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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月09日
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白州町の歴史・史跡 白須氏(白州町誌)

 

 一条源入時信が武川衆の祖にして、その第三子貞信が白須三郎を称したと記しておいたが、「寛政重修諸家譜」では次のように述べている。

家伝に其の先、新羅三郎義光の庶流にして一条上野介貞信がとき白須を称すという、「官本尊卑分脈」に武田太郎信義が男一条次郎忠頼あり、また武田大膳大夫信光が男に一条六郎信長みゆ、その子孫上野介貞信なるもの所見なし、

としてこれを否定し、

按ずるに信光が子武田小五郎信政が四代の孫甲斐守貞信、その二男を上野介貞政という、家伝に上野介貞信というは、もしくは貞信・貞政父子の名を混ぜしかといい

しかれども貞信父子に一条の称号見えざることはうたがうべきもなきが故に、しばらくこれをしるして武田庶流の下に記す」として、一条時信を祖とする武川衆でなく、信長の兄信政の裔であるとしている。

 「姓氏家系大辞典」では「清和源氏武田氏族、甲斐国北巨摩郡白須より起りしなるべし。

「武田系図」に甲斐守信長―八郎信綱―甲斐守時信―貞信(白須次郎)と見ゆ、

「一蓮寺過去帳」長禄元年に白須蔵人、

「太平記巻」三十一に(観応三年・文和元年 1352)白須上野守あり、此の族か。寛政系譜に白須氏二家を載せたり、其の家伝に一条上野介貞信の後なりという、家紋亀甲の内輪違」と述べている。

 「甲斐国志士庶部」白須蔵人の項

府中一蓮寺ノ過去帳ニ法名ハ老阿、長禄元年(1457)十二月廿八日小河原合戦討死ノ内二見ユタリ、余ハ名ヲ全ク記セザレバ挙ゲス」と言っている。誠に不明な点が多いわけである。

しかし国志は他の資料によって、その事績を次のように述べている。

 「太平記」観応三年ノ条二甲斐諸将ノ中白洲上野守アリ、軍鑑長篠ノ役典厩信豊モ馬乗ハ只三騎、慕フ敵ヲ追払ヒ追払退キ玉フ、「甲陽伝解」ニ白須又市、青木主計、横手源七郎三騎ナリ、始メノ返シニ主計ハ討死トアリ。 

白須平次ハ又市ノ男、竹重信勝ノ小姓也。武家盛衰記ニ壬午ノ(天正10年)後幕府ニ召出サレシガ小姓衆卜口論アリテ御旗本ヲ立退キ、稲葉蔵人道通ニ依頼シ名ヲ又兵衛卜更メ後ニ家老トナル。関ケ原ノ時勢州岩手ニ於テ九鬼方堤荘蔵卜戦ヒテ功アリ、同藩種田喜左衛門ノ二男金三郎ヲ婿養子ニシテ白須十郎兵衛ト云ヒ、食禄五百石ヲ譲レリ。慶安中稲葉紀通ノ家断絶シテ白須ノ子孫ハ豊州(大分県)臼杵藩ニアリト云

 

白州町の歴史・史跡 横手氏(白州町誌)

◇「姓氏家系大辞典」

横手氏は清和源氏武田氏族、甲斐国巨摩郡横手邑より起る、一条氏の族裔にして信俊を祖とする。

◇「甲斐国志」

一条信長の裔、青木弥十郎義虎の男に信定あり、其の男尾張守信立の次男監物満久(信国)武田信玄に仕え横手村を領して氏とす、其の子半右衛門(源三)也、家紋割菱」。

◇下の郷(生島足島神社)起請文

武河衆の中に横手監物満俊あり、満友は誤りなりと付記している。

 青木信立の長男信時が青木氏を嗣ぎ、次男信国が横手村に分封して横手氏を称し、横手監物信国と呼んでいた。武田信玄に仕え、元亀元年(1570)正月下旬、駿河花沢城攻めのとき討死した。それで弟信俊が横手氏を嗣いで居たが、勝頼は柳沢氏の名跡が絶えるのを惜しんで、横手信俊に柳沢氏を嗣がせた。横手氏はそのあと、信俊の養子源七郎が継いでいる。◇長篠の役

典厩信豊に従う三騎のうち横手源七とあるはこの人である。

天正十年(1582)十二月七日の家康朱印状により、横手源七郎の本領として「甲州横手郷八拾弐貫文」が安堵された(甲州古文書2)。

 

白州町(武川町)の歴史・史跡 牧ノ原氏(白州町誌)

