カテゴリ:著名人紹介
稲葉一鉄(一五一六~一五八八) 安土桃山時代の美濃国の武将。通則の末子で、長良の崇福寺に入り僧となったが、大永五年の浅井氏の美濃侵攻で、父と五人の兄を失ったので還俗して家を継ぎ、土岐頼芸に仕えた。頼芸が滅ぶと斎藤氏に仕えたが、織田信長に主を代え、軍功を挙げている。信長に疑われて茶室で殺害の危機に瀕したこともあったが、「稲葉家譜」は信長から牧範筆とする「賎々鳥の絵」を拝領したことや、入道した時の信 長との挿話などを録しており、信長の信任は薄くなかりたと思われる。信長が殺害されると羽柴秀吉に仕えて信任を得、秀吉が関白を拝すると、三位法印に叙されている。戦国を生き抜いた典型的な武将の姿を一鉄に見ることができるようだ。 画像は一鉄の一周忌に因んで画かれ、天正十七年十月に大徳寺百三十世の玉甫紹踪が著賛している。玉甫は秀吉の命で信長の菩提寺総見院の二世ともなった僧である。「稲葉家譜」に拠れば、子の貞通が京都から画師を招いて画かせたとする。画師の名を明らかにしていないが、その作風は当代の代表的画家長谷川等飢を思わせるものがある。等伯は狩野派に対抗して京都で懸命の働きをしているが、天正十一年、総見院の、天正十七年には三玄院の障壁画を画き、また大徳寺三門楼上の天井、柱に彩管を揮っている。また、玉甫紹踪や子利休などの肖像画を画いており、秀吉側近との結びつきを作るのに熱心であった。製作の時期と周辺の状況も等伯説に煩くようである。当代の武将像として美術史的にも優れた内容を持った画像であるといえる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月23日 07時00分02秒
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