カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
白州町の歴史・史跡〔武田没後の武川衆 家康家臣へ〕
天正十年三月武田氏が滅亡し、六月本能寺の変によって織田信長が最後を遂げて天下の形勢は一変する。そして甲州は北条と徳川の争奪の地となる。徳川家康は武田の遺臣を抱えようと、かねてから武川衆にも注目しており、部下の将成瀬正に命じて武川衆の有力者折井市左衛門次昌と米倉主計助忠長を説得していた。それで折井・米倉は武川の諸士を説いて団結を強化し、七月九日、中道より右左口峠を経て甲斐に入国した家康を迎えたのである。 相模の北条氏政は、その子氏直を大将として信州に侵入し、佐久郡より甲州逸見筋に南下し、その兵四万三千と称し意気があがっていた。 八月十日、家康は甲府から新府城に移った。 八月十二日には栗駒の合戦があり、北条軍は鳥居元忠・武川衆らの徳川勢のため大敗した。この合戦の結果北条方の士気は喪失し、北条軍が拠っていた大豆生田砦も陥り、津金衆の奇襲によって江草砦(獅子吼城)も陥って北条軍は退いた。
白州町の歴史・史跡〔武川衆、武蔵国(埼玉県)へ移封〕
武川衆は天正二十年(1592)、家康関東移封とともに旗本衆として武蔵国に知行地を与えられて移った。 慶長八年(1603)家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いて、第九子徳川義直を甲斐二四万石の領主に任じた。 甲斐は親藩領となり、平岩親吉が城代となった。 〔武川衆再び甲斐へ〕 それで慶長九年(1604)二月、武川筋を本領としていた武川衆がふたたび甲斐にもどってくるのである。 そして「武川衆御重思之覚」として、武川の地に所領替と加増の意味を含めて領知された。そのときの武川衆十四人は次のようである。 〔「武川衆御重思之覚」〕 柳沢兵部丞信俊 伊藤三右衛門垂次 曲淵庄左衛門正吉 曾根孫作 骨雌民部丞定政 折井九郎三郎次善 曾雌新蔵定清 有泉忠蔵政信 山高宮内少輔信直 青木与兵衛信安 青木清左衛門信政 馬場右街門丞信光 折居市左衛門次忠
徳川義直の甲斐領主は僅か四年で、尾坂清洲城主として移封となり、城代平岩親吉も義直の後見役として犬山城主となったので、甲府城は城番をおいて守護することになった。 その慶長十二年(1607)四月より元和二年(1616)九月までの十年間を「甲府城番時代」というが、その城番を担当したのが、次の武川十二騎である。 山高孫兵衛親吉 青木与兵衛信安 入戸野又兵衛門光 折井仁左衛門次吉 柳沢三左衛門 小尾彦左衛門重近 馬場民部信成 米倉丹後信継 山寺仁左衛門信光 曲淵筑後吉清 跡部十郎左衛門胤信 知見寺越前盛之
このうち跡部氏と小尾氏は津金衆であるが、一般に武川十二騎と呼び、二人ずつ十日交替で甲府城を守護したのである。 白州町・武川町の歴史・史跡〔柳沢氏と横手氏〕 柳沢氏については武田時信の子時光が青木氏を称し、その五代安遠のあと、長男義虎が青木氏を継ぎ、次男信興が柳沢に任して柳沢氏の祖となった。その三代信兼が武田勝頼に仕えて、天正八年十月、上州膳之城攻めのとき軍令にそむいて先駆をしたという科で切腹を命ぜられたが、勝頼は柳沢の名跡が絶えるのを惜しんで、横手信俊に柳沢姓を嗣がせ兵部丞を名乗らせた。横手氏は青木信時の弟信国が名のっていたが、信国の討死により信玄の命により弟信俊が横手氏を嗣いでいた。横手氏はそのあと信俊の養子源七郎が継いでいる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月09日 07時15分24秒
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