武川衆のうち、一条時信の子貞家が牧ノ原に任して牧ノ原八郎と称した。

「甲斐国志」

府中一蓮寺過去帳ニ枚ノ原トアレドモ其ノ名見ユズ、

「一本武田系図」

牧野原式部丞ナルモノ見ユタレドモ始末ヲ知ラズ」

「姓氏家系大辞典」

清和源氏武田氏族、北巨摩郡牧ノ原より起る、武田系図に武川甲斐守時信の男八郎貞家、牧ノ原の祖」とある。

 

白州町の歴史・史跡 中山砦(白州町誌)

 「甲斐国志古跡部」

三吹・台力原二村ノ西ニ在り其ノ裏ハ横手村ナリ。北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯タル孤山ノ嶺二万四、五十歩ノ塁形存セリ。半腹ニ陣ガ平卜云フ平地、又水汲場上空ノ処モアリ。麓ヨリ凡ソ三十町計リノ阪路ナリ…天正壬午御対陣ノ時ハ武川衆之ヲ警固ス。

「家忠日記」

八月廿九日ノ条、武川ノ士花水阪ニ戦ヒ北条ノ間者中沢某ヲ討取ル、山高宮内、柳沢兵部首級ヲ得ル。

「寛政重修諸家譜」

馬場美濃守信房の父「遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原板小屋の城に任す」

信保の二男信頼(隼人)の子信久根小屋に任す・

その子信成(馬場民部)武田勝頼に仕え板小屋に任す。

 

 戦国時代武川衆の拠点となり、武田勝頼の新府城の前衛として、また徳川家康にとっても北条氏直との戦いのため軍事上重要な位置にあった。この砦は中山の南北に延びる尾根状の山頂部南北七〇メートル、東西二〇メートルを利用して構築し、尾根の南と北側を掘り切り、その範囲を削平して四つの小郭を形成している。

山頂部には土塁に囲まれた二つの郭が南北に並んでいる。南端にある郭は一段下がって設けられており弧状を呈している。さらに下がって弧状の郭に沿って空濠と低い土塁をめぐらしている。東側には郭の下に二段から三段の帯郭がある。

 この山麓の台ケ原寄りの尾白川段丘上を根古屋といい、中山砦に対する城下の住居地で、住時は集落をなし鎮守「荒尾神社」があつたが、のち人家は台ケ原(現在の集落)に移って、荒尾神社も大正三年台ケ原の田中神社境内に遷座された。

 

白州町の歴史・史跡 教来石民部址と鳥原屋敷跡(白州町誌)

 「甲斐国志古跡部」

下教来石村ニ上屋敷、中屋敷、裏門ナドノ名存セリ、其ノ地ニ智井(枯井戸)モアリ、上教教石村ニモ同氏ノ居述トシテ内杭根、外杭根、裏門卜云フ地名アリ、又古碑アリ、明応三年庚寅ノ字ヲ見ル、古事ヲ知ラズ。

 この地域では釜無川側を表と呼んでおり、下教来石の教来石氏居跡は、小字下木戸と屋敷裏との間、今の国道二〇号線付近にあつたのではないかと推定する。土地の人は教来石民部の生れたところと言っている。

 その西鳥原にかけて、浦門、後林、三蔵(みぞう)矢ノ下、内屋敷などの小字や俗称馬飯場、殿畑、お城坂などの地名がある。教来石氏の鳥原屋敷は、下教来石から鳥原部落に行く道、鳥原部落北東の小高い所、殿畑にあったという。およそ一〇〇メートル四方の畑の南側と東側・西側に掘跡があるが、北側は確認できない。

 

白州町の歴史・史跡 城山(万燈火)(白州町誌)

  鳥原の西、松山沢川の渓口に石尊神社がある。その南の山を万燈火といい、蜂火台があつたところといわれている。甲斐国志に鳥原ノ塁として「蓋シ煙火台ナリ、逸見筋笹尾ノ塁ニ抗衡シテ国境ニ備フト云フ」とあり、また笹尾塁跡の項                         に「小渕沢・小荒間両道ノ番所へ各モ一里、上笹尾村ニ遠観番所アリ大井ガ森卜抗衡ス、西ノ方ハ武川筋鳥原ノ亭候ニ相並ンデ教来石ノ番所へモ一里余、皆諏訪ロ、大門嶺ロノ警衛ニアタル…塁二三重ニシテ甚ダ広カラズ、左右ノ山腹ニモ塁形存ス、本城高キ処五六十歩、南ニ下ルコト十五歩ニシテ洞穴アリ数十人ヲ容ルベシ、鐘ツリ穴卜名ヅク、此ニテ鐘ヲ鳴セバ鳥原ニテ太鼓ヲ打テ相応ズト云ヒ伝フ」とある。

 甲信国境に近く、北方警備のためのみでなく武田の信濃侵攻のための警備や連絡の重要な拠点であつたといえる。笹尾の塁(標高七五九m)に対し鳥原の万燈火(城山、標高九四八m)は直線的に至近距離で相互に鳴り物で合図することは可能であつた。

