2298384 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2021年09月23日
XML
カテゴリ:山梨の歴史資料室
​甲斐国天保騒動​
甲斐国民奮起す
 騒動の要因
 
(前略)清七らが伊豆韮山の江川代官屋敷へ送られていってからまもない八月下旬のある日、清七は代官所の屋敷内が異様にあわただしいのに気づいた。
見まわりの下役人たちの会話から、甲斐で一揆が起こったらしいということがわかった。そのとき清七は、遠く隔たっている甲州の一揆のことで、どうして江川の屋敷があわただしいのか、その理由をおおよそ想像することができた。
 当時江川代官が管轄する幕領は、伊豆と駿河のほかに武蔵と相模にもあったので、おそらく隣接している相模の村々にまで直接影響をおよぼすほど大きな一揆であろうと推測できた。そして、自分の旅籠をいつも定宿にしてくれている行商人などから、
甲州街道の宿駅やその周辺の村むらが助郷などの負担で苦しんでいること。
周辺の山々の間にある村々は、「やせ地」の畑がほとんどであるため、年頁はすべて金納であり、なにか物を売り出して銭に替えなければならないこと。
このごろでは特産の「郡内絹」が世間によく知られるようになったので、生糸にも力をいれてはいるが、この飢饉で絹の値段が下落する一方であったこと。
そのうえ信州の中馬に駄賃稼ぎを奪われて、甲州街道などでの仕事の量も減ってしまったこと
など、郡内の人びとが、米価の暴騰と不況という二重の圧迫の中でたいへんに困っているようだという話を思い出した。
 
★悲惨な状況
事実、郡内(甲斐三郡のこと)を横断する甲州道中一六宿は、公用人馬の継ぎ立てに支障をきたして困りきってしまったので、幕府へ助成金の交付を申し出たが、相手にされず絶望していたところであった。
そして、ここ十数年来の絹生産の発展とともに、街道筋の清々に急にふえてきた没落した百姓たちには仕事もめっきり少なくなり、他方、長脇差を腰に差した無宿渡世人のような異様な風体の流れ者たちが、この窮乏しきった状況の中でますます不法な行動に出て、街道の人びとを困らせる場合も多くなっていた。
このようなわけで、天保4年(1833)の飢饉より天保9年(1838)までの六年間に「人別六万七千四人、小児その人別に入れざる者数多く、餓死人数を知らず、飢渇・病流行死に侯一万七千余人、谷村長安寺門前の明(空き)屋にて死人およそ百人余り、所々に捨て児数知れず、谷村町内にて赤児を捨て、犬食らいて頭は町中にあり、手足胴体は所々にあり」(『甲斐国都留郡郡内一揆関係資料』)と悲惨な状況を生み出していた。
 
また、この年だけで、甲斐国上・中・下の各郷の105か村では760軒の「退転家」と7、066人余りの人口が減少した。そのうち5、823人は飢餓が直接の原因と見られる死者で、残りは欠落、奉公稼ぎ、袖乞(こじき)となって離村した。
 人間ですらこんな状態であるから、交通手段であり、山間での作業に欠かせない役割を果たす馬も577頭ほど減ってしまい、そのうちの約三分の二は餓死、残りは売り払われている。このような事倦にもかかわらず、
「駿州・相州の者に穀物を付け送り候者これある趣御聞き及び、当節の難急もかえりみず自己の利欲に相惑い人気不平の基」(『大月市史』史料編)
