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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月05日
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  誤伝 馬場美濃守信房公

 

 歴史とは大きな間違いの中で伝えられている場合が多い。馬場美濃の場合も多くの書籍や地域歴史資料それに神社仏閣の由緒書の影響が強い。

 馬場美濃の出生が現在の白州町下教来石の生まれてされるが、各種系譜や由緒など全くいい加減なものが多く、その史実は確かなものでは無い。

 山梨県では武田信玄の祖が新羅三郎義光とされている。従って山梨県の神社や寺などの多くは義光を祖とするものが見られる。これ等は殆ど創作歴史や創作由緒である。

 

史実とはなんであろうか。白州で生まれ甲府で育ち、江戸に出て松尾芭蕉とともに俳風の確立に一生をかけたと伝えられる山口素堂も研究の結果、伝記に大きな間違いがあることがわかった。資料に基づかない定説は素堂に関わらず山梨県内の歴史上の人物にも有り得る事である。

 歴史と云うものは真実を歪めて伝えてはならないものであるが、時の歴史は権力者らにより過去は抹殺されたり書き改められたりしていくのが、歴史の持つ一面である。

 一人の人物を崇め奉る故に多くの人物が歴史上消え去ったり悪者になったりするのもよく聞く話でもある。

 国書と云われる『古事記』や『日本書紀』も何度か焚書されていると指摘する本もあり、今でもその信憑性が物議を呼んでいる。山梨県の各地にも日本武尊や聖徳太子に行基上人が充満している。しかしその多くは後世に於いて創作されたものである。

 さて私の住む町には俳諧人で漢詩や書それに和歌や儒者の一面を持つ山口素堂以上に全国的に有名な武田晴信(信玄)の家老として活躍した馬場美濃守信房(信春と云う本もあるがこれは後世の書物に見られるものでこの書では信房と呼ぶ)が居る。初名を教来石民部景政が最初の名前と伝わりこれを持って当時の教来石村に生まれたとされている。また武川衆の一員として数えられているがこれも大きな間違いである。

 

 白州町はかって教来石村を含む鳳来村、駒城村、菅原村が合併して出来た町で、その鳳来村下教来石にはどうしたことか馬場美濃守の伝記は伝わっていない。山口素堂と同じように、地域に根づいていないのである。

 『甲陽軍艦』に記された一行「教来石民部」の一部を持って長い間そう信じられていたのである。「教来石家屋敷跡」も鳥原集落と教来石集落の間にある高台に標識があるが、史跡調査の結果を見ても大掛かりな屋敷跡であることは理解できるがそれが「教来石家」の屋敷跡であることは実証されてはいない。又、教来石は「きょうらいし」ではなく昔は「けふらいし」である。

 

そこで馬場美濃守信房が本当に教来石村の出身であるかをその事跡と伝えられる人物像から探って見ることゝする。山口素堂の研究の前から美濃守の足跡を追って各地を訪ねさまよい歩いた時期があった。その時に痛切に心を苛まれた事を覚えている。活躍場所や終焉地の手厚い加護に比べて私を含めて生誕地の接し方の冷たさや史実の不足が身に染みて感じられた。

馬場美濃守は全国各地に家系を継ぐ人々の心の中に今でも生きているのである。教来石が生誕地とされるのが事実であれば、今でも馬場美濃守は白州の人々の心に生き続けて大切にされている筈である。もし美濃守が教来石家の人間でないとすると、美濃守は他所での生まれとなる。 多くの資料を収集してそこから生まれる馬場美濃守の姿こそが真実により近いものとなる。

 

また馬場家とは違う教来石家も歴史書の中には記されている。

馬場美濃守信房は信虎・信玄・勝頼の三代に仕え、武田氏興隆のために精魂を傾けた。

 「甲陽軍艦品第十七巻第八 武田法性院信玄公御代惣人数の部、御親類衆」の次の、「御譜代家老衆の部」に十七人の名があり、その筆頭に、馬場美濃守、旗白地黒山道、百甘騎とあり、内藤修理正・山県三郎兵衛・高坂弾正が並列されていて、中でも信房は武田家の重臣中の重臣であった。               

 戦闘に参加すること二十数度、そのうち抜群の功績を称えられたもの九度に及び、それでいて身に一創も受けなかったという。敵も味方も敬仰する勇将であり、智将であり、而もその身辺には、どこか人間的な暖かさが漂っている名将であった。

 信玄という巨星が墜ちてからの信房は、武田王国を支える柱として、苦しい立場に置かれたであろう。

 三年間、喪を秘して、軍を動かすことなく、国力の充実を計れ、と言い残した信玄の言葉には、誠に重大な意味があった。戦に明け暮れた甲州並びに分国の、人民の経済力は既に底が見えていたことと思う。

 血気にはやる勝頼にはそれが読めなかったのではなかろうか。功をあせって、高天神城をおとし、明智城を手に収めて自信を高めた。最早、老臣遠の忠言も耳に入らず、一万五千の大軍を長篠に進めた。

 天正三年五月十九日、医王寺山に於ける武田軍最後の軍議でも、勝頼は、信房をはじめ老将達の意見を押えて、設楽原に陣を布いた織田・徳川連合軍の三千挺の鉄砲の前に身をさらした。

 五月二十一日の昼頃、勝敗の数は既に明らかになった。信房は、勝頓に退却をすすめ、自らは勝頼を擁護して殿戦をつとめ、勝頓が寒狭川を渡って、甲州に逃れ行く姿を見送って、従容として敵に首級を与えた。

 寸分の隙もない程充実した生涯であったが、特に人心に強い感銘を与えるものは、六十二年の生涯をかけて育てた武田氏の、余りにもいたましい敗戦を、眼のあたりに見て、散っていった信房の最後の姿であろう。






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最終更新日  2021年09月05日 07時00分57秒
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