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2021年09月05日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

検証 鎌倉幕府と甲斐源氏(一)

 

『軍記物語』『平治物語』『新日本古典文学大系』一部加筆

 

源頼朝 義兵を挙げらるる事并平家退治の事

  

一条(忠頼)・武田(信義)・小笠原(長清)、甲斐国よりうって出、駿河の目代弘正討たんとて、駿河国へ発向する、目代弘正、其勢、幾程もになかりければ、平家に心ざしある輩一手余騎、馳集めて目代を見つぎけり、甲斐源氏、三千余騎を三手に分けて、中に取籠責ければ、目代弘正、討たれにけり。

平家、此事を聞きて、官軍をさし下さる、大将軍は権亮少将惟(維)盛、其勢五万余騎にて、富士川の岸、蒲原に陣をとる、兵衛佐、二十余万騎の勢にて、足柄と箱根、二の山を越えて、駿河国黄瀬川に陳をとる、明日合戦と定めた夜、富士の沼におりゐたりける水鳥の、たちける羽音を鯨波と聞きなして、一矢も射ず逃げのぼりける。

 

平家物語 (巻四、源氏揃)

 

『日本古典文学大系』

 

其比後白河院、第二の皇子以仁の王と申しは、御母加賀大納言季成(藤原)卿の御娘也、三条高倉にましましければ、高倉の宮(以仁王)とぞ申ける、(中略)

其比近衛河原に候ける源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御所にまいて、申ける事こそおそろしけれ、「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ、太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、三十まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさずや、当世のていを見候に、うへにはしたがいたるやうなれども、内々は平家をそねまぬ物や候、御謀反おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿に押し込められてわたらせ給ふ御心をも、やすめまいらせ、君も位につかせ給ふべし、これ御孝行のいたりにてこそ候はんずれ、もしおぼしめしたゝせ給ひて、令旨をくださせ給ふ物ならば、悦をなしてまいらむずる源氏どもこそおほう候へとて、申つゞく、

「まづ京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、(中略)

甲斐国には、逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同小次部長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、

(中略)

これみな六孫王(経基)の苗裔、多田満仲が後胤なり

朝敵をもたいらげ、宿望をとげし事は、源平いづれ勝劣なかりしか共、今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にも猶おとれり、国には国司にしたがひ、庄には預所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすひおもひも候はず、いかばかりか心うく候らん、君もしおぼしめしたゝせ給て、令旨をたうづる物ならば、夜を日についで馳のぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐらすべからず、入道も年こそよて候ども、子共ひきぐしてまいり候べし」とぞ申たる、

 

 (巻五、富士川)甲斐と信濃の源氏

 

さる程に、此人々は九重の都をたて、千里の東海におもむき給ふ、(中略)日かずふれば、(治水四年)十月十六日には、するがの国清見が関にぞつき給ふ、都をば三万余騎でいでしかど、路次の兵めしぐして、七万余騎とぞきこえし、先陣はかん原・富士河にすゝみ、後陣はいまだ手越・宇津にささへたり、大将軍権亮少将維盛、侍大将上総守忠清をめして、

「たゞ維盛が存知には、足柄をうちこえて坂東にていくさをせん」

とはやられけるを、上総守申けるは、

「福原をたゝせ給し時、入道殿(平清盛)の御定には、いくさをば忠清にまかせさせ給へと仰候しぞかし、八ケ国の兵共みな兵衛佐にしたがひついて候なれば、なん十万騎か候らん、御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々のかり武者共なり、馬も人もせめふせて候、伊豆・駿河の勢のまいるべきだにもいまだみえ候はず、たゞ富士河をまへにあてて、みかたの御勢をまたせ給ふべうや候らん」と申ければ、力及ばでゆらへたり、

さる程に、兵衛佐は足柄の山を打こえて、駿河国喜瀬河にこそつき給へ、甲斐と信濃の源氏ども馳来てひとつになる、浮嶋が原にて勢ぞろひあり、廿万騎とぞしるいたる、(中略)

又大将軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛をめして、

「やゝ実盛、なんぢ程のつよ弓勢兵、八ケ国にいか程あるぞ」

ととひ給へば、斎藤別当あざわらて申けるは、

「(中略)甲斐・信濃の源氏ども、案内はして候、富士のこしより搦手にやまはり候らん、かう申せば君をおくせさせまいらせんとて申には候はず、いくさはせいにはよらず、はかり事によるとこそ申つたへて候へ、実盛今度の戦に、命いきてふたゝびみやこへまいるべしとも覚候はず」

と申ければ、平家の兵共これきいて、みなふるいわなゝきあへり、

 

(巻五、五節之沙汰)一条次郎忠頼、安田三郎義定

 

兵衛佐、馬よりおり、甲をぬぎ、手水うがいをして、王城の方をふしをがみ、

「これはまたく頼朝がわたくしの高名にあらず、八幡大菩薩の御はからひなり」

とぞの給ひける、やがて打ち取り所なればとて、

駿河国をば一条次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定にあづけらる、平家をばつゞゐてもせむべけれども、うしろもさすがにおぼつかなしとて、浮嶋が原よりひきしりぞき、相模国へぞかへられける。

 

(巻九、宇治川先陣)武田太郎(信義)他

 

