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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月10日
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北杜市武川町山高所縁の人 山高石見守蘭之助信離(らんのすけのぶあきら)

  幕臣としての信離

  第一七代以後山高家当主は次の通りである。

  一七代 信蔵 

一八代 信肪 

一九代 信成 

二〇代 信友 

二一代 信行 

二二代 信求

二三代 信陸 

二四代 信復 

二五代 信厚 

二六代 信離 

二七代 五郎 

二八代 登

と連綿と続いて今日に至っている。右のうち二〇代までは『寛政重修諸家譜』に見えるので、本稿では巨人第二六代信離を特記したい。

 山高信離は、

天保十三年(1842)に生まれた。生家は山高家でなく、高二、五〇〇石の旗本、掘家である。掘家は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、織豊時代にあたり名将掘秀政・利重兄弟が出て家名をあげた。利重の二男利直の六世を伊豆守利堅といい、高二、五〇〇石、書院番の旗本であった。利堅の四男慎八郎は、山高家二五代信厚の養子となり、元服して蘭之助信離(らんのすけのぶあきら)、通称を弾正、また主計といい、文久初年から小納戸に出仕した。

 慶応二年(1866)一二月、一五代将軍の弟昭武(水戸徳川家九代藩主斉昭の一八男)が清水家を継ぐが、パリ万国博覧会の幕府代表として急遽出発、幼い昭武の守役として山高信離(のち上野博物館長、京都博物館長。区内弁天町の宗参寺に墓。儒家の林家から山高家に養子に出た人物である。次男の曄は林家に嗣子がないために林家を継ぎ、医者に転じて現在の林外科病院を創立している。)が随行し、苦労している。幕末の動乱のため薩摩藩も別個に万国博に出品して混乱。それぞれ「日本大君政府」、「薩摩大守政府」と名乗り、日本は権力争いをしている二国が存在する国としてパリの話題に上ったという。(つづく)幕府の職員録『柳営補任』御小納戸(りゆうえいぶにん おこなんど)の項に、

 

  文久二年(1862)口月 岩瀬内記支配ヨリ

  文久三年(1863)正月二十二日 御小納戸 高千八百石  弾正 山高蘭之助と見えるが、ついで二条城勤務に転ずる。

  文久三年(1863)正月二十二日 中奥御番ヨリ

  元治元年(1864)三月十六日 二条ニ於テ 御目付・御小納戸、山高弾正と見える。信離はしばらく京都に転ずる。

  元治元年三月十六日 御小納戸ヨリ

  同年五月十五日 御役御免、寄合 主計 山高弾正信離

 と見える。

三月十六日に京都二条城での御目付兼御小納戸に転じた。

ここで二か月勤めた上で御役御免となり、寄合を命ぜられた。禄高三、〇〇〇石以上で非職の旗本を寄合、禄高三、〇〇〇石未満の非職の者を小普請という。この時はじめて主計山高弾正信離と記された。

 二条城勤務とは京都公家筋との交渉であろう、目付兼御小納戸は将軍側近の要職である。

 寄合にあること二年余、再出仕の機を得た。

  慶応二年(1867

八月十八日、寄合ヨリ再勤

 十二月十二日、小倉表へ御取締御用ノタメ遣ハサル。

 十二月二十七日、京都ニオイテ御作事奉行格御小姓頭取、山高主計信離

 

と見える。二年余の休職ののち、にわかに多忙の日を迎える。小倉への出張ののち、

同年十二月、京都において作事奉行格兼御小姓頭取に補任された。これは重職に任ずるための準備工作であった。やがて年が明けると、布衣山高主計信離は、まず従五位下に叙せられ、ついで石見守に任ぜられた上で、フランスのパリで開催される万国博覧会に日本江戸も幕府を代表して出席する使節、将軍徳川慶喜名代徳川民部大輔昭武の傳役(もりやく)を命ぜられた。

 パリ万国博覧会は、慶応三年(一八六七)五月に開催される世界的規模の博覧会である。幕府は、長州征伐に失敗して弱体を露呈し、起死回生の機会と方法を模索していた。これに対し、友好の手を伸ばしてくれたのが、駐日フランス公使のレオン・ロッシュであった。