と依然、米の横流しをする者たちがあとを絶たなかった。そのうえ、「勤番の衆用人何某米を買い込みて不二川(富士川)を下し江戸へ送りけるにより国中米たかくなりたりければ」(『三川雑記』)と江戸救済のために、甲州勤番が米を江戸へ送る動きがあったのである。
★都留郡下和田村 百姓武七
 相模に隣接する甲州街道犬目宿に近い都留郡下和田村に住む、わずか持高一斗の「水呑み」に近い貧しい百姓の武七は、すでに70歳の峠にさしかかるのに、さしせまる苦しさの中で、家族総出で日雇稼ぎに犬目の宿に出ていたが、このごろは仕事もなく同じ仲間とぶらぶらしている日が多くなっていた。そのようなとき、かれもまた、各地で貧しい人びとが立ち上がって、酒屋や穀屋を打ちこわして米の値段を下げさせている、という噂をたびたび開くようになっていた。
これまで何度も村役などに助成を掛け合って、再三拝借米などを願い出ても、村内にある貯蔵米もすでに枯渇しているため、代官様だっておいそれと助けられるほどの余裕はない、とすげなく断られるのが落ちであった。だからといって、わずか一斗ばかりの持高の百姓には売り払う馬もない。
そんなところへ、8月17日、同じ郡内の上谷村と下谷村の百姓たちが米商人らを打ちこわしたという話は、武七らを勇気づけた。また同じころ、
「山梨ほか二郡のうち米穀を囲い置き侯者これあるように相心得、当郡村々の者党を結び、愚昧の者どもへ申し進め、海(街)道筋より鶴瀬・駒飼辺まで押し入れ、穀物商い侯者どもを打ちこわすべき旨、取り沙汰もっぱらの風聞」(『大月市史』史料編
と、幕府の谷村代官所が察知していたように、事実、各地で蜂起の準備がなされていた。武七らもその一組であり、犬目宿で日ごろ宿民から尊敬されていた兵助の家に集まり、苦しい実情を話し合っていた。そうこうするうちに、最後はどうしても打ちこわしに立ち上がろうという話にいってしまうのであった。兵助は算術や算盤に長じ、物事の道理をよくわきまえていたから、すぐにでも立とうと血気にはやる若い者たちを抑える役にまわった。事をおこすにはそれぞれに手順があり、一人でも多くの人びとに参加してもらわなければならず、それには、それなりの正しい理由が必要であること。しかも、それをひそかに村々へまわし、訴えねばならないことを説得した。兵助らは、当時民間ルートをへて流れてくる各地の一揆物語の内容をよく知っていた。
たとえば、隣国相州津久井地方で天明の飢饉のときにおこった「土平治騒動」のはなばなしい物語などは、この地方にも相当流布していたからである。兵助はいつもこれらの話に共鳴していたので、その物語に出てくる指導者のように、よくよく戦術を練り、そのうえで立ち上がることを、集まった者たちに向かって強い調子で訴えた。
 こうして、近隣の者たちならば正直者で知らない者はない、年老いた武七を名目上の頭取に選び、実際は兵助が指導者となって、正義の打ちこわしに立ち上がることになった。すでに不穏の動きありとして、きびしい探索を怠らなかった役人たちの目をかいくぐって、計画は実行に移されていった。
 郡内領上谷村まで東12、3か村申し合わせひそかに相談相きめ、これより酒屋・穀屋等打ち潰し、買い置きまたは貯え置き供米穀を乱させ候へば、自然と米穀も下値に相なるべし(『甲斐国都留郡郡内一揆関係史料』).
