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2021年09月11日
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牧野備後守の献妻(二)三田村鳶魚

 

 

かくて、双親をして痛悼禁ぜざらしめた二女安子は、世嗣美濃守成時の妻である。成時は黒田信濃守|直相《なおすけ》の二男で、過ぐる天和二年十二月、二十歳の時に牧野家ヘ附賛《ふぜい》して、初めは成住といった。『改選諸家系譜』に、「天和三年十二月十四日、叙従五位下任ニ美濃守'後年有故蟄居」とある。成時が婿入りの次年に叙任されたのはよろしいが、その蟄居した理由が、ただ有故とだけでは、到底済まされるわけのものでない。それに、成時は二十五で、貞享四年九月二十七日に死んだ、叙任と逝去の間は、四箇年に足らぬ日子であるのに、しかも、漠然後年と書いたのも不審に思われる。戸田茂睡の『御当代記』に、「同廿七日、牧野美濃守病死、夜前食傷に依て也」とある。

かりそめにも関宿侯の世子たるものが、食傷などすべきはずがない。大名の生活では、決してあるまじき病症である。何にせよ、成時が頓死したのは疑いもない。成時の卒去について、『三王外記』を訳出して、考究を試みたい。『三王外記』は、不確無実の書として信用の乏しいものであるが、厳に取捨すれば、必ずしも棄つべきものでもあるまい。当時の遺聞は、多分に招掠《くんせき》されているらしくもある。

 

成貞の妻は、若きより桂昌院に仕え、桂昌院の指図で嫁婚したのであるが、男子は なくて、女子が一人あった(これは誤なり、止に女子三人とすべし)。その娘に、館林家の家老黒田直相の男を婿に取って、成住(家譜に成時の届名成住とあり)といわせた。綱吉が牧野の屋敷へ往かれた時、成住の妻がお目に留って、お戯れなされた。

 それを聞いて、成相は自殺した。成住の妻もその後病死をした。成貞は綱吉の仕方を怨んだ。それ故に、夫妻相談して養子をしない。綱吉は桂昌院とともにしきりに養子を勧めた。成貞は、折角養子をいたしも、あえなく没し、娘も病死をいたしたのは、自然と手前の家を滅すように成り行きますので、台命を蒙りましても、手前の運命を取り替えまするわけにはなりませぬから、養子の儀は御免を願う、とばかり言上する。桂昌院から、しばしば成貞(旧妻ヘ、養子のお話があっても、成貞 と同様のお返辞を申し上げる。成貞の妻の兄(大戸半弥)の子が、護持院隆光の弟子になっている。それがいまだ得度していな∵のを幸いに、桂昌院が召し寄せて、綱吉共々、成貞の養子にさせた。これが成春である。

 成春の素性については、『改選諸家系譜』、及び『牧野家譜』が、たしかに『三王外記』を証明する。

それに、『御当代記』「(元禄六年四月)十八日、牧野備後守宅へ御成、式部を養子に被仰付候、是は初廿一日知足院に而周寿丸と云児に而候つる人也」、成貞がいかに寵臣であっても、将軍が駕《が》を柾《ま》げてその邸に臨み、親しく養子の命を伝えるは、前例のない破格なことで、実に希有の沙汰、非常の恩典である。

『三王外記』が養子を強要したという、いかにも『御当代記』のごとくならば、成貞は辞退することが出来まい。しかし、養子を強要するのに、何故に将軍が強要したか、養子強要の必要が那辺にあるのか。成貞もまた、養子を峻拒する事情があるか、前者にしては君威の重からざるを示し、後者にしては人情に惇《もと》った行為である。すでに強要の事実があった。それは、成貞の態度が、「天、我が後を絶つ、君命も天に惇るを得ず」という峻拒にあったことを反襯《はんしん》する。しからば、成貞の養子峻拒も、事実として肯定すべきであろう。成春が公然養子になったのは、元禄四年十二月のことであるが、その前に、成貞は養子峻拒を表明したか、

 

