カテゴリ:山口素堂資料室
「甲斐国志」(かいこくし)71巻。(「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊) 松平定能編集。1814(文化11〕年11月成立。
江戸幕府の甲府勤番支配であった松平伊予守定能が、幕府の内命を受けて、1806(文化3)年に編集にかかり、同11年に完成した甲斐の地誌である。編集主任定能1805(文化2)年、48歳で甲府勤番支配として着任し、公務の余暇に甲斐の故事を探り求めたとろ、武田氏減亡後、・わずか二百数十年であるのにはなはだしく散逸しているので、慨然として地誌編集に志した。 地区担当は 巨摩郡 西花輪村(田富町)長百姓内藤清右衛門兎昌(55歳)、 都留郡 主任は都留郡下谷村(都留市〕長百姓森島弥十郎其進(同44歳)、 山梨・八代、巨摩3郡 担当は巨摩郡上小河原村(甲府市〕神主村松弾正左衛門善政(同42歳) で、みな甲斐におけるすぐれた学者であった。 なお、編集員に協力した人々としては、松平定能の家臣に広瀬勇八・佐久間寛司・斎藤伝兵衛・斎藤惣左衛門、関文太郎、黒木宰輔、橋本某があり、甲斐国内の人に内藤景助(清右衛門息〕、獲辺与九郎、三井益之助、小野新八などがあった。 内藤、森島、村松の3人は、定能の家臣の待遇を与えられ、出身地にちなんで花輪先生、谷村先生、小河原先生と呼ばれた。 1806(文化3)年正月に、調査項目が決定された。 定能は斎藤伝兵衛に命じて2月1日、村々の名主、長百姓あての回章を作らせ触れさせた。それによると調査項目は、御朱印、黒印除地、古い書物系図類、寺社の縁起伝来の宝物、什(じゅう)物、古器、古画の類、古城跡、古屋鍬古墓所、石碑の類、珍しい草木、薬種の類、山林、川沢、名所、古跡、古歌の類、国境、古道、小道の類、申し伝えのある噺(はなし)、物語、雑談の類などである。 社寺へは別に触れて、書き上げを提出させた。こうして村々寺社で資斜を収集、用意させるとともに、編祭委員は各村を巡回し、諸資料を一層精確に調査検討したのである。 初めは定能の役宅を編集所として仕事を進めたが、1807(文化4)年8月に定能が西の丸御小姓組番頭に転ずると、編集所を西花輪の内藤清右衛門宅に移したり、谷村と江戸にも編集所が設けられたりして、草稿ができあがると、江戸の定能宅に送り、そこで校正を受けて清書するというありさまであった。 内藤清右衛門の子孫である西花輪の内藤家には、当時収集された御改め村方蓄上帳(731冊)・同書上(97点)、御改め村方絵図(684枚)、寺社由緒書上(1120点)、個人由緒書上(167点)、古文書等書上(64点)が伝存されている。厳密な考証を整えるため9年の歳月を費やして1814(文化11)年、ようやく「甲斐国志」は完成し,提要・国法・村星・山川・古跡・神社・仏寺・人物・士庶に分かれ,付録に武田家重宝橘無鎧(たてなしのよろい〕・旛旗(しょうき)、花押、印章、古文書、古記録、産物、製造などの資料が集められている。編集態度は科学的で、この期に編集された諸国地誌中の白眉と推称されている。 松平定能は序文を自著して巻首に掲げ、本又は家臣に清書させて和本に装丁し幕府に献上した。この「献進本甲斐国志」は現在、内閣文庫に所蔵され、数多い「甲斐国志」の写本の中で最も権威ある原興となっている。<清水茂夫氏著〉
甲州の蓬澤・西高橋両村、濁河の剰水を受け大半は沼となって数十年、近隣の七邑も亦同じである。ことに両村は甚だしい。雨が降れば則ち船に非ずば行くべからず。民は荷物を担いて出づ。河魚の疾いは但に与にするを焉禾黍も実らず、饑□野に盈ツ。将に不毛の地と為らんとす。 元禄甲戊桜井孫兵衛源政能郡の為に于邑に至る。民庶は蹄泣して濬治の計を請う。政能は諾し明る年乙亥帰りて老臣に遡へて其の事甚勤した。国君はこれを恤し、明る年丙子新に政能に命じて検地の功を鳩じ西高橋より落合村に至る堤二千一百余間と泥を開いて塞を决き濁河の流れを導いて笛吹川に会せ遂ちて止む。是に於て土地は沃乾き、家穡は蕃蕪す。民は以居すべく、租も以て入るべしと。 政能の死してから久しい。而して両村の民は愈々その恩を忘れることは能はず。乃ち、政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。あゝ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るはいにしえの典也。余、後来其の所由を失うを恐れ、遂に書を石に勒すとかく云ふ。 元文三年七月 (1738)斎藤六左衛門正辰
しかし、一代官の事蹟を当時に於いて、官費で賄った事業は、例え親族でも公的に顕彰することなどあり得ないし、幕府の罰則が適用される事例である。孫兵衛の行動は単に一代官として他の当該代官とともに仕事を全うしただけの事である。
