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2021年09月12日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

 甲斐善光寺〈甲府市〉  

『角川日本地名大辞典19』角川書店(一部加筆)

甲府市善光寺町にある浄土宗の寺。定額山浄智院善光寺と称する。開基は武田信玄、開山は信濃善光寺大本願三十七世鏡空。

信濃善光寺より本尊三国伝来の一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)を移し、永禄元年(一五五八)に創建。

信玄は越後の上杉謙信と前後五回川中島で対戦したが、弘治元年(一五五五)の第二回合戦で、戦場が善光寺方面に及んだので、本尊以下諸仏・寺宝類を安全地帯へ移した。一方謙信も善光寺御堂の本尊以下を越後に運び、春日山城下に安置した。善光寺別当栗田氏には両家があり、大御堂主里栗田家が謙信に属した(の)に対し,小御堂主山栗田家は信玄方であった。寺伝が天文二十一年(一五五二)、村上義清との戦いで善光寺が焼けたため、信玄が本尊以下を移す気になったとするのは従い難い。この年、善光寺方面が両軍の戦場となった形跡はない。移動の年も弘治三年(一五五七)の第三回合戦の際であったかしれないが、ここは通説に従っておく。また移動先は小県郡禰津村(長野県)であったという。 

永禄元年本尊以下を甲府へ移すことになり、九月二十五日甲府到着、十月三日甲府東郊板垣の地に地引開始、翌二年(一五五九)仮屋成り、二月十六日入仏式を行った(王代記)。  

善光寺如来の甲府到来を甲斐国中の貴賤上下の男女が喜び迎えたという(塩山向嶽禅庵小年代記)。その後金堂の本普請が続けられ、永禄六年(一五六三)四月四日立柱、同七年(一五六四)三月二十二日棟上げ、同八年(一五六五)三月二十七日落慶入仏供養が行われた(王代妃)。

普請奉行は馬場美濃守(信房)、俗説山本勘助、その後も堂塔の建立は続けられ,永禄十一年(一五六八)には材木伐採許可の朱印状が鏡空宛に出されている(善光寺文書/甲州古文書一)。

元亀三年(一五七二)五月下旬から七月十六日まで,建立成就の供養が行われ、甲斐国中の大小寺院の憎徒が宰集して、それぞれ所依の経典を如来宝前で読誦、内陣では四十八日の別時念仏会が増上寺(江戸)十一世雲誉円也を導師として勤修された。

武田氏滅亡後も歴代領主の外護が厚く、

徳川家康は天正十一年(一五八三)四月十九日寺領三か所計二十五貫文を寄進(同前)、

加藤光泰は文禄二年(一五九四)文禄・慶長の役で戦死し遺命により寺内に廟所が建てられた。

本尊善光寺如来は,

天正十年(一五八二)織田信長が岐阜へ移し、

本能寺の変後子信雄によって尾張甚目寺へ、

さらに翌十一年(一五八三)六月家康によって遠江鴨江寺に移されたが、

同年十月甲府へ帰座した。

ところが慶長二年(一五九七)豊臣秀吉は京都方広寺大仏殿への移座を命じ,

同年七月八日、如来は大本顧智慶以下供奉、人足五〇〇人・伝馬二三六疋を連ねて甲府を出発、道中の警固は浅野長政・山内一豊・池田輝政・福島正則・徳川家康・京極高次らが順次これに当たり、七月十八日無事入洛したが(慶長二年六月十五日付豊臣秀吉朱印状/善光寺文書)、

翌三年(一五九八)八月には四十余年ぶりに信州善光寺へ帰還した。

一方本尊や大本願らの去った甲府善光寺は残留者たちの努力で法灯が維持され、従前の前立仏が新たに本尊とされ、また領主浅野氏は千塚村(甲府市)光増寺の阿弥陀三尊像並びに北宮地村(韮崎市)大仏堂の阿弥陀三尊像等を奉納した。

近世は浄土宗知恩院末となったが、浄土宗の檀家である徳川氏からは厚い保護を受けた。寛永八年(一六三一)には甲府城主徳川忠長から当山再興の命が下り、諸堂修理並びに金堂の仮屋根を檜皮茸とする工事が行われ、