尾張国より大手・搦手二手にわかてせめのぼる、大手の大将軍、蒲御曹司(源)範頼、相伴う人々、

武田太郎(信義)・鏡(加賀美)次郎・一条次郎忠頼・板垣の三郎謙信・稲毛三郎重成・楾谷四郎・熊谷次郎・猪俣小平六を先として、都合其勢三万五千余騎、近江国野路・篠原にぞつきにける、搦手の大将軍は九郎御曹司義経、おなじくともなふ人々、安田三郎義定・大内太郎・畠山庄司次郎・梶原源太・佐々木四郎・糠屋藤太・・渋谷右馬允・平山武者どころをはじめとして、都合其勢二万五千余騎、伊賀国をへて宇治橋のつめにぞをしよせたる、(中略)

 

 軍記物語(2)第六編(巻九、河原合戦)安田三郎義定

                   

宇治・勢田やぶれぬと聞えしかば、木曾左馬頭義仲、最後の暇申さんとて、院の御所六条殿へ馳せ参る、(中略)大将軍九郎義経、軍兵共に戦をばせさせ、院御所のおぼつかなきに、守護し奉らんとて、まづ我身ともにひた甲五六騎、六条殿へはせまいる、(中略)法皇大に御感あて、やがて門をひらかせて入られけり、(中略)法皇は中門のれんじより叡覧あて、

「ゆゝしげなるもの共哉、みな名のらせよ」

と仰ければ、まづ大将軍九郎義経、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重責とこそ名のたれ、義経ぐして、武士は六人、鎧はいろいろなりけれども、つらだましゐ事がらいづれもおとらず、

 

(巻九、木曾義仲の最期)甲斐の一条次郎殿

 

義仲は長坂をへて丹波路へおもむくとも聞えけり、又龍花ごへにかゝて北国へともきこえけり、かかりしかども、今井が行ゑをきかばやとて、勢田の方へおちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぽつかなきに、宮こへとてかへすほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿にゆきあひたてまつる、互になか一町ばかりよりそれとみして、主従駒をはやめてよりあふたり、木曾殿今井が手をとての給ひけるは、

「義仲六条河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくえの恋しさに、おほくの敵の中をかけわて、是まではのがれたる也」、

今井四郎、

「御ぢやうまことに恭なう候、兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれども、御行えのおぼつかなさに、これまでまいて候」

とぞ申ける、木曾殿

「契はいまだくちせざりけり、義仲がせいは敵にをしへだてられ、山林にはせちて、此辺にもあるらんぞ、汝がまかせてもたせたる旗あげさせよ」

との給へば、今井が旗をさしあげたり、京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつるものともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞ馳せ集る、木曾大に悦て、

「此勢あらばなどか最後のいくさせざるべき、こヽにしぐらうで見ゆるはたが手やらん」、「甲斐の一条次郎忠頼殿とこそ承候へ」、

「せいはいくらほどあるやらん」、

「六千余騎とこそ聞え候へ」、

「さてはよい敵ごさんなれ、おなじう死なば、よからう敵にかけあふて、大勢の中でこそ打死をもせめ」とて、真っ先にこそすゝみけれ、木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒しめ、いか物づくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさにいて少々のこたるを、かしらだかにおいなし、しげどうの弓もて、きこゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましゐに、黄覆輪の鞍をいてぞのたりける、あぶみふばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、

 

「昔はきゝけん物を、木曾の冠者、今はみるらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや、甲斐の一条次郎とこそきけ、たがいによい敵ぞ、義仲うて兵衛佐に見せよや」とて、おめいてかく、

一条次郎、

「只今名乗るは大将軍ぞ、あますなもの共、もらすな若党、うてや」

とて、大ぜいの中にとりこめて、我うとらんとぞすゝみける、木曾三百余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文宇にかけわて、うしろへつといでたれば、五十騎ばかりになりにけり、

 

 (巻九、樋口被討罰)甲斐の一条次郎殿

 

今井が兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野の城へこえたりけるが、そこにてはうちもらしぬ、紀伊国名草にありと聞えしかば、やがてつゞゐてこえたりけるが、都にいくさありときいて馳のぼる、(中略)

五百余騎のせい、あそこにひかへここにひかへ落行ほどに、鳥羽の南の門をいでけるには、其勢わづかに廿余騎にぞなりにける、樋口次郎けふすでに宮こへ人と聞えしかば、党も豪家も七条・朱雀・四塚さまへ馳向、樋口が手に茅野太郎と云ものあり、四塚にいくらも馳むかふたる敵の中へかけ人、大音声をあげて、「此御中に、甲斐の一条次郎殿の御手の人や在ます」ととひければ、

「あながち一条次郎殿の手で戦をばするか、誰にもあへかし」

とて、どとわらふ、わらはれてなのりけるは、

「かう申は信濃国諏訪上官の住人、茅野大夫光家が子に、茅野太郎光広、必ず一条次郎殿の御手をたづぬるにはあらず、おとゝの茅野七郎それにあり、光広が子共二人、信濃国に候が、「あぱれわが父はようてや死にたるらん、あしうてや死にたるらん」となげかん処に、おとゝの七郎がまへで打死して、子共にたしかにきかせんと思ため也、敵をばきらふまじ」

とて、あれに馳あひ是にはせあひ、敵三騎ゐおとし、四人にあたる敵にをしならべ、ひくでどうどおち、さしちがへてぞ死にける。

 






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最終更新日  2021年09月05日 15時23分51秒
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