 山名信濃守義豊殿ハ、金田遠江守正勝ノ次男ナリシガ、山名主殿矩豊ノ養子タリ、性質敬義ノ人ニテ、聖賢ノ教ハ敬ノ字ニ帰シテ、其アラハル、所ノアトハ義ナリ、故ニ敬義ハ二物ナラザルナドイハレシトカヤ、義豊殊ニ美男ノ生レニテ、天和ノ末ヨリ御近習ニ召仕レケル所ニ、牧野備後守成貞ノ養子美濃守成住早世セラレシニ因テ、此信濃守ヲ備後守ガ養子二仕ルベキ旨仰付ラル、然レドモ、信濃守ニハ、上意ニ応ゼズシテ申シ上ルハ、公命ヲ返シ候段恐入候ヘドモ、私儀、一旦主殿矩豊養子ト成シ上ハ、其苗字ヲ戻シ、又候、他家ヲ柑続仕ルベキコトハ、上意ニ候ヘドモ御請仕難シ、備後守義、筋目ト申御役ト申カタぐ、此御断申上候上ハ、定テ御仕置ニモ仰付ラルベク候段ハ覚悟ノ至ニ候ト申切ルユヱ、将軍家ニモ御立腹アリテ、柳沢出羽守保明ニ御預ヶニテ、遠島ニキハマリシ所ニ、備後守、出羽守ヲ以テ御訴訟申上候ハ、信濃守義、上意ニ背キ申候段ハ申上ベキ様モコレナク候ヘドモ、養父へ対シ義ヲ立テ候一事ヨリ外ニハ、越度ノ筋少シモ御座ナク候、若輩ノ所行ニハ賞スベキコトニテ候、力、ル義理ノ正シキ武士ヲ無下ニ捨テサセ給フベキヤ、信濃守ヲ御仕置ニ仰付ラレ候ハンニハ、私儀モ以来養予ヲバ仕間敷候、何卒信濃守事前々ノ如クニ召仕ハレ、私ヘハ別人ヲ仰付ラレ下サレ候ハ、順道ニシテ有難キ御事ナラント、頻ニ願ヒ申サレシカバ、中一日ノ事ニテ御免アリテ、元ノ如ク召仕ハレ候。

(『続明良洪範』)

 

 山名義豊が柳沢出羽守へお預けになったのは、元禄三年四月十四日のことで、免されたのは、十五日である。その事由は、『明良洪範《めいりようこうはん》』と同一なことが『御当代記』に書いてある。『御当代記』には、成貞の養子峻拒の辞がない。『明良洪範』に従えば、成貞は山名を救解するために、以来養子仕間敷といって諌評したので、言下に別人を仰付られ下され、といっている。『三王外記』の絶対に養子を峻拒したのとは、全然、意味・志向を異にしている。『明良洪範』の意味ならば、穏当な語でもあり、義豊に対する義理といい、人情さもあるべきである。そうすると、希有の沙汰、非常の恩典をもって、成春を養子にした事実が解説されなくなる。もし成貞が養子を拒まないならば、成時没してすでに五年、一族に養うべき児がないのではない、当時の習俗として、五十を距えた成貞が猶予するはずがない。綱吉も、いつまでも養子をしないから、義豊に命じて牧野氏を嗣がせようとしたのであろう。そこで義豊が応じない、この機会に成貞は、絶家の覚悟を諌評の中に託出した。綱吉は、初めて成貞の胸中に蕊塊のあるのを知って、尋常では納まらないのを看取し、また棄ておけないことをも感悟したのであろう。それまでは、君命で片付けられるものと考えていたのに、それではいけないと気が付いてみると、辛味よりも甘味を選ぶ必要がある。綱吉が服忌令を定めた精神は、異性相続を禁遇《きんあつ》するためで、例の儒者気質に由来する。その儒者がる人が、牧野の一族を差し置いて、阿久里夫人の甥たる大戸氏の子、それも還俗させて養子にしたのは、もっばら糖分を多くしたわけで、命を伝えるのに、自身と柾駕して、から

くない恩命を服膚さすべき魂胆である。こう魂胆するのは、綱吉に弱点がある証左ともみられる。成貞は一度わが妻に忍んだが、二度わが娘には忍び難い。阿久里夫人も、わが身には耐えたが、わが子には耐えられぬ。老夫妻は、紅涙を惜しまず安子を悼み、満幅の慣気は、南薫にも解き得ないのであった。子爵牧野貞寧家蔵の『御成記《おなりき》』を見

