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2021年09月11日
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牧野備後守の献妻 三田村鳶魚

 

一切経蔵の施主本姫様

 

 四谷|杉大門《すぎだいもん》の全勝寺に、一切経の倉庫があって、お経ばかりでなく、多様多種の書冊が納めてあった。そして誰にでも貸してくれる。借覧者は、返還する際に、必ず何なりとも一冊子を寄付する例で、ほとんど図書館の体裁をなしておった。今日では、経蔵を撤廃し、蔵書は本山へ上納したとやらで、遺祉は空しく冢間《ちようかん》の蔓草に鎖されて、崖下の新開道路のみいたずらに賑わしく、活動写真がみだりに繁昌するだけである。

 昔は、経蔵の施主本姫様という女性が、一切経を二度まで通読したほどの読書家で、自己の遺体を痙埋《えいまい》した上に、この書庫を建させた。それ故に、冢中《ちようちゆう》からいごの声が漏れる、と伝説した。そもそも、本姫様とはいかなる女性なのか。寺僧の話では、笠間侯の女で、牧野氏が八千石の身上から大名になったのは、実に本姫様が将軍の殊寵を得たためである、この寺の九世泉長和尚が、大奥へ説教に出た、それに帰依されて、身後のことを遺嘱された、本姫様の姉君の墓は、新宿南町の天竜寺にあるという。そうすると、この好古の読書家はお妾なのである。塋域《えいいき》について経蔵の跡を看ると、そこには、「玉心院殿葬所」と彫った小石柱がある。その勇らに、巨碑も立っている。碑の正面には、

「玉心院殿正顔貞本大姉」

とあって、左右と側面とに彫鏑された文は、具《つぶさ》に経蔵建立の次第が書いてある。経蔵を建てるについて、玉心院の塔を西の方へ移したという。その玉心院とは誰か。碑文に従えば、家中の人たる玉心院の本願によって、この経蔵が建立されたのでないことがたしかめられる。碑文の穿撃をして経蔵の建立者を論じる前に、まず玉心院とは何人のことであるかを知りたい。

木像があるのを幸いに、すぐに古籠を開いて点検する。それは尼僧の座形で、別に典拠にはならぬ。ただ寵中に、「玉心院殿正顔貞本大姉、貞享四年五月三日」と題した位牌があった。これを「牧野系図」に照すと、長女、松、永井十郎左衛門貞清室のことで、二十一歳で没した人である。これで、玉心院と経蔵建立者とは、同人でないのが明白になる。そして、碑文の初めに、牧野備後守源成貞の夫人とある。経蔵建立老は玉心院の母で、家中の人はその長女松子なの.℃ある。「一切経」を二度読んだという伝説については、考拠すべきものがない。碑文には、成貞の夫人が後生願いであったことはみえるが、二切経」耽読の話はない。従って、本姫様の伝説は、すこぶる怪しくなってくる。のみならず、本姫様とは松了のことか、その母のことか、これも一寸決着しない。本姫様の姉さんの墓は(天竜寺にあるという)。天竜寺は、成貞夫人の生家大戸氏の香火院夫人の実父大戸玄蕃、実兄大戸半弥の墓もある`、ここからいえば、本姫様とは成貞夫人のことらしい。しかし、成貞夫人の墓は、本所の弥勒寺にあって、杉大門《すぎだいもん》にはない。我等は、本姫様が何人、しあるかを知ろうとして、全勝寺の螢域に一面の碑文を読み、はしなく徳川五世の陰科を論知《しんち》した哀れ元禄の史秘を発《あぱ》いて、綱吉将軍に対する衆議を大定しよう。さるにても、徳川五世は、天和二年に「主忠信」の三大字を書して、人もあろうに、関宿侯牧野成貞に与えた。その鉄面皮には驚かざるを得ない。

 かりそめにも、将軍の陰科を証すべき文書などが、幕府時代にあるべきものではない。全勝寺の碑は実に希有《けう》の文字で、愚劣な文章であっても、この点から、真に貴重な史料である。全勝寺は牧野家の古い香火所で、成貞が元禄四年に本所松井町へ要津寺を草創するまでは、世を累ねて、ここに墳墓を築いていた。その埜域にある碑文でみれば、住持が任意に記述したとはいわれたい。牧野家は碑文を肯定したものと見倣すのに、異議はなかろう。果してしからば、綱吉将軍の有夫姦を黙認したのであろうか。碑文を見よ、「股肱之妻と為り」、奇態な語ではあるが、別に読み方もない。妻の字が臣の字の誤りでない証拠は、「上君の寵顧を蒙り、公室に|歯《よはひ》すと難《いえど》も」とあるではないか。いかに言語の上に姿態を粧っても、妾たり権妻《ごんさい》たるを蔽うには足らぬ。その綱吉の寵顧を蒙る股肱の妻、直裁にいえば、成貞の妻にして、綱吉の妾である。成貞の妻は、譜代の家来大戸ム蕃の女で、名を阿久里《あぐり》といった。慶安元年の生れだから、綱吉よりは二歳若い。いつから寵顧を蒙ることになったのか、それは明確に知れないけれども、おそらく、寛文十二年以後、御用を承ったのであろう。成貞と阿久里との間には、三人の女があった。それは、寛文七年生の長女松子、すなわち玉心院、同九年生の次女季安《やす》、同十一年生の三女亀である。季女出生の際は、成貞が三十八、阿久里が二十五、一この後に出生がない。夫妻の健康に異状のない以上は、頻年盛んに出生のあったものが、まだ壮齢なのに、とみに生殖作用を廃止するはずがない。成貞のごときは、隠居の後、七十七歳になって、幸之助・貞通という庶子を挙げているのをみても、夫妻の健康を疑う必姜はない。故に、そも馴初《なれそめ》を季女出生の後と認定したい。この時において、成貞は妻女献納のやむを得ざるに至ったのであろう。献納してしまったから出生がなくなる。あれば綱吉の児子で、成貞のではない。

