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2021年09月21日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

天保騒動 旧菅原・鳳来村・北巨摩郡抜粋 『甲瓢談』





 

  天保騒動とは

 

 天保七年(一八三六)の八月、部内農民の一揆が穀商から米の押し借りをはかったのがきっかけとなり、たちまち甲斐一国が騒乱の渦にまきこまれたのが天保騒動である。陶発地の名をとって『郡内騒動』とも呼ばれている。

山が多く耕地が乏しい郡内では、副業に絹織り仕事を営み、その代金で不足分の食糧を買入れていたが、主な売り手は、山梨郡熊野堂村(春日井町)の奥右衛門を元締めとする国中の穀商たちであった。

天保四年このかた連年の天候不順から、養蚕が不作で光り物になる細か織れないにもかかわらず、米価は一方的にあがり続けたため、貧農の間には飢え死するものが続出して、その数は四年間に五千人以上にも達した。これは、奥右衛門らが大量の米を買い占めて、値段をつりあげたのがおもな原因であった。

下和田村(大月市七保町)の武七と大目宿(上野原町)の兵助とは、餓死をまぬがれるためには、集団の圧力によって穀商から後払いで米を出させるよりほかないと談合し、都留郡北部の村々から二千人余りの人数を集めて蜂起した。八月二十一日、鵬境の笹子峠を越えて駒飼宿(大和村)に入り、鶴瀬の関所を強行突破して勝沼宿で夜営するころからは、国中の貧農や無宿入など、同じ飢餓にさらされたものたちが続々と勝手に合流するようになった。こうなると頭取の統制も及びにくく、街道付近に次々と打ちこわしが起り、翌日奥右衛門家を徹底的に破壊した時には、群衆は一万人以上に達していた。

最早米の押し借りという目標をはるかに越えた暴動であり、郡内勢はここから引き返した。これ以後国中の暴徒は思い思いの群をつくり、加速度的に人数を加えながら、甲府市中をはじめ山梨。・八代・巨章三郡の各地へ押し入って、めぼしい商家や富家をつぎつに打ちこわした。数百人に過ぎない甲府勤番と代営所の兵では手のほどこしようもなく、甲州はまったく騒乱のるつぽと化した。二十五日にいたって、信州諏訪藩の援兵が峡北方面で首領の無宿周吉らを捕え、ようやく鎮静した。

天保九年九月、変動の断罪が行なわれて、はりつけを最高に罪状に応ずる刑が申し渡されたが、武七をはじめすでに獄死しているものも少なくなく助のように逃亡したものもあった。勤番支配や代官および下僚も、免職その他の処分を受けて、空前の大騒動は幕をとじたのである。

 

 天保騒動の模様を伝える書物は、事件直後ころから数多く流布していて、甲州文庫に収蔵されているものだけでも、

 「甲斐国騒動実録」

「天保騒動記」

「天保騒動瓦版」

「峡中秋野嵐」

「甲瓢談」の五種がある。

 

これらはいずれも悪徳商人を憎み、郡内農民の行動に深く同情する立場から書かれていて、それだけに庶民の鬱積した心情に訴える力が強く、広く人々から求め続けられたのである。自分たちの不満を代行して/れた郡内農民を英雄的に描き、その義挙をけかしたものとして、国中の無宿らの暴徒を非難する点も共通的である。ここに取hハあげた「甲慌談(こ

うひょうたん)一は、公三巻から或る大部のもので、成立年代は不明であるが、刄末上ろの行ぎづまった社会心念ミ

にヽ共感をもって読まれたに相違ない・学問的な著作ではないから、誤りやおおげさ過ぎる修飾などが目につくが、

これらや感情的な記述はむしろ稗史の特性である・天保騒動に関心を持つ人にとって、この書物はやはり一読する必

要のある文献としうべきであろう。

 

旧菅原(台ケ原村・白須村)・鳳来村(下教来村・上教来村・大武川村)

 

(前文略)

大豆生田村(須玉町)茂兵衛を打こわし呉服もの残らず焼捨ければ、それより藤田村(須玉町)酒造家和倉酒食にて無難たすかり、日野村(長坂町)亀之丞をこわし鬨(とき)の聲を上押し来る。いならびに衣類等焼捨、片颪村(白州町花水)へおしゆき三四軒打こわし、片颪橋をわたり台が原へ出で、紙屋市兵衛を打こわし犬塚屋へかゝらんとぞ仕りければ、近郷の鉄砲打などをたのみ用意したれども、多勢の事ゆへなかなか手出しもならず見合いたる処、二軒打こわし鬨の声を挙げ押し