 彼は幕府を後援する方策の一として、パリ万国博覧会への参加を幕府に熱心に勧告した。幕府でも、開国政策の実効をもたらすよい機会と判断し、積極的に準備を進めることとし、当時、横須賀製鉄所建設計画協議の使命を帯びて渡仏中の柴田日向守に命じ、フランス政府に対し招請を受諾する旨を申し入れさせた。

 その結果、幕府は将軍家名代使節として徳川昭武を決定した一。昭武は慶喜の弟で当時十四歳の少年であるが聡明利発であるから、すぐれた輔佐役がいれば立派に役が果たせよう、ということになり、昭武を民部大輔に任じ

傳役としては山高信離を最適の人物と認め、その前提として石見守に任命したものである。

 遣仏正使徳川民部大輔昭武とその随員二九名、大部分は史上に名をのこした人物である。

   正使 徳川民部大輔昭武

   傳役 山高石見守信離

   若年寄格・駐仏国公使 向山隼人正一履

   歩兵奉行 保科俊太郎

   外国奉行支配組頭 田辺太一

外国奉行支配調役 杉浦愛蔵

   儒者次席・翻訳方頭取 箕作貞一郎

   勘定格陸軍附調役 渋沢栄一(渋沢篤太夫)

   奥詰医師 高松凌雲  (以下略)

 

慶応三年(1867)正月十一日、フランス船アルヘー号に乗り込み、横浜港を解纜(ラン ともづな)し、途中上海・香港・サイゴン等に寄港しつつ、マルセイユ経由で大博覧会の催されるパリに向かった。

 随員の中の渋沢篤太夫と杉浦愛蔵の二人は、この当時の見聞を詳細に記録、評論して共著『航西日記』をのこしている。この共著には当時先進国の文物が彼等の限にどのように映じたかが、いきいきと描かれている。

 横浜を出てから一五日を経た二十六日に、サイゴンに上

陸した。この地は当時仏領印度支那といわれたところ(いまはベトナム)の首都で、総督(鎮台長官)が駐在していた。  

 

慶応三年(1867)正月二十六日(西洋暦三月三日)サイゴンにて

朝七時、本地官船の迎によりて陪従して上陸す。碇泊

の軍艦祝砲ありて、騎兵半小隊馬車前後を警護し、鎮台

の官邸にいたる。席上奏楽等畢りて、其の本国の博覧会

に模擬せし、奇物・珍品を雑集せる所を一見し(下略)

 

 とあって、総督官邸に博物館的施設が付設されていたことを記している。

二月二十二日 (西洋暦三月二十七日)アレクサンドに

て、(前略)此の地は古国にて殊に首府なれば、古器物

の考証に備ふべきもの多く博覧会場に収めてあり。皆太

古の物にて、多くほ土中より掘出したる棺櫛の類と見ゆ。

(中略)

  戸も腐朽せず、依然と乾からびたる手足・腹部とも幾重

も巻きたるなり、世にいわゆるミイラならん。(下略)

 

など、寄港地の博物館の所見を記している。

 

三月七日、いよいよフランス首府パリ到着。

同月二十四日の使節徳川民部大輔昭武は、皇帝ナポレオン三世に謁見し、国書を捧呈した。

 国書の内容は、源慶喜の名で、パリ万国博覧会の開催を祝し、使節をして同盟のよしみを表わさせること、なお使節昭武をパリに留学させるので、よろしく指導を請うと述べ、皇帝への贈呈品五点の目録が別に記された。

その第一に水晶玉とある。甲州産であろう。

 博覧会場についての記事に触れよう。

  