と、一五、一六日に早くも打ち毀しをおこしていた者たちと連絡を取り合った。近隣の村むらへも連絡の若い者が走った.かれらは二通の廻状をもっていた。
その一つは、打ち毀しの趣意書と人足催促の要求であり、
もう一つは、戦いが米や金だけの要求ではなく、世の人びとを救うための正義の行動であると、
この蜂起を正当化するための「連判評定の事」と題した廻状であった。
要約すればつぎのようなことが書かれていた。
 一、めいめい一刀ずつ帯刀すべきこと
  一、衣類は、用心のためになるようなものを着用のこと
  一、食糧は、炊き出しを頼むけれども、弁当を用意すること
  一、鐘・太鼓を一か村で二組ずつ持参のこと
  一、鉞(まさかり)・釜鑑と三尺柄の鎌を持参のこと
  一、旗を一本ずつ持参し、その旗に村名の頭の一字を記してくること
  一、夜中は格別なとき以外はすすまないこと
 一、橋を渡るときは、おおぜいでいっしょに渡らないこと
  一、渡舟堺では、船頭のさしずを受けること
  一、あらゆる駆け引きは、すべて頭取の指揮のうえでおこなうこと
  一、相手側からいろいろ申し出があっても決して承知しないこと
 一、金銀などを絶対に盗まないこと
  一、人に怪我をさせないこと
  一、火の用心を大切に守ること
右の条々堅く守るべきこと(『甲斐国都留郡郡内一揆関係史料』より)
 このような趣意書や行動規準の内容に共鳴して、ついに八月二〇日、貧しい人びとは
「民窮の趣を大文字書きたる大幟を真っ先に押し立てと、困窮の理由を大きく書いた幟を立てて立ち上がった。なかには、中初狩宿の草分けであり、むかしは相当な高持百姓であったが、最近になって没落した組頭伝兵衛のような宿役人から、「医者職行にて少々は草学(本草学)も相学び」(『大月市史』史料編)、この辺では医者としても相当な社会的信望のあった黒野田宿の問屋兼名主泰順などまでが、一揆を組織する際に力になっていたこともあって、たちまちおびただしい数の参加者を見ることになった。
 郡内騒動から一国騒動へ
一揆は、まず黒野田宿を中心に、米商人や質屋渡世の者に対して押し借りを強要したことに始まった。たちどころに集まったおよそ5、000人は、甲州三郡から郡内へ米が送られてこないために多くの者が困窮して苦しみぬいているとして、笹子峠をこえて、国中平野へ打って出ることになった。
しかし、翌21日、峠をこえて国中平野へ入り駒飼宿に達すると、たたかいの様相は、武七や兵助が当初考えていたものとだいぶ違いはじめた。
 駒飼宿には、ここ数年来、郡内地方へ米穀類を売っている商人たちが店を構えていたので、当然はじめから百姓たちの攻撃の目標になっていた。この段階に入ると、宿々にたまっていたあらゆる貧しい階層の者たちが一揆勢に加わるようになり、その数は万に近いものになっていたのである.つまり
「困窮の族は申すに及ばず、博爽打ちのあぶれ者やにせ浪人」(『大月市史』史料編)
などの参加が「何万何千とも相知れず多人数に相なり、その勢いは破竹のごとくに押し寄せ」と、続々と一揆への参加者が集まってきた。そして街道沿いの米屋をはじめ質屋・酒屋にいたるまで、つぎつぎに打ちこわしをかけていき、「諸帳面・証文類」まで焼き捨てていった。
 百姓たちが直接米の購入などで取り引きのある商人への打ちこわしを終わって引き上げようとするころから、かれらの中になんでも「残らず火をかけ焼き払い」と、はじめに触れまわした自分たちの行動規準とはかけ離れた無差別な動きが見られるようになった。
そこで武七や兵助らは、参加者にさきの規準を厳守するよう求めた。しかし、地元とのつながりが薄く、しかもさまざまな階層や職業についている流れ者たちには、かれらの統制力は無力に近かった。
長浜村の無宿、民五郎へ実権が
そのころになると、長浜村の無宿で齢50になる民五郎へ実権が移りはじめた。民五郎は長い無宿渡世の経験から、甲州一円の地理や世情に通じていたし、日ごろから豪気で、渡世人仲間からも一目おかれていた。このため武七らは「乱妨頭取の差図は受けず」と、石和宿に近い熊野堂村で引きあげることになった。
 こうして、一揆の指導権はまったく無宿者の民五郎らに移った。民五郎は
「長脇差を帯び、盗み取り候女帯」
