えられている。先の『山梨県の民家』では、「全国的に見ても第一級の幕末大型町屋といってよい」と絶賛している。
 また山梨名醸の造酒「七賢」は山梨県を代表する銘柄であり、蔵出し始め多くの愛好者が訪れていて、休息や食事もできる「台眠」も人気がある。今回はこの「臺眠」についての調査報告である。
〔塚原甫秋〕
  一方の塚原圃秋については断片的な資料しかなく、いずれ本格的に調査を開始するつもりである。今回はこれまでの少ない調査資料から提示する。
〔諸書に伝えられる台(臺)眠・臺珉(たいみん・だいみん)〕
 
1、『峡中俳家列傳』(『甲斐史料集成』第十一巻所収 明治三十八年刊)
北巨摩郡菅原村の臺ケ原と云ふ處に北原仁と云ふ酒造家がある。其の七代前の遠祖に通稱伊兵衛、諱は延辰と云ふ人があった。
嵐外(辻氏)に就て俳諧を學び號を臺眠と稱へた。師弟の情が最も濃やかであったから嵐外は閑暇があれば常に臺眠の下に遊びに行って居た。
夫れで嵐外が常に携へて居た如意を記念の為に此家へ留めて置たが、其れが臺眠手より他の手へ、他の手よりまた他の手へ幾変転した末に、當時峡中詩壇の飛将軍たる狩穂の舎主人小澤眼石翁に傳はったのである。
文政十三年(1830・天保元年十二月十日改元)不惑を超ふる事僅に一歳(41才)にして逝かれた。龍福寺畔荘嚴なる碑石が此の人の永眠の地に建てられてあるが、此の碑石は実に永遠に此の人の俳名と其の富豪とを語るべき不文の歴史であらふ。それで此の人の作として傳はれるものは実に左の數句に過ないのである。
目の及ぶだけを櫻の曇り哉
時鳥引返そふか筑波山
暮るゝほど心こもるぞ菫草
山里や包むもの無き冬の月
《筆註》
 一部記載違いがあるがここでは省く。(通稱伊兵衛、諱は延辰は年齢的に台眠ではない)
2、『甲州俳人傳』 (昭和七年四月刊。功刀亀内著)
 北原臺眠
 北巨摩郡菅原村臺ケ原の人。通称伊兵衛延辰。雪亭葛里の教で俳諧を学び、その門下高弟の一人なり。又辻嵐外と交遊浅からず、峡北の巨匠なり。瀧亭臺眠と号す。文政十三年正月七日歿す。同村龍福寺に葬る。著書 「にふなふ鳥」一冊。寛政十一年八月刊行。五味可都里序文
《筆註》この亀内の『甲州俳人伝』は現在も『甲州文庫』と共に引用される書であるが、多少の間違いもある。
   





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年08月29日 07時47分40秒
コメント(0) | コメントを書く
[白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X