承応元年(一六五二)からは山門の建立が開始され、承応三年(一六五三)上棟、

明麿二年(一六五六)江戸下谷東福寺にて山門建立勧進のため本尊の出開帳を実施、万治二(一六五九)年十一月に完成した。

次いで貞享二年(一六八五)には、一国文中の触頭となり、直末三十六寺・又末百余寺に及んだ。

その後金堂が大破したので,

享保六年(一七二一)、城主柳沢吉里から修復料が与えられたが、

享保七年(一七二二)、本所回向院にて修復勧進の出開帳を行い、同13年完成。

享保十四年三月二十日から四月十日まで諸堂山門修復完成の千都万灯供養が勤修された。ところが宝暦四年(一七五四)二月七日、門前の農家から出火、諸堂ことごとく烏有に帰したので、中興癡寿看は再建の勧進に奔走、まず山門の再興に着手、明和三年(一七六六)には金堂工事を開始、翌四年(一七六七)山門上棟、天明五年(一七八五)金堂上棟、寛政八年(一七九六)八月、性誉霊海の代にようやく金堂が竣工した。工事の遅々たることより、世に「善光寺普請」の名が起こった。

近世の寺領は御朱印領三十石四斗余、境内一万一、八七七坪、三門外坊舎地一、一六四坪、供憎敷地七か所一、六七二坪、山林方五町という広大なものであった。

文化年間の当寺は、本堂・三門以下の諸堂が荘厳広大であり,また塔頭三院(もと四院)・

釈迦堂別当常楽庵など別当三庵・常照庵など供僧十五庵・尼寺円光院などがあり,寺領百姓十四軒を加え、僧三十四・尼二・男二十七・女五十五、計百十八名がいたという(国志)。 

安政二年(一八五五)十月の大地震には鎌倉三代将軍御影堂や寮舎が倒壊するなどの被害があったが、明治元年(一八六八)、の神仏分離令によって寺は大きな打撃を受けた。

明治五年十一月には諸寺院中総本山を除き無職無権の寺は廃止との命が出され,塔頭等十八軒の僧侶は還俗、その自立を促すため寺領が分与された。こうして寺は信仰的にも経済的にも危機的状況下に置かれたが、歴代住職並びに檀信徒の努力によって法灯は維持された。

昭和二十年(一九四五)七月六日夜の甲府大空襲にも奇跡的に焼失を免れた金堂と山門は、昭和三十年(一九五五)六月国重文に指定された。

修理工事の最中、昭和三十四年(一九五九)八月、台風七号によって山門は倒壊、金堂は傾くという思わぬ災害を受けたが、同三十七年(一九六二)三月、金堂・山門ともに竣工し、再び甲府東郊に威容を誇るに至った。

昭和五十七年四月には宗祖法然上人生誕八百五十年を記念する宝物館も完成した。金堂は桁行十一間・梁間七間・二重一階撞木遣り妻入・正面向拝三間・軒唐破風付・両側面向拝各一間・銅板葺・軒唐破風檜皮葺、日本有数の壮大な木造寺院建築である。

また山門は五間三尺楼門・入母屋造り・銅板茸で,金堂によく調和した立派な門である。次に本尊の銅造阿弥陀如来および両脇侍像は一光三尊の金銅仏で中尊高百四十七、二Cm

鎌倉期のはじめ建久六年(一一九五)に尾州の僧定尊が僧俗の喜捨を得て鋳造したもの。また浅野氏の納めた二組の木造阿弥陀如来および両脇侍像(中尊像高一三八、八Cmと百四十、六Cm)は,ともに寄木造り・漆箔像で藤原期の作である。以上いずれも国重文。その他当寺には多数の彫刻群があり,その一つ、木造源頼朝坐像は県文化財。また灯籠仏と称する秘仏善光寺如来は,聖徳太子感得持念の霊像と伝え,知恩院門主開封の折でなければ拝せられない。絹本著色当麻夏茶羅図と正和二年(一三一三)鋳造梵鐘はともに県文化財であるが,そのほかにもすぐれた文化財が多く,枚挙にいとまがない。なお当寺の縁起には知恩院五十世霊誉鸞宿が元文三年(一七三八)に撰述した「甲斐善光寺縁起」四巻があるが、宝物館完成を記念して刊行された「甲斐善光寺」がよくまとまっている。






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最終更新日  2021年09月12日 10時31分55秒
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