ところが、その後阿久里に産出がない。これは人いに説明を要する。阿久里は、献納とはいえ、実際は奪掠したのであるから、『将軍御外戚伝』『柳営婦女伝』等にも、掲記することの出来ない事情の権妻で、碑文には、「公室に歯す」などと特筆してあるが、ごくごく秘密にされておったものと思う。そうならば、綱吉の父家光の妾お万の方について、好個の例証がある。「十六歳、慶光院継目の御礼……お万の方と改め、有髪の形と成て侍二枕席(然れども、老中より内証有て懐胎禁ずる故、御君達はなし」(『将軍外戚伝』)、いかに幕府の威勢が盛んにもせよ、懐胎禁止という命令が行われたのには、驚かざるを得ない。何故に、かくのごとき不自然千万な命令を与えて、新妾を薦めたのか、理由は毫も知れぬ。これでは、全く婦女を玩弄するのである。公然任用するお万の方に対してさえ、都合次第に懐胎禁止令を実行する幕府だものを、秘密に蓄える阿久里には、避妊を強行するのを揮ることはない。故に、綱吉の妾としては出生がなくても、不審するには及ばぬ。こう考えると、健康な成貞夫婦が、とみに出生を廃した時をもって、綱吉に阿久里を占有された時、と認定する理由になろう。当時は綱吉も二十七歳、まだ館林侯で神田の邸におった。成貞の父牧野越中守成儀は、早く館林侯の博《ふ》となり、成貞は垂髪《すいちよう》より綱吉に仕え、三十七歳の寛文十年十二月、備後守に叙任し、館林の家老になった。妻の阿久里は、綱吉の生母桂昌院本庄氏の侍女で、桂昌院の懇命で、牧野家へ嫁したのである。綱吉は夙《つと》に好学の聞えあり、「初め公の少き時、桂昌君これに語げて曰く、昔時大猷公に給事せしや、公の曰く、予は国家を治めむと欲し、夙夜《しゆくや》心を労せり、素と作《はづ》る所なし、恨むべきは学問を為さ!りしのみ、予子孫あらば必ず書を読ましめむと、公此の父君の言を思へと、故に公は少きより学を好み、統を承くるに及び、益〜勤む」(『翁草』)、本庄氏は盛んに綱吉の好学を吹聴する。一方には、施与を警しくして、しきりに人気を煽るのであった。

「常憲公綱吉、性克忌喜怒常ならず、左右近侍多〜旨に杵《さから》ひ罪を得、或は斥逐《せきちく》せられ、或は幽死す、甚しきは親《みづか》ら之を刃殺す、侍中牧野成貞之を憂ひ、以為《おもへ》らく、人主間居すべからずと、乃《すなは》ち公に勧め、儒を召し書を講じ、僧を召し法を説き、猿楽人を召し技を演ず、林信篤諸博士に論なく、日に講莚に片一一す、都下の名僧|更《こもごも》ー進見し、及び猿楽人数輩、日夕技を奏し、並に消日の具と為す,(『三王外記』)、綱吉が褒既《ほうへん》の急なるは、愛憎の変じやすきを証し、儒仏並進せしめしは、中心の空虚なるを験す、『三王外記』のこの一段は、すこぶる後日に左券たるものである。この間に処して、成貞は、本庄氏とともに綱吉の賢明を製造し、これを広告するに尽力した功績は、偉大なものである。彼は献身的に働き、献妻的に勉めた。彼は、儒者も、坊主も、猿楽も勧奨し

た。自己の妻さえ進上して惜しまないのみか、有名な五の丸殿、お伝の方を推薦した。お伝の方の父は、小谷権兵衛といって、中間頭(八十俵高)だとも、黒鍬(十二俵一人扶持)だともいう。いずれにしても軽輩に相違ない。お伝の方は、十九歳の延宝五年に、白山邸で鶴姫を産み、二十一歳の延宝七年に、神田邸で徳松を産んだ。

この女は万治二年生で、綱吉より十三歳若く、阿久里よりも十一歳若い。小山田弥市がお伝の実兄を殺した、その捜捕のために、全日本を騒がせた、それほどに君寵を得たお妾さんであった。『牧野家譜』に、「女初姫、戸田淡路守氏成室、実瑞春院殿御姪、正徳四年八月廿二日離縁」とある。瑞春院とはお伝の方の法名で、初姫は妹婿白須才兵衛の女なのだから、御姪というのだ。『実紀』に、「美濃国郡上城主遠藤岩松常久、