を肩からさげて目印とし、指揮にあたった。戦術も一変した。地理と世情にくわしい行動力をもつ者たちを中心に、いく手かにわかれて広い地域でいっせいに豪商や地主を打ちこわし、財産を奪い取り焼き払う作戦に出た。しかし、民五郎らでさえ、ほんとうの目的は、金銭・衣類などを奪い取るのではなく、豪商や地主たちから証文や譜帳面類を奪い取り焼き払うことにあるのだから、近隣で没落の危機にあえぐ百姓たちにぜひとも一揆に加わるよう要請しなければならず、日ごろから百姓たちに「仁心をかけている者」は打ちこわしの対象からのぞく配慮を見せた。この結果、ふたたび鍬や鎌をもった貧しい百姓たちの姿がめだってふえてきた。こうして一揆の報を聞きつけた人びとが、甲州全域から続々と集まってきた。まさに「甲斐国民奮起」の状況になった。打ちこわしに参加してのちに逮捕された者の出身村の分布を見るとその状況がはっきりする。それは都留郡をはじめとして、なんと甲斐全811か村におよんでいる。
 甲府代官所
 
このような力に対して、甲府代官所の手勢などではまったくなすすべがなかった.いく手かにわかれていた一揆勢が、その日の午後ほぼ目的を達しょうとしたころ、民五郎は甲府の手前の酒折村で、ふたたび一万人におよぶ参加者を一堂に集めた。そして、その大勢カをもって、甲斐の中心地であり幕府の重要拠点である甲府の街へ突入を開始した。ここでも、勤番の幕府軍勢はどうすることもできず、大軍の為すがままであった。一揆勢は町内に入るといく手かに分散し、にめざす有力商人宅を打ちこわし、「蔵宿札差大福人」の竹原田藤兵衛方へは放火する作戦に出て目的を達した。
この間、民五郎らは甲府へ向かった勢力とは別に、駿河に通ずる鰍沢筋へも一手を向け、そこから商人たちに打ちこわしをかけつつ北上することによって、警備態勢を混乱させ、たたかいを容易にすすめる作戦に出ていた。
 こうして二〇日に開始されたたたかいは、二二日の夕刻になって、甲斐国を横断し、借州往還韮崎宿から、さらに台ケ原へすすみ、なんと信州との境にまでおよぼうとしていた。
 このころになると、甲府代官から近隣諸藩への要請によって集まってきた高島藩・高遠藩などの軍勢の力が大きくなって行く手を阻みはじめたが、依然として一揆勢は活発で、ふたたび甲府へ入ろうとする動きさえ見せた。しかし、もはや参加者の目的はほぼ達せられていたので、一揆勢の規模は急速に縮小していった。民五郎ら頭取層では、帰村しょうとする百姓たちを戦列にとどめることはできなかった。そのため、かれらは最後まで軍勢とたたかって捕らえられるか、その場で倒れるかの道しかないことになった。
 生きのびる一揆指導者 兵助、甲州を去る
 ちょうどそのころ、失意のうちに郡内の人びととともに引きかえしてきた発頭人武七と兵助は、駒飼宿まできて、すでに捕縛の役人たちが黒野田まで出張してきていることを聞き、初鹿野(現勝沼町)から天日山を通り眞木村(現大月市)桑西を出て、さらに桂川を渡って帰村した。しかし、ここも役人たちが取り囲んでいたため、二人は猿橋の山中に身を潜め、これからの生き方について相談し合った。その結果、26日にいたって武七は、自分はすでに老齢でもあり、長い間この甲州街道の宿近辺からほかに出たこともなく、他国に知り合いとてないため、とうてい逃げきることは困難であることを自覚し、頭取として自首して出ることが兵助を救うことになると考えるにおよんだ。
それに対して兵助は、これまで長く放浪してきた経験から、他国のようすを知っており、多くの知人もおり、得意のそろばんや算術、または家相の見方などを教えることで逃げのびることができるかもしれないと考えていた。こうして、兵助は甲州を去るべく、武七は自首するために、別々に山を降りていった。その後、巡礼姿に身を変えた兵助は、中山道から北陸路へとわけ入り、歩度を少しもゆるめずに直江津・富山へとすすみ、金沢から永平寺に立ち寄り、丹波由良湊をへて天の橋立から丹後・播磨・備前岡山へ、さらに小豆島へ渡り、四国丸亀に上陸、西国八十八か所巡礼をつづけるなどして四か月を過ごし、ふたたび大坂・奈良・京都をへて、その後の余生をひっそりと送ることになった上総の木更津湊へたどりついた。放浪の道みち、自分が引きおこした一揆をきっかけに起こった各地のたたかいや事件に関する噂を聞きながら、得意のそろばんなどを教えて衣食の元手を得ていたが、一揆をおこす直前に離縁したとはいえ、甲斐に残したわが妻子への思慕は断ちがたかったようだ.