桜井孫兵衛と斉藤正辰 桜井孫兵衛政能の姪斎藤六左衛門正辰(政能孫兵衛と兄政蕃は父定政の子で、政蕃の子政種、その子が政命で、斎藤六左衛門正高の家に婿に入り、斎藤正辰と名乗る…『寛政重修諸家譜』)が享保十八年(1733)甲斐に来た折に地元に建立させたものである。 正辰は元文三年(1738)にも来甲して、その折には地鎮碑を建立している。
『寛政重修家譜』桜井孫兵衛の項 桜井政能(まさよし)孫兵衛。桜井七右衛門定政が二男。母は須藤氏。 桜田の舘に於いて清揚院殿(徳川綱重)に仕え、代官をつとむ。宝永元年文昭院殿西城にいらせたまうの後、御家人に列し、廩米二百俵をたまい、御代官となる。享保十一年九月十一日労を告げて職を辞し、小普請となる。此の時黄金二枚をたまう。十六年正月十四日死す。年八十三。法名道就。小日向の金剛寺に葬る。後々葬地とす。妻は長岡氏の女。後妻は松平越後守家臣萩原五左衛門某が女。
『寛政重修家譜』斎藤正辰の項 正辰。小兵衛。」六左衛門。斎藤六左衛門正高が養子。 素堂は桜井孫兵衛より七歳年下であり、没年は素堂が享保元年、孫兵衛は享保十六年である。孫兵衛は甲府の代官を辞した後大阪に赴任している。 孫兵衛の石祠と顕彰石碑は濁川のほとりにあり、地域の人々は今でも「桜井しゃん」として祀っている。この石碑は刻字もはっきりしていて正面には「桜井社」裏面には享保十八年建立、西高橋村・蓬澤村と刻字してある。これは桜井孫兵衛政能の姪斎藤六左衛門正辰(政能孫兵衛と兄政蕃は父定政の子で、政蕃の子政種、その子が政命で、斎藤六左衛門正高の家に婿に入り、斎藤正辰と名乗る…『寛政重修諸家譜』)が享保十八年(1733)甲斐に来た折に地元に建立させたものである。正辰は元文三年(1738)にも来甲して、その折には地鎮碑を建立している。碑文によれば桜井孫兵衛の生祠に関わる部分として、
政能死してから久しい。而して両村民はその恩を忘れることは能わず。 乃ち政能を奉じて地の鎮めと為し、祠を建て毎歳これを祀る。 ああ生きて人を益すれば、即ち死してからこれを祀るは古の典也
とあり、生祠では無い。
前述のように孫兵衛の没年は享保十六年であり、石祠の建立は十八年である。この石祠は明らかに生祠ではないことが明白である。 山梨県の歴史書や紹介書は長年この石祠を生祠として記している。また『国志』以来素堂の「山口霊神」も合祀されているとの記述も見られるが、その存在を証する書もなく不詳であり石祠は現存しない。傍らにある石碑は孫兵衛の兄の子供が斎藤家に婿に行った斎藤正辰(当時勘定奉行の一員)が甲斐を訪れた時(正治三年)に建立したものである。正辰は孫兵衛の兄政蕃の子であり、斎藤家に婿入りしている。この石碑の刻文を後の『国志』が拡大引用したものである。残念ながら石碑刻文の中には素堂に関与する記述は見えず、孫兵衛の威徳を顕彰しているだけである。何故素堂が孫兵衛の事蹟の中に組み入れられたかは、それを示す史料が無く不明である。
山口素堂は濁川改浚工事には関与していない その三『甲斐国志』の創作箇所
元禄八年(1695)乙亥歳素堂年五十四、帰郷して父母の墓を拝す。且つ桜井政能に謁す。 前年甲戊政能擢されて御代官触頭の為め府中に在り。 政能素堂を見て喜び、抑留して語り濁河の事に及ぶ。嘆息して云う。 「濁河は府中の汚流のあつまる所、頻年笛吹河背高になり、下の水道(みずみち)の塞がる故を以て、 濁河の水山梨中郡に濡滞して行かず。云々 然れども閣下(素堂)に一謁して、自ら事の由を陳べ、可否を決すべし望み、 謂う足下に此に絆されて補助あらんことを」
「素堂答えて云う。 人は是天地の役物なり。可を観て則ち進む。素より其分のみ。況んや復父母の国なり。 友人桃青(芭蕉)も前に小石川水道の為に力を尽せし事ありき。 僕あ謹みて承諾せり。公のおうせにこれ勉めて宜しくと」云々
素堂は薙髪のまま双刀を挟み再び山口官兵衛を称す。幾程なく政能許状を帯して江戸より還る。 村民の歓び知りぬべし。 官兵衛又計算に精しければ、 是より早朝より夜遅くまで役夫をおさめて濁河を濬治【水底を深くすること】す。云々
是に於て生祠を蓬澤村南庄塚と云う所に建て、 桜井明神と称え山口霊神と併せ歳時の祭祀今に至るまで怠り無く聊か洪恩に報いんと云う。
山口素堂は濁川改浚工事には関与していない その三 山梨県の歴史資料
●『甲斐国歴代譜』(なんとも味気ない記述) 元禄九年丙子三月、中郡蓬澤溜井掘抜仰付、五月成就也。 これが幕府の正式な書類である。河川工事は幕府直轄事業であり。国志のいうような工事形態は有り得ない。
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最終更新日
2021年09月28日 19時34分07秒
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