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2021年09月09日
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山高氏(『武川村誌』一部加筆)佐藤八郎氏著










一 山高氏の発祥

 鎌倉末期の甲斐守護、一条源八時信は、多くの子弟を巨摩郡旧真衣郷の諸村に分封し、いわゆる武川衆の祖となったことで知られる。

 時信は、次男与二義行の嫡男太郎信方を猶子として家督を伝えた。時信は甲斐守であったから、その猶子で摘男の地位にある信方は甲斐太郎と呼ばれた。

南北朝初期の暦応年間には、一条甲斐太郎信方と名のった事実を次の

『一連寺寺領目録』(抄記)によって知ることができる。

 

一、甲斐国一条道場一蓮寺領目録事

   合拾七町七反 屋敷二所

一、同国一条郷蓬沢内 田地壱町七反

   武田惣領源信武寄進

    貞和二年十月十三日(一三四五)

一、同郷内石坪并尻女子跡弐町斎藤彦三郎之継沽却

   武田次郎信成寄進

    暦応四年八月十七日(興国二年 一三四〇)

一、同郷内一条七郎入道跡壱町大熊女子活却

   一条甲斐太郎信方寄進

    暦応二年二月三日(延元四年 一三三八)

一、同郷内壱町三反

   佐分弥四郎入道観阿寄進

   武田刑部大輔信成重寄進

    歴応二年六月 日(延元四年 一三三八)

一、同郷内朝毛弐町

   一条甲斐守信方寄進

    文和三年七月十七日(正平九年 一三五四)

一、経田九反 

   一条甲斐守信方後家現阿寄進

    貞治二年七月十日(正平十八年 一三六三)

           (中 略)

    貞治三年二月十五日(正平十九年 一三六四)

【筆註】 

この時代は南朝(大覚寺統)方と北朝(持明院統)方で年号と年数が違う。記載は北朝年号。

 

この『一蓮寺寺領目録』は、貞治三年(一三六四)二月十五日現在のもので、すべて一九筆、うち三筆が一条信方およびその後家の寄進になるものである。最初が暦応二年(一三三九)寄進、次が文和三年(一三五四)、最後が貞治二年(一三六三)のものである。

 この三次の寄進に当たり、施主の名のりはすべて一条であって、山高の名のりはまったく見えない。では信方がこの年代に山高の名のらなかったのかというと、『一蓮寺過去帳』には延文元年(正平十一年 一三五六)に歿した信方を「正阿弥陀仏 山高一代」と記しているから、信方が山高殿と呼ばれていたことは明らかである。

 また、永徳三年(一三八三)十二月二十一日に世を去った信方の嫡男信武を、同過去帳は「師阿弥陀仏 山高二代」と記している。

一条源八時信が嫡男総領信方ならびに諸子を武川の各地に封ずるにあたり、それぞれの封地名を名のらせ、自他の区別をした。すべて正式には一条氏であるが、互いに区別するために封地、拠点の地名で呼び合っていた。山高村に拠った一条信方は、山高一条殿、略して山高殿と呼ばれることになるのである。一条甲斐太郎信方は、武川の山高村に対地を受けて山高一代と呼ばれることになるが、前記『一蓮寺寺領目録』に見るように、一条郷朝毛(朝気・甲府市)付近に広い所領を有していた。

一条郷は盆地床部の低平な湿地帯を含む地域で、水害もあるが米の生産地帯で、豊かな集落が幾つもあった。

 これに対し、信方が新たに封を受けた武川山高村はどんな所であったか。山高は、読んで字のごとく、高燥な丘陵地である。鳳凰山の東、大武川の段丘上に立地し、東南に傾斜する地形で、氾濫原地域と異なり、水害の脅威が少なく、高燥でありながら水利に恵まれ、要害の地形は外敵を防ぐに足り、しかも大きい生産力を包蔵していた。

 したがって、鎌倉末期のころ、一条時信がその子弟を一条郷外の新天地に封じようとする時、最も有力な候補地と目され、一条氏族の総領、甲斐太郎信方を封じたのである。

 信方が、この山高の産神、幸燈宮に接して居館を構えたのが殿屋敷で、山砦を築いた所を栃平(とちだいら)といい、要害のよい場所である。ここを調べた荻生徂徠は轢平(どんぐりだいら)と記したが、当時、栃の木が茂っていたことであろう。轢の実も栃実も、ともにドングリと呼ぶのは、栃栗が転じたのだという。栃栗は食用になるので山砦の付近に植えて繁茂させておけば、籠城の際には兵糧の足しになり、凶作の年には救荒食物として重要なはたらきをする。

山高氏が山砦を築いた当初に植えた栃の木が大木となって、栃平の地名をのこしたのであろう。

 

二 山高氏の消長

 甲斐守護一条甲斐守時信は、嫡男の甲斐太郎信方を一条小山城主(甲府)にしないで、武川山高村(当時は山高郷ともいった)に封じた。のみならず、嫡男以外の諸子もことごとく武川の白須・教来石・青木・牧原などの村々に封じ、自領の一条郷には一人も封じなかった。

 時信は武田支族一条氏の長であったが、承久(一二一九年~二一年)以降武田総領家の不振に当たり、時信の祖父信長以来、宗家に代って甲斐源氏諸氏を統べて甲斐の治政に当たり、関東御家人として鎌倉幕府に勤任し、怠るところがなかった。

 時信はまた敬慶で仏道を崇め、遊行二世真数上人に帰依して仏阿と号し、

弟の六郎宗信を真教の弟子として修行させた。この人が後年の法阿弥陀仏朔日上人である。

時信は一条小山の麓にあった尼寺一条道場を僧寺に改め、自身が檀那となって一条道場一蓮寺を開基し、朔日上人を開山に請じた。以来、歴代の住職は武田家の男子が出家して住山する例となった。