五月十八日(西洋暦六月二十日)午後二時より博覧会を観るに陪す。荷蘭留(フランス)学生等も従へり。博覧会場はセイネ(セーヌ)河側に一箇の広敞(ショウ 高い)の地にて周囲凡そ一里余、(中略)其中心は形楕円にして巨大の星宇を結構し、門口四方より通じ、彩旗を立て繞らし、(中略)東西諸州此の会に列する国々、其排列する物品の多寡に応じ、区域の広狭を量り各部分を配当せり。仏国は自国の事故最も規模を盛大にし(中略)英吉利は其六分の一を占め、白耳義(ベルーギー)は其十六分の一を占め、魯西亜(ロシア)・米利堅(アメリカ)は三十二分の一に過ぎず、西班牙(スペイン)・都児格(トルコ)は其半にして、葡萄牙(ポルトガル)・希臘(ギリシャ)は又其半に過ぎず、我邦の区域も是等と同等にして、これを支那・暹羅(シャム)両国と三箇に分ちて配置せしが、我邦の物産の多く出でしにより、遂に其半余りを有つに至れり。場中排列する所のもの(中略)自然の化育によりて成る物、或は窮理の上より神を極め精を盡して造りし物(中略)古器珍品を衆めて残す所なく、下は現世発明の新器を陳ねて余すことなし。

 

 と記し、精巧な蒸気機関、これを使ったエレベーター、アメリカ出品の耕作器械・紡績器械の精妙なこと、スイス製電信機の卓越していることに感歎している。杉浦・渋沢らが『航西日記』に記した感懐は、使節昭武・博役山高信離のひとしく共にしたことであろう。『徳川昭武滞欧記録』の中に「博覧会出品目録」にその詳細がのせてある。のべ数千点におよぶ出品物の中には、鉄砲・太刀・甲胃などの武具を始めとし、雁皮紙・美濃紙などの和紙類、梗米・粟・蕎麦など穀類、鍬・万能・稲扱など農具の炉、『農業全書』・『農家益』などの農書にまでおよんでいたという。

 しかし、陳列品の内容は、欧米先進国の精巧をきわめた工業製品と、東洋後進国の農業を主とした製品とが歴然と比べられて、当時の後進国日本の有様が痛々しく、一世紀余りの今日から回想して今昔の感に堪えない。

 パリ万国博覧会が終わると、使節昭武は幕府と締盟した各国を歴訪することになって、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリス等を訪問し、元首に謁見した。信離も主席随員の一人として随行した。諸国歴訪を終えると昭武はパリ留学の身となり、信離は傳役を免ぜられて留学生取締役を命ぜられた。

 こうしている間に、同年十月十四日、徳川第十五代将軍慶喜が大政奉還をしたので、昭武以下は帰国することになった。また徳川宗家では慶喜が隠退し、田安亀之助が宗家をついで徳川家達と改名した。朝廷では慶応四年(明治元年)五月、家達を禄高七〇万石の静岡藩主に補任し、有能な旧旗本を抱えさせた。

 信離は、幕府瓦解とともに弾正・主計・石見守等の称号をやめ、慎八郎の通称に復した。

 静岡藩当局では、信離に対して藩に出仕を命じて大目付に補し、翌明治二年正月に相良奉行として地方の行政に当たらせた。

 藩では静岡学問所を開設し、かつての仏国公使向山黄村を頭取(校長)とし、信離の盟友杉浦譲は同学問所の五等教授に任命された。

 

㈡ 明治政府官僚としての信離

 明治維新の大変革によって武家政治は終わり、天皇親政の新政府が成立したが、明治政府の当面した障壁は人材の払底であった。

 欧米先進諸国に追いつかねばならぬ、との至上命令を課された明治政府にとり、最大の課題は、新進の頭脳と力量をそなえた人材をいかにして得るかにあった。

 権力の中枢は、明治政府建設の原動力、三条・岩倉・西郷・木戸・大久保らの人傑によって占められたが、新政府の眼目である財政・民政・外交・司法・立法など、中央権力樹立のために不可欠の実務を推進し得る人材に欠けることは、目前の致命的な弱点であった。

 これに対し、旧幕臣中の有能な人材を多く召し抱えた静岡藩は多士済々であったから、新政府要路が静岡藩に着眼したのは当然であり、甚だしいのは函館戦争(五稜郭の戦い)に敗れて降伏し、獄中にあった人々までが、釈放された直後に新政府に出仕した例もある。

 それらの中から二、三の例を拾ってみる。

 

**勝安芳**

勝安芳は旧幕府の全権として、東征大総督府参謀西郷隆盛と談笑の間に江戸城を開城し、江戸市民の生命財産と徳川家の存続を全うした。やがて静岡藩主に仕えて移ったが、明治五年明治政府に迎えられて海軍大輔となり、翌年十月参議兼海軍卿(大臣)に任ぜられた。