来る其有様、山林に響きわたり恐ろしき事例えへんかたなし、

酒造家伊兵衛なにとぞ手段にて助からん隣家の者へ頼み、徒党仲間の者へ掛合って、焚出しにても何様の望み成とも仰世られて、打こわし用捨くれ侯やう申入ければ、かねて徒党ども仲間に欲心のものありて、上野村利兵衛かたの掛合耳に聞入れ、撒にて扱(あつかい)にて吾一人金子を着服せんと、双方を宥の酒食の上望みあり承知あらば助け遣はさんと申しければ、かしこまり候と早速見出し用意しけり、しかる所に追い追い跡より一揆ども来り、なにゆへ壊さんと申ければ、掛合に及び酒食の外望み承知あり、それ故しばらく用捨するなりと総勢をおししづめ、かのもの参り伊兵衛に掛合せんと申ければ、皮羽織着たる犬将分が申様、あの身上ぶりにては騎出しくらいにては了簡ならず、米弐百俵金子も右に順じて出すならば了解いたすべしと中遣わしける、伊兵衛もぜひなく其趣承知して焚出し酒もい出し機嫌とりける所に、叉侯申遣しけるは、承知印形組合名主の巡名にて頭取方へ遣わすべしと申けるゆへ、伊兵衛大に当惑して御このみの弐百俵直に差し上侯ゆへ、印証の義は御用捨に預り申たしと答へければ、いやいや我々ども弐百俵の米郡内へもち行にあらず、当村にて困窮たちゆかざる者どもへ施し遣はすなり、それゆへ書付入用なりと申ければ、名主の印形まで刑意ならざる事なれば、伊兵衛申やうは村内の者へ遊す事人別にて割賦いたし遺候間、「私間違なく御心づき申間候間、左様御承知下され候へ」と詫けれども、「頭分ふせうちにて得心なく書付なく引ならば打こわさん」と申来りけるゆへ、しばらく御控え下され組合共に相談仕候内と申遣わし、酒を持ち運び宥の置所へ、かの先に掛合に来る悪もの、伊兵衛方へ参り内々にて申しけるは、「われらよろしくはからい申べし」と申けるゆへ、米代も相済事なら百両にて獄ひたきものと、金于にて御了面なされ下され候はば差出し申すなりと申しける。組合の者親類は不承知なれども、打壊されては百や弐百では中々済む事でなく、先々百両で相済むならば頼みたきものと彼のものへ掛合ければ、悪もの申やうは、「それがし駒井上野利兵衛の御咄もあり候」など間にあいをいひければ、伊兵衛も愈々得心にて百両遊しける。

その所へかの徒党ども待久しく大勢の仲間『鬨の声』を揚げ押し来れば、かのものは表へ飛出庭に干してある六尺桶へかけ上り、「是々此家をこわすべからず、我れらのみこみ証文とりたり打こわし無用々々」と手を上げ留るといへども、多勢の群れる事ゆへ中々とまらず、自分のかたなを披両刀にて振り廻し回して、「これこれ爰はこわす事はならぬならぬ」と抜刀無性に振り、壱人して気をもみ焦りければ、総勢申けるは「己刀をふりまわす事何事なるぞ」と咎めければ、両刀投捨手を上て「われらが承知引請たり」と胸をたゝき、于を摺りてまったくと押とめる、懐中

にあり合うはな紙を出し、伊兵衛が「書付名主組合まで印形ある書付是にあるぞ」と高々と振りまわし下れ下れと申ければ、徒党ども皆引しりぞき白須の方へ押し行

けるとなり。さればこそ伊兵衛宅は別条なく遁れける。

彼もの時の気転に白紙証文を振り回し双方しりぞけし事、是夢物語の中山卿御論紙を真似して百両の金只壱人にて着服せり、斯て一揆どもは白須村へ押し入り所々乱暴を為し、頭分は馬簡に乗り人足に昇せ、外の者帯刀家々の座敷まで土足にて打通り、金子または拵えへよき脇差などかすめ取りあばれあるき、作右衛門・彦右衛門・利兵衛・惣助・庄右衛門・次郎右衛門・半右衛門、是等のものども土蔵ともこわし立去りける。

それより教来石村へ押し行、当所に河西六部兵衛といふ者、江戸深川木場に出店ありて、材木問屋にて数年相続き、甲州より往古仕入銀を遣わし置けるゆへ、今もって江戸より小遣い銭送りければ、それにて家内はなはだ富家に暮し分限の数に入りたる富家なり、江戸にても天溝屋六郎兵衛といひ、当国にては教来石村の九郎九郎と謂るなに故にくろう(九郎)ぞと謂る。