 日々克明につけていた逃亡日記には、
  
おしょうさんが私(の)むすめをつれまいり、私にだかせ候につき、われがおやなると申せば、よろこんでひざにおり候。ひさしぶりでちち(父)がね(寝)よというてねかし候えば、ほどなく目をさまし候につき、なおまた家にかえり----。
            (『甲斐史学』6収録の増田広美「犬目村の兵助について」)
と、生まれたばかりで別れてきた娘たちの安否を気づかう父の心が、苦しく不安な逃亡の記事の中にもあふれている。
 しかし、「甲斐国民奮起」といわしめるほどの大一揆を指導したこの人物は、きびしい追及からのがれるために、姓名を変え、職業を変えながら、その後も徳川の世が崩壊していく姿を自分の日でたしかめながら、江戸湾沿岸の片すみで根強く生きつづけた。
 このような逃亡日記をつけ、ともかく幕末までも生きつづけた一揆の指導者は、天保という時代に数多くおこった一揆や打ちこわしの中でも、おそらくかれ一√人であろう。なにが、かれのこのような強じんな生命力をささえつづけたのであろうか。
 たたかいの噂
 甲斐のたたかいは、数日間甲府一円に無政府状態をつくり出した。思いがけない百姓らの力に仰天した幕府は、一揆が一応の終息を見ると、参加者へのきびしい探索を開始した。9月に入っても取り調べのために各村から連行される者が続出し、その数はなんと数千にのぼった。頭取とおぼしき者たちは、はげしい拷問のすえ相次いで牢死させられた。武七もまた取り調べが終わるのを待たず、70歳の生涯を牢獄の中で終わった。
 他方、そのころ、この郡内のたたかいのようすは瓦版にも刷られて、ものすごい速さで全国へ流されていった。なんと
「沼津(水野氏)の勢は富士の裾を廻り甲州へ寄せたるに、戦いて大敗北の由に候。百姓ども勝ちにのりて追いかけ、大いに苦しく候由」(『三川雑記』)
とまで江戸では噂され、
「甲州の乱は今に治まらぬ由なり、二万人ほど山へ立てこもれり」(同書)
という情報から、さらに小田原藩領が例年なら甲州へ移出している米をストップしたため、「甲州再発」の情報が乱れ飛ぶほどであった。事実、その後も甲府の町内をはじめ各地に依然余煙がくすぶりつづけ、なにかきっかけがあれば再発する動きすら見えていた.
 その間、この甲斐のたたかいは、各地へ波及していった。8月28日には、同じ甲州街道の武州多摩郡八王子宿では、厳重な警備の目を盗んで、
「米価の儀につき相談いたす儀これあり供間、念仏堂へ寄り合い候よう」
(江川文庫『公事方御用留』)
と触れ出し、貧しい宿民たちが、以前から米の販売を独占して宿民たちを困らせてきた米屋仲間に対するたたかいの準備をすすめていたのが発覚して、この地方を管轄する江川代官や八州廻りの役人たちを緊張させた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年09月23日 04時05分57秒
コメント(0) | コメントを書く
[山梨の歴史資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X