 

*榎本武揚**

榎本武揚は旧幕府海軍副総裁として同志を率い、函館五稜郭に寵って官軍に抵抗したが、官軍の黒田清隆の説得に応じて降伏し、禁獄三年ののち明治五年一月に釈放、その直後北海道開拓使四等出仕となり同七年一月海軍中将、特命全権公使としてロシヤ駐在、外務卿副島種臣を助け千島樺太交換条約を締結した。

 

**新井郁之助** 

新井郁之助は甲州市川代官新井清兵衛の嫡男で、長崎海軍伝習所に入り、勝安芳に学んだ。幕府瓦解後、榎本武揚と行動をともにしたが、明治五年に釈放されて開拓使五等出仕、北海道開拓使学校(札幌農学校)長・内務省地理局次長・測量局長・気象台長を歴任した。

 

信離は静岡藩相良奉行として治績を挙げる間もなく、明治三年(1870)十月太政官より同藩の権少参事に任ぜられ、ついで同五年(1872)二月十日付けで大蔵省七等出仕、博覧会御用掛となった。

 博覧会というのは、当時は博物館の事業で、本来の目的は古今東西にわたって、考古学資料・美術品・歴史的遺物その他の学術的資料をひろく収集保管し、これを組織的に陳列して公衆に展覧するにあり、開化思想の盛行した維新当時にふさわしく重要な施設であった。

 

**廃仏毀釈**

ところが、明治政府が神仏分離令を発布すると、その行きすぎが廃仏毀釈の暴政となり、全国的に仏教への圧迫、仏教的史跡・文化財の破壊という暴挙が流行した。政府がその行きすぎに気付いた時はすでに遅く、取り返しのつかぬまでに文化財破壊が進んでいた。

 ここにおいて古社寺の宝物であった文化財の緊急の所在確認、収集・保存の必要性が識者の問で強く叫ばれるようになり、先進国の博物館事業を範としての推進が要望された。

 しかも当時の政府の施策は富国強兵・殖産興業にあったから、これに関連する美術工芸の振興にも、博物館の使命は小さくなかった。

 

**ウィーン万国博覧会**

明治五年(1872)二月、大蔵省七等出仕として博覧会御用掛を命ぜられた信離は、同年十月には博覧会書記官に昇進した。翌六年一月には大蔵省六等出仕に進み、この月オーストリヤの首府ウィーンで催されるウィーン万国博覧会に、一級書記官として派遣されたのであった。この博覧会は、明治政府としては最初に参加する博覧会として、政府では事務総裁大隈重信、同副総裁佐野常民、ほかに事務官二人と、御用掛に渋沢栄一、書記官に山高信離、という顔触れを派遣した。渋沢・山高両人は七年前のパリ万国博覧会での見聞を役立てている。

 

**米国博覧会** 

ついで明治八年(1875)二月には米国博覧会事務取扱いを命ぜられる。この年三月三十日に博覧会事務局と改称し、大蔵省より内務省に移管される。

信離は同時に内務省博物館掛に任ぜられ、五月米国博覧会事務官を命ぜられた。

 明治九年、内務少丞に任ぜられる。同十年二月、パリ博覧会事務取調を命ぜられ、六月同博覧会事務官に任ぜられる。

 

**メルボルン博覧会**

明治十一年(1878)六月、勲五等に叙せられる。

同十二年(1879)五月、オーストラリヤのシドニー博覧会事務官を命ぜられ、

翌十三年(1880)二月同地のメルボルン博覧会事務官を命ぜられる。

同年四月内務省書記官、内国勧業博覧会事務官、大蔵省書記官兼任、

六月従六位に叙せられる。

 

**博覧会履歴** 

明治十四年(1881)、内務省博物局および所属博物館を農商務省に移管したので、信離は同時に県南務省書記官に任ぜられ、同七月博覧会掛長、八月工芸課長兼芸術課長を命ぜられる。

