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2021年08月30日
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山田仁左衛門長政 一話一言 大田南畝纂著

 

織  自ら云う、織田信長の裔孫也、山田は織田の別名也と、本国尾州の人也。流落して駿府に来り、市人に交り知己を求て馬場町の商家に寓居する事十余年、市中の産業を不求、常に大志有て仕官を不妊、頗仁侠にて兵術を談ずる事を好む、市人道逸の徒なりとして、相親しき友は責諌れども容る顔にて従事せず、されども心直実にして才弁有ければ、人多く睦び親み交暹を結ぶ。

我我朝中古より寛永十五年の頃まで、異国へ商船通路自由なりければ、京・大坂・奈良・堺・長崎より唐渡りとて、交趾暹羅東京柬埔寨西土の外夷諸国へ渡り商法交易の利をなしける時、駿府よりも紀州長崎に商船を調へ渡唐仕ける、毎年往来仕たりし商人定りて弐拾家計あり。後に我朝より外夷に渡り交易する事を官より制禁ましまして、異国より渡来する所の貨物を長崎にて分ち給り、本国にて商売する事を免し給ふ。其家を貨物取と名付、当所にても貨物取の家近年まで残りたるに、松木新左衛門、友野与左衛門、大黒屋孫左衛門、山田助兵衛、多々良庄太郎、出雲屋清兵衛、滝佐右衛門、大田次郎右衛門、桑名屋清右衛門、富田屋五郎右衛門等也。始は元和の頃己午年歟、駿府の商家滝佐右衛門、大田次郎右衛門唐渡したりし時、彼仁左衛門も供に渡海せん事を望む、されども日頃流浪の身にして、産業を事とせず志し尋常ならず、商家の人の用をなす事益なしとて請がわず、終に唐渡を発せんとして彼を誘引せず、仁左衛門早く悟り、先達て家を出で摂州大坂の辺に待向ふ、滝大田大坂に到る時出向つて只管同船せん事を請ふ。二人止事を得ずして同伴仕、例の外夷に行。此頃大明に行し事なし、タイワン・しやむろ・天竺の外夷にて交易をなす、其船を御朱印船と云しも、官印を申賜りて渡海せし故なり、既にタイワン(台湾)行き外辺に廻り帰らんとする時、仁左衛門我は此土に止らんと云、二人其意に任せ帰朝す。独りタイワンに止り、〔割註〕此時二十七歳或は二十八歳。

其後消息を聞事なかりしに、寛永の初大田次郎右衛門、滝佐右衛門又渡海してタイワンに渡る時に、タイワン人告て云、秘かにシャムロ国より書を伝て曰く、和国商客来るべし、早くシャムロに渡来すべし、商貨交易の利宜事有べしと也、速に彼国より送渡すべしと告ぐ。

大田滝是を聞て怪ながら逡羅(シャムロ)に渡り至ければ、国人倭人の来るを見て長吏に告ぐ、先に国王の命あり、はやく倭商の来ることを王城に可告とて、彼二人を衛護仕一所にこめ置て禁則するが如し。

 数日ありて長吏告て日、国王汝等を召す、王城に往べしとて送り遣はす、駅中例に異なり国人目を傍め衛護仕て駅官に饗す、日を経て王城に至る。宮人令して曰く、国王汝等を可見給、宜しく本国の慶賀を献じ、おんふら王を可拝と。〔割註〕国を称してヲンフラと云。」

已に営中に人て王を拝す、左右に兵器を陳ね散人の侍官囲列せり、其儀甚厳重なり。王出て見、綾羅目を輝す、命じて曰く、別言留宿し休慰すべしとて、王入て退き去る、宮人別殿へ引て留宿せしむ、饗応甚善美を尽せり。夜更けて人あり、密に便服して出で来り、左右の者を退く、滝大田が肩を推て手をとりて歓笑す、二人驚て是を見れば彼の王也。いって曰く、我は山田仁左衛門也、旧日の恩恵何れの日歟忘れん、我吾子と供に本国を出で愛息を以て渡海し、大究(タイワン)に至っての後此土に来るの頃、隣国兵争し〔割註〕或云、六昆国と相侵伐す。」   