 時信は元亨元年(一三二一)正月二十七日に没したが、そのころ、時信の諸子は武川の各地に拠っていた。しかし、それぞれが一条郷内外の父の遺領を譲与され、後年その一部を亡父の菩提のために一蓮寺に寄進したことが、『一蓮寺寺領目録』によって確かめられる。

たとえば時信死後十一年の正慶元年(一三三二、南朝元弘二年)三月十日、一条十郎入道道光は、一条郷内某地一町七反を、また同二年四月十五日、一条八郎入道源阿は郷内持丸一町五反を寄進している。一条十郎入道道光とは、時信の男十郎時光の法名で、同じく八郎入道源阿は八郎貞家であろう。 

時光は武川衆青木氏、貞家は同牧原氏の祖であるが、この場合の施主名はすべて一条某である。また受け入れ側の一蓮寺も、山高の一条殿と呼ぶべきところを山高殿、同じく青木の一条殿を、たんに青木殿、牧原の一条殿をたんに牧原殿と呼んだものと思われる。初期の武川衆は一条氏を名のり、一連寺の檀那であった。

 

 

《註》一蓮寺過去帳 時信

  元亨元年正月廿七日

  仏阿弥陀仏 当寺大願主 新羅三郎義光八代後胤

        武田甲斐守時信 武川祖

 

参考『一蓮寺過去帳』甲斐荒川合戦 戦死者 

立阿弥陀仏  永享 五年 四月二十九日 柳沢    1 433

受阿弥陀仏                        山寺      1433

声阿弥陀仏                           牧原      1433

重阿弥陀仏              十月二十四日 山高      1433

 

『一蓮寺過去帳』(甲府市大田町)武川衆関係記載

成仏     文安 元年十一月 朔日   白州     1444

覚阿弥陀仏  宝徳 二年 五月 一日   山高      1450

老阿弥陀仏  長禄 元年十二月二十八日 白洲蔵人  1457

 

小河原合戦討死

臨阿弥陀仏  長禄 三年                白洲      1459

与阿弥陀仏  長禄 四年十二月二十七日 馬場三州  1460

唯阿弥陀仏 寛正 二年               白州      1461

也阿弥陀仏 寛正 三年              白須      1462

善阿弥陀仏 文政~応仁                米倉  1466~68

弥阿弥陀仏   々                      馬場           々

浄阿弥陀仏  文明元~四年              馬場民部 146972

師阿弥陀仏  々                    白砂        

来阿弥陀仏  々                   馬場中書     々

金阿弥陀仏   々                 馬場小太郎   

光一坊      文明 九年 十月 十八日 山高御子逆修 1477

臨阿弥陀仏  延徳 二年 九月 十八日  山高殿     1490

西一坊      延徳年間                 山高   1489~91

妙欽禅尼    明応 四年 七月 一日    曲渕母儀逆修 1495

合一坊      文亀 四年 四月 十六日  山高房     1504

永安正光禅定門 天文 十年             青木        1541

依竹宗賢禅定門 慶長 十年 七月二十七日 入戸野善兵衛 1605

 

しかし、山高氏が史料の上で初めて確認できるのは、延文元年(一三五六)四月五日の『一蓮寺過去帳』の記事である。すなわち、「延文元年四月五日 正阿弥陀仏 山高一代」とあるのが山高氏の初見で、信方の父時信が世を去った元亨元年(一三二一)から数えて、実に三五年もの年月を経た後のことである。

 信方の功績は、一条甲斐太郎、一条甲斐守の称号が示すように、時信の亡き後、幼年を顧みず、甲斐源氏一条氏の総領を勤めたこと。また、甲斐源氏の総領武田信武を助けてその部将となり、武家方として行動した。文和元年(一三五二)三月二十八日、武蔵と信濃の境の笛吹嶺において宮方の宗良親王・新田義宗との戦いに、武家方足利尊氏に味方して戦った。

  甲斐源氏武田陸奥守・同刑部大輔・子息修理亮・武田上野介・同甲斐前司・岡安芸守・同弾正少弼・舎弟薩摩守・小笠原近江守・同三河守・舎弟越前・一条太郎・板垣四郎・逸見入道・同美濃守・舎弟下野守・南部常陸介・下山十郎左衛門、都合三千余騎ニテ馳参ル。(中略)同二十八日将軍笛吹手向(峠)へ押寄テ(中略)先一番ニ荒手ナリ、案内者ナレバトテ、甲斐源氏三千余騎ニテ押寄セ、新田武蔵守卜戦フ、是モ荒手ノ越後勢三千余騎ニテ、相懸リニ懸リテ半時計り戦フ、逸見入道以下宗徒ノ甲斐源氏共百余騎討クレテ引退ク(下略)(『太平記』)

 

この笛吹嶺の戦いで、甲斐源氏ことに逸見一党は大損害を蒙ったが、この戦いの直前に一条三郎・白洲上野介の二将が活躍している。

 逸見一党が多数の戦死者を出している以上、一条支流武川衆にも損害があったと思われるが、よくわからない。南北朝抗争五十余年、結局武家方の勝利であるが、勝利側に立ったとはいえ、甲斐源氏の蒙った痛手も少ないとはいえない。武田信武・一条信方らの協力について、足利尊氏は深く感謝し、子孫に対しよく甲斐武田氏に報いるよう遺命したという。






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最終更新日  2021年09月09日 07時54分45秒
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