ると、

  貞享五年四月廿一日  御成

  同   同 廿二日  公方様五丸様姫君様三丸様(桂昌院)

  同 、 同 廿七日  三丸様

  同   九月 三日  御成

  元禄元年(貞享改元)
十一月十八日 御成

  同 二年正月 十日  公方様三丸様五丸様鶴姫様

  同   四月廿二日  公方様五丸様姫君様

  同   十月廿二日  公方様五丸様鶴姫様

  同   十一月十日  公方様御台様

 

 綱吉の臨邸総じて三十二回、生母桂昌院(本庄氏)を同伴せること十三回、桂昌院のみ単行せること三回である。

第一次の臨邸は、成時没後八閲月であって、二万石加賜の恩命が伝えられた。去年成時の没するや、屋敷替という名義で、邸地を大久保加賀守に交付された(十月十八日)。屋敷替ならば、代償のあるベきはずである。しかし代償はなかった。もしあっても、請け取るべき人が死去している。体裁の美しい没収だ。大名の嗣子が死去して、その邸地を没収した例は、ほとんど絶無であろう。成時に何の罪がある、いかに扱われても、死者だからよいようなものの、あえて違例な待遇を家中の人に加えるにも及ぶまい。こうして綱吉は、安子の生前六回まで訪問して、往々夜に入って還ったが、安子の死後にも二十六回出掛けているが、一度も夜に入って還ったことはない。安子迫好のことを、『三王外記』が、臨邸の際にあるというのは、時日が許さぬ。千代田城中には、父成貞の薦めたお伝の方がいる。公然阿久里夫人が大奥に出入りを許されたのは、第一次臨邸の後でもあろうが、牧野の妻や娘は、そこに参入する機会は多い。迫好は必ず大奥へ参入した場合の椿事であろう。綱吉が老中井上河内守の妻を召見したのは、阿久里夫人が大奥出入りの公許以前にある。あるいは、安子も召見されたのかも知れぬ。元禄二年十二月十日に、綱吉が第九次の臨邸に、輪王寺門主公弁法親王を請待した。何のためだか知れないと、牧野家の記録にはあるが、あたかもその日は安子の死後九十九日で、百箇日の逮夜に相当する。この追福を営んだのは、徳川五世が亡姫を悼む所作ではなかろうか。成時が死んだのには何の御沙汰もなかったのに、安子の病中御尋ねとして、曾我七兵衛が御使いで伽羅と香箱、死んだ時には柳沢出羽守が御使いで、鱒銀《ふぎん》白枚を与えられたのを、思い合せて判断がしたい。成貞夫妻は、和田倉の邸に起臥をともにしていた。それは背中合せの同栖で、同功繭のようでもあろう。これを慰諭するにも、また養子の勧誘にも、一併には行われにくかったろう。すなわち、徳川五世はその生母と同行して、二人を二人で調節したのであろう。牧野家にいった綱吉は、前には安子の訪問、次には成貞夫妻の慰諭、最後には養子の勧誘と、臨邸に三個の目的を格別にしたとみられる。

 安子の事件は、今急に強弁して断按すべきでない。おもむろに他の材料の積聚を待って、しばらく宿題として、的確なる阿久里夫人の姦通は、史秘としてここに閲明《せんめい》するに十分であろう。成貞は臣節を重んじ、その君のために、忍んで献妻の途に出でたにもせよ、阿久里夫人はつらかりし一身より、愛女の上に悲酸を播及したのに耐え得なかった。余憤奇怨が、全勝寺碑の表に暴露したのだ。さもなくば、那般の文章を金石に委して、何しに後世に残そうぞ。当事者の衷情は、外間から諒解されずに、妻を香餌として爵禄を釣ったようにもいわれる