国中乱る、時に我謀を廻らし倭人の国にあるものをかたらひ、一騎の将と成り日本人の加勢と号し、国民を駈催し和国の風俗軍装をなし、しばしば戦ひ、幸に勝利を得て軍功をたつ、王賞丑寅する事甚し、王我に后女をめあはせ王位を譲る、今隣国を合せて我領掌に帰す、栄耀身に余る、遺恨むらくは本国の旧好に不逢事を、故に先に大究に令を伝て倭商の来るを待つ、今幸に吾子に漁て累日のおもひ足れり、我身をして本国に知らしめよ、且は日本の武名盛んなるを以て我功を成す事を得たり、我又微賤にして日本の威風を外夷にあらはす、生前の悦何事か是にしかんやといひ畢たるに、商客退て下座に平伏仕、我等此国に来り今般の体装甚疑惑する所に、王の事を聞て蒙意を啓く事を得たりと、其威風盛功を仰ぎ賀す。王の日、否、吾子今を以て旧日の宥を忘るゝ事なかれ、

我再会只往日金蘭の文意を謝し、猶兄弟の好親を望む、自今国中に令して和朝商客の着津留宿を安じ、又国中悉く貨物交易をなし利得多からん事を欲す、是を以て本国の商客に語れ。談話従容として旧日の如く相親み、尊卑を分つ事なし。既に黎時に及ければ外宮の怪まん事を憚り、後会の約をなし入り去る。

其後辞して去るの時、金銀国産の名器を授け、駅路を饗し海津に送り帰さしむ。大田滝は持携る所の貨物を悉く彼国中へ交易仕、大に貨殖の利を得て本国に帰り、具に山田が事を郷里に語り告ぐ、是におゐて市中の老夫、挙て日頃の大志果して尋常ならざる人才なる事を嘆美せり、本国の商客此事を聞伝へて暹羅にしばしば往来して交易の利を得たる事多し。

寛永三年丙寅の頃商客又彼国に至る時、山田おんぶら王属命して曰、我本国に在し時駿州の総社浅間新宮は、霊徳崇く神威盛んにましませば、日頃殊に敬拝す、今猶他邦に在ても仰慕尊信する事厚し、ゆゑに今ここに来りて軍艦を造り、戦争しばしば勝利を得し事も、日本神徳の冥護にあらずんば争でか我軍功をなす事を得ん、依て我戦艦を図し絵馬に書て神殿に奉納せん、宜く持ち去て我為に寄納せよ、標題の文字は平田仁右衛門に附托仕て書せしむ、年月姓名を可記となり。平田氏諾して染筆す、和商帰来の後神殿に掲げて国民をして見る事を得せしむ。

〔割註〕今浅間宝蔵にある異国軍船の絵なり。」

猪又山田が親族外に聴く事なし、独り治兵衛といふ商人あり、是山田長政が甥なり。故に暹羅より貨器を送り、是を以て売買し、武江にて唐物屋と云ふ。寛永十余年頃長崎へ往き、暹羅へ渡り至らんと欲す、時に暹羅人の来るあり、詳に山田が事を尋問す、曰、其王は反逆の者の為に毒がいせらる、今反逆の徒党国中に多し、往かば恐らくは害に逢んと。治兵衛此事を間て遂に不往。山田彼国に王たりし時、国都において獣類を鬻食する事を禁じ、王の飲食専ら魚肉を進ず、又市廓を定めて倭人を居らしむ、是を日本町と云、今に長崎渡来のシヤムロ人に間くに、今其名存せりと也。

右柳陰子之談予筆記之、以下条々以所予見開府併備参考。

 

仁左衛門暹羅に在て倭商の帰帆に寄て、駿府旧友に土産の器物を贈る、今に漆器の盆孟の類ひ、往々市中に持伝ふる者あり。

或云、暹羅国は北極地を出る事十三度の国なり、海上日本より二千四百里柬浦塞の西北也。唐土よりは西南の方に当り、川南天竺是也。四季熱国なり、仲冬頃より正月初迄夜冷かに、昼も少し涼し、其外は暑気なり、人煩ひ熱有て病もの有れば、水を頭より浴せしめて川病気癒ゆ。国王は毎日金を磨りて呑むといヘリ、人物是等の国は皆不断裸にて、腰に木錦鳥花布の類を捲て、其はしを肩に懸るを礼儀とす、色黒く毛髪縮みたり、中人以下は皆洗足也。一年に二度或は三度耕作する故に米穀甚易し、寺ありて出家も多し、日本の出家の作法と格別なる事多く、横文字の経はさのみ多からず。此国日本渡海の時住居せる者の子孫或物語に、播州高砂の住人徳兵衛と云者、後剃髪して宗心と云。寛永三年十月十六日に肥前国長崎福田を出船いたし、翌年三月三日に南天竺摩阿陀国竜砂川しやむろはんていやと申所迄着船仕候と云々。