この煙火台は、南は神官川、北は松山沢川の谷で、西は峰つづきで、東方が開けて笹尾と相対している。炉跡などはなく、城山の山頂から一段下った万燈火という辺りが番人小屋のあつたところと目されている。数年前まで木洞があり、往時は 提灯を点じて祭りが行われたと古老が語っていた。

 

白州町の歴史・史跡 馬場氏屋敷跡(白州町誌)

 甲斐国志古跡部には「白須ノ字ヲ大庭卜云フ、其ノ下ニ殿町卜云フ処アリ、梨柏ノ老樹アルヲ園樹ナリト云ヒ伝フ」とある。白須に上屋敷という字があり、その西、国道より西が大庭、その南に俗称殿町という部落がある。今の若宮八幡神社の南に梨の大樹があったと古老が言うが、これが国志にある「梨柏ノ老樹、園樹」即ち屋敷内の大樹ではないか。その付近から古井戸と思われる大きな穴が発見されたり、その南に濠跡と思われる窪地があるという。そのあたり馬場氏が鳥原屋敷から移ってきて、この辺一帯を釆地としたころの館跡であると思われる。

 

白州町の歴史・史跡 横手氏居跡(白州町誌)

 甲斐国志古跡部に「横手村芝地東西七町、南北十六町許り、又殿屋敷、故御所、馬場ト云フ石アリ、皆古事ヲ伝へズ、横手氏ノ居跡ナルベシ」とある。寛文十二年の検地帳に古御所、御殿原の小字がみえ、今も古御所、御殿の小字名があり、古御所の中に馬場ノ原と称する地名もある。

 

白州町の歴史・史跡 曲淵氏屋敷跡(白州町誌)

 甲斐国志古跡部に「曲淵氏ノ古跡片嵐ニアリ、竪百間、横六十問許り、東ヲ端門トス。西南ハ釜無川ノ峻ニ臨ミ北ニ小深沢卜云フ河 アリ、コレ会スル所湾曲シテ深将トナル、曲淵ノ名此ニ出ズト云フ」とある。清泰寺の南、小深沢川が釜無川に合流する左岸、花水部落の西村と称る辺が屋敷のあつたところと思われる。屋敷跡北隅の若宮八幡社は曲渕氏の屋敷神といわれている。

 

白州町の歴史・史跡 自元寺(白州町誌)

 曹洞宗白砂山自元寺は清泰寺末、本尊阿弥陀如来。寺記に「馬場美濃守信房、天正三乙亥年開廟」とあり、由諸書に「信房法名乾里自元居士、天正乙亥年五月二十一日於三州長篠討死、生年六十三歳。日馬場二代民部少輔信忠法名信翁乾忠居士、信房嫡子信忠或は信春と云う、天正拾年三月於深志之城討死、自元寺過去帳に記す墓所有之。馬場三代民部少輔信義是は信忠の嫡子、此の人始めて家康に仕へ、法名等相見不申」。とある。

 武川村三吹の長松山万休院も国志に「寺記ニ云フ、開基ハ馬場民部、万松院困岳埋円居士」とあり、寺記にも「開基之儀は武田之臣馬場民部に御座候事」とある。

白州町の歴史・史跡清泰寺(白州町誌)

 霊長山清春寺は曹洞宗正覚寺末、本尊は薬師如来。

甲斐国志に「寺記ニ云フ黒源太清光ノ子逸見四郎清春ノ開基、始メ天台宗ナリ、文明六年心受英種中興シテ当宗トナル。 

地頭曲淵荘左衛門吉景、広略院良屋玄張居士、文禄三年十一月二十三日没ス。

同縫殿左衛門吉清、元和五年九月朔日没ス、風仙宗徹居士。

同助之丞吉重、寛文十七年七月八日没ス、嘉岳宗英居士。

同助之丞某、寛文八年十二月十四日没ス、江西院旨山宗玄居士ト云フ、各々牌子アリ」と記している。

 寺記には、

開基甲斐源氏之祖新羅三郎義光大治元丙午年開廟、只今境内ニ五輪之石塔有之供。開山山梨郡積翠寺村興困寺三世雲鷹玄俊和尚文明六甲午四月先宗天台退転ニ付禅曹洞宗起立。文禄年中当村住居武田家之臣曲淵勝左衛門、同縫殿左衛門、同助之丞三代共当寺ニ葬、只今二墓所有之。とある。

 永禄弐年五月二日信玄の禁制、天正三年三月朔日勝頼禁制、慶長八年三月朔日徳川四奉行の禁制等があったが、宝暦元年十一月十一日火災のため講堂とともに焼失した。

 清泰寺の東の山を城山と呼んでいる。曲淵氏の砦があつたといわれている。

 

 






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最終更新日  2021年09月09日 07時23分17秒
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