『護国女太平記』の本事は、柳沢でなく牧野の話の謬伝と見られる。阿久里安子のことは、成貞と五世との間を拗戻《ようれい》して、君臣の情誼は異常なものになってくる。成貞の末路は、優待恩遇を受けながら、妙に冷涼な様子が見えた。柳沢吉保が牧野の権勢を傾けて取って代った、と一概にいわれているが、何よりも、晩年の成貞は、自身に徳川五世と遠ざかるべき運命を持っていたのである。しかし、立身の順序を回顧すれば、寛文元年に二千石であった成貞が、同十年には三千石となり、延宝八年、綱吉の徳川五世とたるとともに、一万三千石になった。これは館林侯から将軍になったお祝いとしても、天和元年には老中並になり、二本道具を許され、同二年には三万三千石になり、同三年には五万三

千石になり、元禄元年には七万三千石になっている。『続藩翰譜』の記者も、「成貞藩邸よりの書老として、さこそ頼しく思召人には有けれど、あらはれたる事きこへずして、僅か四年が程にかくまで登庸せられし事、有がたき恩遇とこそ申べけれ」と不審している。天和二年三年の加賜は、能舞台の油障子を新調することさえ止めた堀田大老が、何故に諌評しなかったろう。端摩《しま》臆測すれば、幾多の事由もあるが、たしかな

ものは一もない。ただ一つ、稲葉正則が、成貞に対する殊典を遮ったことを伝える。

 天和のはじめ、牧野備後守成貞、特旨もて所領の暇下されし時、御馬賜はらんと、 小姓曾我土佐守助路して老臣稲葉美濃守正則に伝へしめらる、美濃守承り、御馬下さる二家はかぎりあることたり、うけたまはり違ひにてはなきや、といふ、助路、かつてさにあらず、といひはりしよし聞しめし、助路をめして、汝が所為いと軽率なり、美濃がさまで申すに、など立返りその旨我にきかせざる、老臣申所あらんには、幾度も其申所を聞え上ば、猶も衆議をとはるべき事なり、と仰あつて、助路忽に職奪はれ、小普請に疑せられしとぞ。(『武野燭談』)

 一家を犠牲にしてというより、破壊されている成貞であるから、いかなる代償も報復し得ない。破格の寵命も、更に君恩の優渥《ゆうあく》を感ぜしめない。のみならず、十一月六日、御小姓永井相模守を、同名伊賀守に御預け被レ成候、是は何やらん牧野備後守に御用之事被二仰付一候、御使を相模守承、備後守に申渡候に、初上意御座候と申たるに、備後守聞つけながら、よの事にか」わり、二度上意御座候と申ときに、備後つくばい片手をつく、又上意にて御座候と申時、両手を畳につく、其時上意の趣をのべ御請を聞すまし、さてさがみいふ、私事かろき者にて御座候へば、いかやうに御あひしらい候ても、くるしからざる事に候、上意と申はおろかならざる事にて御座候に、かるき者の仰を申候とて、上意をかろがろ御請被成候事は似合不申候、とことわりたる景色、備後守一言もかへし候は、忽さしころすべき 体也、然れども、備後守あやまり申候と、再三の詫事ゆゑ、ことなく御前へ罷出御 請を申上る、それ程の事ゆゑ、景色もせきてみえ申候に付、別の御小姓衆をめされ

 御尋被成候に、其場の様子不残申上る、則その御小姓を以備後守方へ被仰下候は、物毎惣而そさうに仕候、筑前守事も頃日の事也、御外聞をかかせ申やうなる事仕間敷との被仰渡の以後、相模守を御預け被仰付候、明年丑八月御赦免被成、又御小姓をつとめ申候つるが、御城にて六尺屏風の上より飛申候とて、足をくじき候て、御奉公を引こみ申候。(『御当代記』貞享元年)

 平生厳に威を立てんとする綱吉将軍も、温言か出して無礼不敬の臣を慰籍し、理義当然なる者を罰している。それでも成貞の邸へ臨むごとに、常例で親しく経書の御講釈がある。その婦を奪い、その娘を掠めて、舞倫《いりオえ》道徳を説く。親類だけに、二段聴く浄瑠璃よりも迷惑なもの。それにしても、子日《しのたまわち》、と真面目になれる綱吉将軍の心理状態こそ希有なれ、そうした調子でなければ、到底「主忠信」などという文句を、姦夫の身分で書いてやれるものでない。






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最終更新日  2021年09月11日 07時56分56秒
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