 同十五年(1882)十二月農商務権大書記官。

同十七年(1884)十月大阪府絵画品評会審査長を命ぜられる。

 同十八年(1885)十月勲四等に叙せられる。

同年十二月博物局長に任ぜられる。

 同十九年(1886)三月、博物館を農商務省より宮内省の所管に移され、

四月一日博物館長心得を命ぜられる。

同二十一年(1888)一月、博物館は宮内省図書寮所管となり、博物館長に任ぜられる。

 同二十二年(1889)五月、図書寮附属博物館を廃し、帝国博物館・帝国京都博物館・帝国奈良博物館を設置する。同時に信離は帝国博物館理事・美術工芸部兼工芸部長を命ぜられる。

 同二十三年(1890)三月、第三回内国勧業博覧会審査幹事を命ぜられる。

同十一月勲三等瑞宝章を賜わる。

同十二月奏任官一等(すなわち勅任官)となり、翌年従五位に叙せられる。

 同二十七年(1894)二月、帝国京都博物館長・帝国奈良博物館長兼任となり、京都在勤となる。

 同二十八年(1895)十二月、特旨をもって位一級を進められ、正五位に叙せられる。

 同二十九年(1896)五月、古社寺保存会委員となる。

 同三十一年(1898)二月、帝国博物館鑑査委員、四月、全国漆器生産府県連合共進会審査長を命ぜられる。

 同三十二年(1899)八月、パリ万国博覧会出品鑑査委員を命ぜられる。

十二月(勲三等)旭日中綬章を賜わる。

 同三十三年(1900)六月、帝国博物館評議員、

七月一日、博物館官制改正(帝国博物館を東京帝室博物館、帝国京都博物館を京都帝室博物館、帝国奈良博物館を奈良帝室博物館と改称)。 

同日、京都帝室博物館長を本官と心得べき旨令

せらる。

 同三十四年(1901)一月、従四位に叙せらる。

翌年(1902)五月、特旨をもって位一級を進められ、正四位に叙せらる。

 同三十九年(1906)、勲二等に叙せらる。

 明治四十年(1907)三月十六日、病いにより逝去した。

享年六十六歳。

 

よって考えるに、前年すでに老病を理由に職を辞するに当たり、多年の勲功により勲二等に叙せられたものであろう。

信離の法号を「紫山院殿明卿嬉翁大居士」といい、山高家歴代墓所のある東京新宿区弁天町の宗参寺に葬られた。

 旧幕臣の明治政府に出仕した人々の多くが、藩閥の圧迫に押されて不遇に甘んじたとき、ひとり山高信離が、正四位勲二等、京都帝室博物館長の要職にのぼり、わが国文化財関係の最高峰と仰がれたのは、その比類ない学識と手腕が幕藩の埼を超越した結果とみられる。

 信離は少時、渡辺華山の高弟椿山に入門し、以来孜々として南画の修業につとめ、遂に紫山と号して一家を成すに至った。その同門の先輩に浅野楳堂がいる。楳堂は甲府勤番支配・京都町奉行を歴任し、和漢書画の鑑識に長じ、わが国で楳堂の右に出る者はないといわれるが、信離は棋堂と双壁といわれる。

 山高家二十七代は信離の男、五郎が継いだ。五郎は船舶史の研究家として知られ、その生涯をかけての著述『日の丸船隊史話』は、得難い名著との評価を受けている。五郎はまた画技に巧みで、著書の挿画はみな自筆である。

 二十八代は五郎の嫡男登が継いだ。登は官界にあって功成り名遂げ、登の弟茂は洋画家として一家を成し、独歩の作品で知られている。信離➡五郎➡茂の三代には美術家的資質のすぐれた遺伝があるように考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山高別家 山高親重

 山高親重が一家を創立する

 武川衆山高家の第一二代宮内少輔信直の男親重は、通称を孫兵衛といい、天正二年に生まれた。母は逸見兵庫頭の息女といわれる。

 逸見家の祖はもと甲斐源氏の総領であった。のち総領を武田氏に譲ったが、武田・小笠原とならび称された甲斐源氏中での名門である。

 山高家が逸見家と縁組みしたことから考えても、その家格の高かったことが窺われよう。

 親重は、武田家没落の際は九歳の少年であった。父信直が、武川衆の諸士とともに徳川氏に仕えることになったが、少年の親重は、父の命でしばしば諸方に人質に赴いたことがあり、つぶさに辛酸を嘗めたのであった。

