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2021年09月22日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

土屋但島守数直(甲斐 土屋惣藏の裔)閉門上洛供奉の事

 

 武野巻の十一  村上氏著

 

土屋但馬守数直

【註】土屋民部少輔忠直の次男。はじめ定直、辰之助。

のち寛文五年(1665)十二月二十三日-延宝七年(1679)四月二日まで老中在任。

 

其の初め、大和守と申しけるが、如何なる事の御咎めにやありけん、閉門仰付けられ、寵居してありけり。其頃御上洛の胆触れありて、大小名冬支度に善を尽し美を尽す由、大和守伝へ聞きて、家司共を集めて申しけるは、今度胆上洛の胆沙汰ありて、既に御供触れ仰出されたりと云ふは実か。と尋ねらる。家司共、成程胆上洛の胆触胆座候て、段々胆用意の沙汰は、久しき議にて、早近々御発駕籠の御方も御皇族由承り及び候。と言ふ。大和守之を聞合て、

「然らば我も御供申すべし。其用意せよ。」

とあり。家司共大に胆を消し、こは物に狂はせ給ふか。今程御勘気を蒙らせ給ひ、閉門の御身として、いかでさる事の候ふべき。勿休なし。と諌めける。

その時大和守、

「否々、汝等が知るべきことにあらず。此度の御上洛に御供をなさざれば、命生きて何かせん。我れ思ふ仔細あれば、早々支度すべし。」

と下知しけるに、家司中々合点せず。再応、問答すと雖も、大和守之れを聞かず。家司共今は是非に及ばず、然らば用意申し付くべく候。

さるにても如何様にて御上りあるべく候や、と申しければ、

「将軍家御発駕の次の日、如何にも微かなる体にて罷上るべし。其用意せよ、」と。それより夜々人を出して聞合せ、用意形の如く構へけり。

さて、将軍家御発駕の由告知らせければ、大和守其次の夜に紛れて江戸を打立ち、道中忍び忍びに京著しけれども、凡そ日本国の大名小名上り集りたる事なれば、洛中洛外ともに錐を立つべき地なし。

【註 洛中・洛外】京都の市街・郊外。

是れによりて、西坂本辺に微かなる宿を求めて、其処にても閉門して慎み居たり。

 【註 西坂本】滋賀県大津市坂本、比叡山の東麗。琵琶湖付近。

されば、江戸にても京都にても、更に知る人なし。然るに家光公は之れを知召しけるにや、或る夜、御近習の輩に、

『土屋大和守(数正)を召せ。』

との上意なり。御小姓衆承りて、其趣を若年寄迄申達しけるに、

【註 小姓 君側の雑務をつとめる者。奥小姓。】

 

『大和守は閉門仰付けられ、江戸に残り罷在り、勿論、御免の御沙汰嘗て承はらず候。若し御失念にて、不図仰出されたる事もや候はん。但し土屋大和守は此度の供奉には、伺候仕らざる旨各申すと申上げられ候へ。』

とありしかば、則ち其趣を言上しけるに、家光公、

『否々、大和守近く参りたらん。召寄すべし。』

との上意なれば、老中よりの下知にて、京、伏見、淀、鞍馬迄も詮索せよとて、手分けして尋ねけるに、実にも大和守上京して、西坂本辺に居たる由を告知らせけるにぞ。召さるゝ間、早々出仕あるべしと促されて、大和守則ち長髪ながら登城しけり。老中を始め其外の人々、こは如何なる了簡にて上りけるか、不審(いぶか)し犬猿にても度々の御尋ねなれば、其段申上げんと、大和守罷出で候由を言上しければ、則ち御前へ罷出づべしとの御事なる故、大和守罷で包平伏す。蛸報奨大和守を暫く配船ませ給ひ、此度の供に参らずんば能き事はあるまじきに、免すぞ、との仰せを蒙り、大和守感涙して有難き旨申し上ぐる。之れを見聞せし人々、君臣合体の程を感じけるとかや。此は昔定めて御前に於いて、何か上意を蒙られける時、仮令(たとい)御勘気旁蒙りたりとも、何国迄も御供仕らんと御約束を申上げ置きたりけん、常式の事にはあらじと、其頃の取沙汰なりしとかや。されば御書院組頭より、御小性組の番頭となり、間もなく御側衆列に召加へられ、それより老臣補佐の職に立身ありけるこそいかめしけれ。

 

 土屋相模守数直

この数直は土屋家には二男にして、其兄民部少輔利直は、器量は弟に及ばずやありけん。父は土屋民部忠直と云ふ。

此の土星は甲州武田の忠臣土屋惣藏昌恒が忘れ形見なり。惣藏討死の節は僅に二歳なりしが、駿河国富士の根方に何某院とかや、土屋が知れる僣の許に久しく隠れ育てられける。

大神君(徳川家康)御狩りの節、彼め寺へ立入らせ給ひけるに、御茶を持ちて出でたるを御覧じ、

「此子が眼差し只者ならず。父は如何に。」

と尋ねさせ給ふ。住持あはやと思ひ、氏もなき者の伜に候。と申し上ぐる。然れども御覧ずる所やありけん、頻りに尋ねさせ給ふ故、御敵方の者の子にて候へども、出家にと頼まれ候間、不使に存じ、弟子に仕り候。と、怖れながら申上ぐる。大神君いよいよ床しく思召し、出家にせんよりは武士になれかし。召使はむ。との仰せなれば、彼の僧色を直し、今は隠しては中々に悪かるべしと思ひ、

『是れは武田勝頼の御供して、天目山にて討死仕りたる土屋惣藏が子にて候。』

と申上ぐ。扱こそ只者の子とは見えざりし。忠臣の子なり。とて直に召具せられ、後に民部少輔になされ、忠直と称し、慶長七年(1602)の春、上総の久留利にて二万千石を給はりける。同十七年(1612)四月九日、三十一歳の時、駿府にて病死す。

其子三人あり。

嫡子 民部少輔利直、

二男 大和守数直、

三男 兵部少輔之直なり。

数直は今の相模守の父なり。されば積善の余慶子孫に留まり、宗蔵が無二の忠義、子孫の盾目とはなりぬ、宗蔵諱を直村と称す。

武田越前守信英は御番頭なりしに、大和守老臣の職として、年始には越前守を招請し、先祖主従の礼を守り、使者を以て刻限を伺ひ、門前へ

出でと足を迎へ、自身配膳せらる。且つ常式役儀に就ての参会には、尤も職を守られけるとぞ。

子息相模守政直も、同じく此格式を改めずとかや。

 

 【註】土屋民部少輔忠直

 

天正六年甲斐国に生まれる。父惣藏の討死した天正十年(1682)は一五歳であった。⑨今泉村榜厳院、住職寒妙の養育をうけ、のち駿河国清見寺(現在、清水市興津)において成長する。






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最終更新日  2021年09月22日 18時23分16秒
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