カテゴリ:馬場美濃守信房資料室
馬場美濃守信房公 自元寺/恵林寺の墓
『甲斐の名勝 馬場美濃守信房公とその子孫』 昭和46年 鳳来町立長篠城跡史跡保存会長 丸山彭氏著 一部加筆 山梨県歴史文学館
所在地 山梨県北巨摩郡白州町白須一三六四番地 自元寺墓地 自元寺の墓地、墓地の左端にある板碑が、馬場信房の一石塔である。 始めは寺僧の墓と並んでいたが、区劃整理の都合で『馬場祖三郎』家の 墓に接して建てられた。 関東地方に多い形式の板碑で、豊橋市二川町妙泉寺にある馬場氏の墓も同じ形式である。
馬場祖三郎家屋敷内に祭られていた五輪塔 祖三郎家の敷地は現在、白州町診療所と隣家の土地が該当する。 調査の折、この五輪塔を信房の石塔と思い込んで帰町し、後になって手紙で照会した所、山崎秀雄師(当時の住持)から、次のような意味の御返事をいただいた。 馬場ほの氏の夫、祖三郎氏は高根町の山田家からの養子で、白須かち甲府市に移り、開狭楼(かいころう)という料亭を営んでおられたが、今はその子孫が武蔵野市に住んでおられる。同家の白須の屋敷は広大で、当時の菅原村が買い取った。 この屋敷に大樺と大きな石桐とがあって、その前に五輪塔があった。馬場家から、大欅と五輪は勣かさずに保存してほしい申しこんであったが、祖三郎・ほの両氏とも他界されたので、五輪塔は郷社八幡社(白須若宮神社)の裏に移された。 このままでは、馬場祖三郎家の五輪塔かどうか、わからなくなるので、当主に説いて、白元寺の現在位置に移した。移動する時は人夫委せだったので、五輪塔に混乱があったらしい。 信房公の遺骨は家臣原四郎が甲州に持帰り、自元寺で法事を営んだと記してあるが、埋葬した風剔い場所についての伝承も文書もない。
自元寺の由緒書・信房の位牌には、遺品と遺骨を甲州に持ち帰ったとあるが、これは遺髪を指しているものと思う。 信房は、天正三年五月二十一目、敗走する武田軍の殿をつとめ、織田軍に追撃される最中で、敵に首級を与えたのであるから、その時点では、家臣が遺骨を持ち帰る予猶はなかったと思う。 信房はこの戦で討死すれば、首級は敵手に渡ることを覚悟されての進撃であるから、遺品や遺髪を家臣に渡して、死後のことも言いふくめておかれたであろう。家臣は白光寺で葬儀を行った後、遺髪をここに葬るのは自然の成り行きであるが、武田氏滅亡後はきびしい残党狩を恐れて、葬った場所を秘密にしているうちに、記録も言い伝えも消滅したのではなかろうか。
恵林寺の墓 所在地 山梨県塩山市小屋敬二二八〇番 恵林寺 天正元年、武田信玄は逝去したが、三ヵ年間喪を秘して、天正四年盛大な葬儀を行って、恵林寺に葬った。 信玄の墓の後に家臣の墓碑が並んでおり、その中に、馬場信房・馬場一族の墓碑がある。 寛政重修諸家譜巻第一八四に 天正三年五月二十一日長篠の役に戦死す。 法名、乾忠 甲斐国恩林寺に葬る。 と記されているが、ここに葬ったとしても、遺髪であろう。(俗名と法名の部参昭一のこと) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月08日 16時25分47秒
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