 天正十九年に、陸奥の九戸に一揆が起こり、家康は豊臣秀吉の部下として討伐に向かったので、親重も武川衆の諸士とともに出陣した。

 親重は、この陣中ではじめて家康に謁した。この時が親重の初陣といわれるが、僻遠の奥州の戦場で貴重な体験をしたのであった。

慶長五年八月、石田三成に応じた真田昌幸を討つことを、家康は嫡男秀忠に命じた。秀忠は昌幸の籠城する信州上田城を攻撃した。この攻城戦で、親重は秀忠の将大久保忠隣に属して奮戦したが、昌幸は次男信繁(いわゆる幸村)とともによく守って屈しなかったため、空しく時日を移し、秀忠は九月十五日の関ケ原の戦いに参戦できなかった。

 関ケ原役ののち、家康がふたたび甲斐を領するにおよび、武川衆を旧領武川の地に還任させる方針をとった。この時親重は、親友の成瀬正成に頼み、父と別格に知行を賜わりたい旨を家康に上申した。このことは、父の家を出て別家を創立することを意味する。親重の父信直には男子は親重のほかはないので、信直の跡目は親重の長男信俊を養子として継がせ、別家親重の家は、親重の次男信保に継がせたいというのであ

る。

 家康は、成瀬を介しての親重の願いを許し、親重の長男信俊を祖父信直の養子とし、親重の跡目は次男信保が相続するように命じた。その上で親重には旧領山高村の高三一〇石九斗二升の内、二七五石五斗三升を知行させた。

 親重の父信直は、さきに鉢形領に采地一二〇石余を与えられていたが、この時、加恩七〇石余を与えられ、同時に采地を男余郡のうちに移された上、ここで二〇〇石を知行した。

 こうして山高氏は本、別両家となり、武川衆の軍役は、名字の地山高村に住する親重が負担し、やがて武川十二騎に列するのである。

 

山高親重と信保・信澄

 親重は、山高別家を創立して武川衆に列し、故郷に錦を飾ったのであった。

 関ケ原役ののち、家康は諸大名の賞罰を行い、甲府藩主浅野幸長が、関ケ原の戦いに先立ち、慶長五年八月二十三日に西軍の将織田秀信の守る岐阜城を猛攻してこれを陥れ、ついで瑞竜寺の砦を陥れて敵五百余人を討ち、関ケ原合戦当日は敵陣南宮山を牽制した功績、さらに戦後京都御所を守衛し、京都市内の治安維持に努めた功績等を高く評価し、同年十月、紀伊国において高三七万六五六〇石余を与え、和歌山城に移らせた。

 翌六年二月、家康は甲斐国を直轄地とし、政務処理のために甲府城代を設け、禄高六万三、〇〇〇石の重臣平岩親書をこれに任じた。

 ついで同八年一月、家康は当年三歳の九男五郎太を甲府藩主とし、親吉を城代とした。

 慶長十二年間四月、甲府藩主徳川義利(五郎太政め、のち義直)は尾張国名古屋藩主に転じ、城代平岩親吉も同国犬山城主となった。

 幕府は、甲府城の重要性にかんがみ、奉行小田切茂富・桜井信忠の両人に本丸を守らせ、武川衆・津金衆のうちから一二人を選んで城番を命じた。この一二人を武川十二騎という。

 山高親重も馬場信成・米倉信継・知見寺盛之らとともに武川十二騎に選ばれ、甲府城番として甲府城を警衛し、民政にもあずかった。

 慶長十九年の大坂冬の陣に活躍したが、翌年の夏の陣には京都にいて出陣しなかった。

 元和四年(一六一八)将軍秀忠の三男忠長が甲府に封ぜられると、武川衆はこれに属し、同八年忠長が信州小諸城主を兼ねると、武川衆は小諸城番をも勤めた。同九年秀忠が退いて家光が将軍職につくと、かねてから不仲であった忠長との軋轢が表面化し、寛永八年五月には大逆の汚名のもとに甲府へ蟄居を命ぜられた。遂に翌九年六月には改易となり、