同村八郎右衛門宅を打こわし、上教来石へ向い、酒屋兵左衛門宅へ打こわし山口御関所へかゝる。辻関所巨摩郡の境にて蔦木への通り筋也。この御関所も打破りおし通りける、その有様は破竹のごとく蔦木の宿へ出る、この村は諏訪領分なりといへども、すこしもいとわずして扇屋といへる旅籠屋、相応なる身上なれば焚出しさせ、申州境大武川へ打入り重左衛門・清内酒造家なれば打壊し、同村灰石焼商売なす岩右衛門の宅を打こわしける、さて徒党どもはそれより元来たりし道を蔦木へ出て、扇屋にて夜食を仕度させ、淵沢へ越へ政五郎・政兵衛・半左衛門など四五軒打こわし、笹尾村勘太夫かたにて焚出し云い付ける。されば勘太夫も無難にてのがれける、徒党ども星夜駆け歩き、ことごとく身心労れ、ことさら秋の冷気身にこたへ、

八ツが嶽・駒が嶽の吹颪なれば、酒を乞い熱燗にして一杯引かけんものと太釜にて酒を湛へさせ、一同寄集りかん酒数盃飲みければ、下戸も上戸も酩酊して居眠りなどしければ、頭分のもの立上り「さぞや此あたたまりさめぬうちおし行ん」と、それより松向村へおしかけ鬨の声をあげ、八郎左衛門宅を打こわさんと、足ひょろひょろと舌も廻らぬものども多くありけるとなり。案ずるに此笹尾で呑ませし酒は勘太夫が工夫にて石灰でも入りしや、大いに酔わせ徒党どもことの外酔狂し声もかれたるもの多かりける。

さて松向村、八郎右衛門を壊し、同所水右衛門といふ者の蔵の内を家さがしをなして、奥座敷へ踏みこみ、踏み込み水右衛門、水右衛門と権柄に呼よせ、おのれが面構え米の相場など致しそうな眼つきなり、速やかに申上べしいわずば捻り殺し家内も叩き壊すと脅し、居だけ高に申しければ水右衛門少しも恐れず、われら百姓渡世にて年中五穀の介錯はすれども、米穀一切買入など勝ってにいたせし覚へなし、

不審とあらは俵数改め見べし、しかし比度いづれも方の騒動ぱ、米高直に付世間融通のため穀貯えあるものどもへ掛合に見へられしと思いの外、案内もなく籠にて座敷へ踏み込み家探しある事よふす相分らず、高位高官の御方にても案内なく土足にて籠などかきこみ御入来は法式ある事なるやと諮られけれど、彼悪ものども返答にや困りけん、扨々かしこく申たり、おのれ百姓渡世ともふしながら数多の帳面所持するからは、内証質でも取米なども買入るに相違有まじ、偽るや否や此家を微塵になし、おのれがほうけた打破ってくれんと罵りければ、水右衛門答へて申けるは、

「この帳面小間物類仕入貸かた出入の覚帳なり、我等農業の手すきにいたす内職なり、当村は東郡と違ひ田畑あり共外に金銭不自由な場所なり、蚕もせず其外生りもの少しも地にあらず、それゆへ商ひ少々づゝして御年貢の足しにもいたすなり、上納に麦米など差しあげ植えてもふすべきや、夫ゆへ小間物商ひいたすに相違なし」と申ければ、諸帳面をあらため見て、「なんじが申通り小間物に違ひなけれども帳面の名前は二名なり、金兵衛書ある事是にいかがと申けるゆヘハット思ひども、此返答幼名ともふしたらば、天保七中年正月吉日とあれば又問い詰るであらうと、金兵衛もぬからぬ者なれば大に笑い、扨々御丁寧に御たづねなされ、御百姓の相続商

人の名前別なり、二名にて幼名を用ひ申なりとぞ答へければ、一揆どもあきれて振々よくしゃべる野良めと件の帳面ども投げ捨て、古脇差二腰三腰ひったくり、小間物屋にはいらぬものなりと腰に帯し座を蹴立て、それより中丸(長坂町)と謂る村へ押し行けり、水右衛門宅は無難にてあれども、脇差を奪ひ取られ何れ損耗あり、年柄も思ひけるとなり、一揆の頭取駕龍に乗り歩き、今壱人は馬にて村々を歩き、さてさて僧き者ども也、只今来りし中に紫のたすきをかけ頬包して顔を横に向し奴、水右衛門を見知りたるものか、始終面を隠して居たる故、水右衛門何卒して奴が面見たくもの、後日の証拠にと伺えども足早に出行きける、

斯て徒党ども鬨の声をあげ、中丸へ押かけ質屋次郎八・同要兵衛打壊し、銀貸し正左衛門焚出しにて詫けれども、始めの程は扱いにてしからば金子二百両出し、また村内へ「施し米」として壱軒前米二表づつ遣わさば助け呉んと申けるゆへ、正左衛門承知仕候とても一札を出し焚出し仕けるとなり、それより長坂上条村六郎兵衛をこわさんと中ければ、六郎兵衛さまざま詫言いたし、酒食焚出しにて御了簡なし下されと頼みけれバ、惣勢納得して此所へ向ひ共乱業なく、酒食等調ひ暫時の間休息したりける。






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最終更新日  2021年09月21日 22時38分27秒
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