十歳にだにみたずしてうせけるにより……戸田弾正氏成がかねて養ひをきし子数馬胤親に、新に一万石たまひ、遠藤の家をつがしめらる」とのみでは、事態分明でないが、『藩翰譜続編』には、「胤親、実は白須才兵衛源政安が子なり、此の日しも、俄に戸田氏成が養《やしな》ひになりて、また岩松が後となりしかぼ、さだめて故ある事なるべし」とあ

る。白須と遠藤とは血統の関係もない。白須才丘衛は、増山弾正少弼の家来であったのを、お伝の方の妹婿たる縁由をもって、天和三年十一月四日に召し出だされ、康米《くらまい》三百俵を与えて、御側用人牧野備後守の属吏にぎれた。その三百俵取の長男が、一万石の大名になる。『実紀』では、戸田氏成がかね、養っておいたというけれども、『藩翰譜』の方では、「此の日しも、俄に戸田氏成が養ひになり」といっている。初姫は戸田氏成の妻である。遠藤家を継いだ数馬胤親(旧同胞で、牧野が養女にして、戸田ヘ嫁入りをさせたのである。数馬が大名になるに(「いて、三百俵の家から一足飛びにはゆかれない、あたかも縁戚を利用して、戸田淡玖.…守を持ち出し、大名の養子になって、遠藤の相続者に坐り込んだのである。この一目養子の説明は、『過眼録《かがんろく》』が悉《つく》している。「其頃、美濃国領主遠藤右衛門佐病死、家督を石松へ被仰付けるに、四歳にて早世す、依て其家断絶に可及処、五の丸様(お伝の方)御願にて白須殿男子御取立有、同州にて新地一万石賜り、遠藤の遺跡を被仰付」、君恩甚だ優渥《ゆうあく》で、お伝の方の一族はしきりに栄達する。才兵衛の子数馬は、元禄五年五月九日、遠藤主膳正胤親といって、一万石の大名になり、その同胞初姫は、牧野の養女になって、早く大名の奥方になっている。栄達の経路は、ことごとく牧野を通じて拓開されている。

『元宝荘子《げんぽうそうじ》』に、小山田弥市が荒川平蔵を殺した、荒川は柳沢の養女の実父だ、と書いたのは、まさしく小谷権兵衛の外孫たる白須才兵衛の女を養った牧野のことを、誤伝したものと思われる。一体、柳沢に関する伝記は、多分牧野の話を持ち込んで、二皿掛けになっている。我等はお伝の方の寵春かくのごときを見て、その推薦者たる牧野成貞が、二千石から七万三千石に陞進《しようしん》するのを怪しまぬ。年代を算えて、お伝の方が最初の出産の時には、阿久里が三十、すでに散り残る花もない姥桜、若葉青葉の影偲ぶありさま、その以前において、お伝の方を推薦した成貞が、いかに御機嫌を取り繕ろうのに油断しなかったかが知れる。また、妻女を献納した上に、その古くなるの

を見計らって、更に新しいところを呈上に及ぶなどは、ほとんど感服に堪えぬ。成貞は重々感服すべき人物だが、献納された阿久里夫人は、

淫女姦婦として論ずべきであろうか。主従の誼重き時代において、主人の横恋慕を『忠臣蔵』の顔世御前のように、重きが上の小夜衣《さよごろも》とお断り申しても、なお承知されなかった時には、是非なくなくも、御詫に任すよりほかはない。すでに三人の愛児まである妹背の仲を、主命なればこそ、家を棄てて殿様の閨門に入ったのである。むしろ、悲しむべき命数に同情すべきであろう。プての憐れな阿久里夫人を、いよいよ絶望させ、うたた人生の落奥を感ぜしめたのは、愛女二人の早世である。全勝寺の建碑は、実に元禄四年の九月で、「天ニ於」というのが、それである。長女松子は貞享四年五月三日、二女安子は元禄二年九月三日、ともに二十一歳の女盛りで病死した。

二女の没した時には、阿久里夫人も四十四歳であった。碑文にあえて「勢位を以て其の意に介せず」というのも、元来、綱吉のお妾になっても得意でなかった様子が、よく読める。「有為や奔《すつ》るに利あり」というのも、夫に生別し子に死別して、そぞろに無常を感じるようになったためで、全勝寺の住僧がいうように、大奥へ説教に出た泉長に帰依したのでも何でもない。碑文の作者|仏山晶《ぶりがん》に勧められて、経蔵を建立したのである。阿久里夫人が全勝寺へ建碑した元禄四年九月は、次女安子の三忌辰に当る。成貞が本所松井町へ要津寺を創建したのも、同年である。そして、隠居したのが七年忌の元禄八年であった。牧野氏夫妻が深く安子を悲しんだことは、この三件に徴すべきである。






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最終更新日  2021年09月11日 07時55分36秒
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