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2021年09月18日
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カテゴリ:皇室・天皇御資料

女性天皇 第三代 持統(じとう)天皇

 

 

『歴代天皇 年号事典』米田雄介氏著 他

  2003刊 吉川弘文館

 

 ◇生歿 645~702

 ◇称制 686~689

◇在位 690~697

 

白鳳時代の女帝。

もとの名は鵜野讃良皇女(ウノノサララノオウジョ)。

諱は高天原広野姫(タカマノハラヒロノヒメ)、

大倭根干天之広野日女(オオヤマトネコアメノヒロノヒメ)ともいう。

天智天皇の第二女、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠賀娘(オチノイラツメ)。  

大化元年(六四五)誕生。斎明天皇三年(六五七)十三歳で叔父の大海人皇子(天武天皇)と結婚。

斎明天皇七年、斎明が中大兄皇子(天智)と計り、百済救援のため九州に赴くとき、持続は大海人とともに随行する。この年斎明は筑紫の朝倉宮で没し、その翌年の天智天皇元年(六六二)持続は郷ノ大津で草壁皇子を生む。 

百済救援軍は同二年に百済の白村江で大敗し、その前後に持統は夫・子とともに大和へ帰る。

同六年、天智の近江遷都に従って近江大津宮に移る。

大海人は天智の政治を助け、次期の天皇と目されたが、天智の晩年、天智が子の大友皇子(弘文天皇)に皇位を譲る意のあることを察し、同十年吉野山に隠れ、持続は草壁を連れてこれに従う。

この年天智が歿し、その翌年(六七二)大海人は持統らを従えて挙兵し、弘文を敗死させて皇位につく(天武天皇)。これが壬申の乱で、天武は都を飛島にかえし、天成天皇二年(六七三)浄御原宮(キヨミハラノミヤ)で即位式を挙げ、持続を皇后とする。天武は律令制度をとりいれて中央集権の体制を推進するが、持統は天武を助けて功績が大きかったと『日本書紀』に伝えられている。

 朱島(シュチョウ)元年(六八六)の大弐の死後は、皇太子の草壁とともに政治をとる。草壁が持続天皇三年(六八九)四月に病死したあと、同年六月に飛鳥浄御原令(アスカノキヨミハラリョウ)を施行、翌四年正月に即位して正式に天皇となり、官制の整備、百官の選任、庚寅年籍の作成など律令制度の完成に力を盡す。同八年には中国の様式にならって造営した藤原宿に遷都し、薬師寺の造営にも努めた。

同十年、太政大臣高市皇子の死を機に、草聖の子の軽皇子(文武天皇)を皇太子とし、同十一年八月皇位を軽に譲り、太上(タジョウ)天皇となって文武とともに政治を行う。

大宝元年(七〇一)八月『大宝律令』が成り、翌年にかけて施行されるのを見とどけ、翌二半十二月二十二日没する。五十八歳。

『万葉集』に歌六首がある。遺体は火葬され、天武の檜隅(ヒノクマ)大内陵に合邦された。 

 

  春過ぎて夏来にけらし白たへの

衣ほすてふ天の香久山」

 

◇参考資料

 直本孝次郎『持続天皇』(『人物叢書』四一)、

北山茂夫「持続天皇論」(『日本古代政治史の研究』所収)                                         

(この項 直本孝次郎氏著)






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最終更新日  2021年09月18日 06時55分59秒
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