長崎より三千七百里、彼竜砂川暹羅摩阿陀屏の境にて、河口より三里川上にはんていやと申す城あり此所にて日本よりの御朱印を改め、手形を差上申候。右しやむろはんていやの城主於夜加藤保牟と申す者、侍犬将にて於牟不牢と申て、左大臣の位に御座候よし、此おやからほんは、元は日本伊勢山田の人といふ、長崎より暹羅へ便船にて渡り、性勇悍にして但し智謀ありければ、国王の下知につき、所々軍陣に立ちよき手柄ども致され候故、国主の婿になり、其上後には暹羅国の譲りを請けて国王になり申候由、日本にては山田仁左衛門と申候へ共、天竺にては「おやからほん」と申候。侍をば相衆共申し、「なんまんてう」共申候、何れも帝王の御番を勤申候由、但し山田仁左衛門を此物語に勢州の人といふは伝聞の誤也。

和漢三才図絵にも右宗心が百話を載る。

 

明清闘記に載る所の暹羅の物語りも、蓋山田氏彼国に渡り至るの時分なるべし。其ことに曰、近頃暹羅国・六昆国と累年相侵伐するといへども、終に雌雄を分つ事なし、其折節倭朝より商客多く交趾・暹羅・東京・柬塞の間に渡て、或は去来し或は居住しける。「しやむろ」の国王日本より渡れる者を点検せしめて被見ければ、五百人あり、王即彼らに武器を授け、将校を差し定めて六昆国へ推寄る、総て天竺南夷の習にて、軍

此方の象は黄象にて候、明日例の如く象合を可仕候間、定て可為御覚悟と申送ければ、暹羅王返答に、尤の御事なり。此方にも日本の白象を所持仕候間、何様明日軍法を以象合可致と被申、使者驚く、さて日本の白象と承り恨事千万不審にこそ恨へ、是非一見と申ければ、安き事也とて神象一疋を出す。額に二の角あり、背に大きな翼を生じたり、身は鉄石の如くにて、叫ぶ聲雷神の如し、鼻を以て剣戟を巻きて能く人獣を服す、となり。次に日本人に甲冑を威させ、綴旗を指させて五百人一面に立並て為見ける程に、使者興をさまし帰て此由を王に語ける。六昆国王大きに恐れて一戦にも不及忽に講和し、義を修めて城下の盟をなすとこ  そ間及びつれ、是明臣羅乱の時、鄭芝竜鄭成功父子弘光の年、福建福州府にて明帝の末新主を取立、韃靻勢と責戦ひし時韃人の物語也。鄭成功名は森、後に国姓爺と号す、日本肥前国平戸の産、成童の後福建に帰る、智勇兼備りて甚武威を振ひし者也。山田仁左衛門暹羅へ渡りし時、寛永の始よりは廿余年の後正保の頃なれば、韃人間及んで語りける物ならん。嗚呼我国武の盛なる威風を外邦に振ふ事、上古より近世に至るまで、記伝の載る所枚挙するに暇あらず、外国に人て鉾を振ふの兵士精強にて、曾て辱を得る事だし、或中葉足利家末世網紊残暴逋逃の士、海島の間に京れ、乱に乗じて国禁を恐れず、西土朝鮮沿海の地に入り、往来して辺境を犯し、城郭を焼毀し居民を抄掠す、其残賊なるは君子の戒むる処なりといへども、其軍術に於ては我国武威の余烈なり、況や豊臣太閤秀吉公の朝鮮を伐ち給ひ、兵を大明に入れんとし給ふ、其武量の大いなる、謀略の広き、諸方の戎夷に至るまで間伝へて、我国の武威兵術を恟怖る、故に倭軍の為に禦を設る事、諸士往々に是を学び、威風外国に振ふ事可知、山田が如きの者も亦我軍威を興して、竺夷に王たるものか、惜款世の人其名を知るもの幾希、故に今一二に聴く所を繕写し同志に授くと云爾。






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最終更新日  2021年08月30日 16時46分09秒
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