翌十年十二月六日、講地上州高崎で自刃した。

 忠長の家臣らも連坐し、武川衆もすべて禄を失って処士(浪人)となり、郷里に退いて謹慎した。

 山高親重は謹慎一〇年ののち、寛永十九年十二月十日、再出仕の命を蒙り、本領安堵の上、大番勤仕を命ぜられた。大番は書院番とならんで両御番と呼ばれ、旗本のうちで最も名誉とされる将軍家護衛の部隊とされていた。

 親重は大番現役のままで慶安二年(一六四九)八月九日に没した。七十五歳。傑山親英居士と註した。妻は武田家の臣跡部紀伊守景孝の女である。

 親重の嫡男信保は、宗家の信直の養子となった三左衛門信俊の弟である。信保は慶長十一年の生まれで、通称を五郎左衛門といった。

 元和二年、十一歳で将軍秀忠に謁し、同四年父親重とともに甲府藩主徳川忠長に仕えた。

 寛永九年忠長の改易に伴い、処士として山高村に退き、謹慎した。この時の生活について、『寛政重修諸家譜』の信保譜の一節に「かの卿罪かうぶらせ給ひしのち流浪し」と見えているが、これは誇張した表現であろう。というのは、親重・信保父子は禄を取り上げられたとはいえ、山高家には祖先伝来の私領いわゆる名田手作前があったはずであり、それに譜代と呼ばれる家の子郎党の裔がいたと思われるから、塾居・謹慎はともかく、流浪というような事実があったとは信じられない。

 やがて一〇年の歳月は経過し、寛永二十年七月一日に再出仕の恩命があり、将軍家光に謁した。約一年間は非役であつたが、正保元年(一六四四)六月には父と同じく大番に列する栄誉を担い、慶安元年八月の父の死により、同年十二月父の遺跡を継いだのである。

 それより一二年後の万治三年 (一六六〇) には駿河国の富士川・由比川の堤防工事を奉行した。信保は土木技術に長じ、地方巧者としてすぐれた行政的能力をそなえていた。その結果、翌寛文元年五月には石見代官を命ぜられた。石見代官は石見奉行ともいわれ、幕府直営の石見銀山の支配に当たる要職である。

 近世日本の銀の比価は金一両(四匁二五グラム)に対し、銀六〇匁(二二五グラム)で、外国に比べておよそ三倍に近い高値であったから、銀を産出する石見・但馬の銀山は幕府の宝庫に相違なく、代官には清廉の能吏を任用した。これによっても信保の人柄が推察されよう。

 この年、信保がこれまで知行した山高村の采地を、下総国相馬・菖飾両郡のうちにうつされ、甲州とのつながりも絶えてしまった。

 信保は石見国在任中の寛文十年五月二十七日、病んで没した。享年六十五。法名寿石。

❖山高信澄 

信保の遺跡は嫡男信澄が継いだ。信澄は、寛永六年に誕生、正保二年に十七歳で将軍家光に謁して大番入りを命ぜられた。寛文四年正月賄頭に転じ、役料二〇〇俵を与えられた。同十年、職務精励の廉で一三〇俵加増された。

 賄頭というのは、江戸城内の膳所・奥・表それぞれの台所 (調理場)へ、米麦・魚肉・読菜など、いっさいの食料品を供給することをつかさどるもので、若年寄支配下にあった。

 信澄は宝永二年七十七で没した。法名道光。

 

❖山高氏と高龍寺

 山高氏の初期の菩提所は、府中一蓮寺であったと思われる。高龍寺が開創されたのは、『甲斐国寺記』によれば、「山高越後守源信之天文元壬辰年()建立」とある。『甲斐国志』には、「山高孫兵衛親重ノ開基ナリ」とあるが、これは誤りで親重は中興開基とすべきである。

 信之が開基した当時は高隆寺といい、その旧跡をいま寺窪といっているが、そこは集落から離れた低湿な地で、寺地に適しなかった。

 信之から五代目に当たる親重は、別家を創立して祖先以来の名字の地山高村を采地に与えられたのを機に、慶長十六年に伽藍の敷地にふさわしい地を相し、寺窪にあった高隆寺をそこに移して伽藍を整備し、山梨都下積翠寺村の興国寺第一〇世康山文券和尚を中興開山に講じ、自身は中興開基となったのである。

 親重は高龍寺をたんなる禅寺とするに甘んぜず、禅風挙揚のために雲水修行の法隆寺院にしようと、秀吉・益道南和尚の何には客殿造営の準備をととのえたが、慶安元年、工事着手を前にしながら病死してしまった。

 そこで親垂の嗣子信保は亡父の遺志を遂げようと、客殿の造営につとめ、是鏡和尚の代に当たる慶安三年に落慶を見、江湖僧を置いて修行をさせることになった (江湖僧とは、『甲陽軍鑑』に「学問僧を(中略)洞家にては江湖僧と云い、関山派にては衆寮衆と申され候」とあるように、曹洞宗の

修行僧をいう。)。

 親重の生前の意志は高籠寺を法瞳寺院にするにあった。法隆寺院とは、法幢を立てることのできる寺院ということで、法幢とは、禅寺院で、説法・法論などのあることを示すために立てるのばり(瞳)のことである。法幢を立てるには多年の修行とその実績が長老らに認められることが必要で、武田勝頼が大泉寺に与えた「分国曹洞門法度之追加」の第一条に  

江湖ノ轟侶、嘉声ヲ関東関西二発セズ、アマツサヘ名利

ノ頭首ヲ一向二勤メザル未徹漠ハ、タトヒ知識ノ印証有

ルモ、法幢ヲ建テ児孫ヲ立ツベカラザルノ事

とあり、また「天下曹洞宗法度」の第一条にも、

三十年ノ修行成就ノ人ニアラズシテ、法幢ヲ立ツル事。をきびしく禁じているのが、その証拠である。

 親重が、高龍寺をたんに山高家の菩提所とするのにあきたらず、江湖僧を置き、法憧を立てることのできる、すぐれた内容をもつ禅道場にしたい希望をもっていたことを知った嗣子信保が、亡父の遺志を遂げるように努め、遂にこれを実現したことを知るのである。

 信保は、さらに菩提所高龍寺の経済的安定を確保するため、広大な寺領を寄進した。高龍寺近辺に開墾した田畑合計三一筆、面積一町七反七畝九歩。この分米一〇石であった。

 信保は、慶安四年十月九日に、この間の事情を詳しく記した覚書を高龍寺に贈った。そのあと、信俊の兄で宗家の当主になっている信俊に相談し、兄弟連署の書状を作成し、これを高龍寺の本寺、興因寺に贈った。それは次のようなものである。

  謹んで啓上いたし候、したがつて先祖菩提所山高村高隆

寺、古来本尊これなく御座候。然るところに父親英居士

(親重)近年存じ立ち、寺取り立て申すみぎり、死去い

たされ候。これにより、拙者共、去る秋建立つかまつり、

是教和尚に申し請い、住居し来り候。かの地の文券和尚

を開山に奉じ、興困寺の御末寺につかまつりたく仮の旨、

親英望み置かれ候。しかしながら小地の儀に御座候のあ

いだ、御末寺諸役の義、末代に・いたるまでかの寺を御

免許下され候様に、御約諾つかまつりたき由、かたく申

し置かれ供。か様の旨、御同心においては、向後の証拠

として尊墨を仰ぎたてまつり侯。恐憧謹言。

             山高三左衛門 信俊 (花押)

             山高五郎左衛門信保(花押)

 (慶安四年カ)十一月四日 

  猶なお、右の段自由のいたりに御座候はば、他の儀いら

い続きがたく存ずるところに御座候、遠国について尊顔

を拝せずして件の仕義に御座侯、以上

 

右の山高氏兄弟の連署書状によって、高龍寺の中興ならびに、もと無本寺であったのに、興困寺末になった事情が明らかになる。山高別家は、親重以後においても信保・信澄と人材が輩出し、名門たるに恥じない。

 信保の次男信久が創立した第三の山高家も、有能な人材が輩出し、禄高も五〇〇石に至っている。

 山高氏一族がそろって明治の廃藩置県まで家運を維持できたことはめでたい限りである。






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最終更新日  2021年09月10日 07時09分00秒
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