カテゴリ:山口素堂資料室
素堂講座 資料 『俳諧茶話』雇言編。嘉永七年(1854) 蓮の實の抜け盡したか蓮の實か 越人 越人、素堂亭へ行に、 例の蓮池より蓮の實を取りてもてなすに、 皆食い盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、 馳走を忝くするの挨拶也。 物を残すは不敬にあたれば、 かくは興ぜし句作也といへり。いかゞ。 さにはあらざるべし。 越人が素堂の所へ行て蓮の實の馳走にあひたるにもせよ、 皆喰ひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、 馳走を忝くするの挨拶也とはおかしからず。 愚案にては蓮は花の清香なるもの也とも云て、 佛家その清香を愛して、専ら蓮花を玩びて佛座とも成し、 又浄土の池中、其花の大サ車輪の如し とも説り。 唐土には美人の顔(かんばせ)にもたとへたり。 芙蓉モ不∨及美人ノ粧といふも、其蓮花の清香の、 かたちよりはまたまさりて美人なりといふ事也。 芙蓉といふは即ち蓮花の事也。 今いふ芙蓉は木芙蓉といふもの也。 素堂は山口氏の隠遁したる也。 かの謝靈運か癖を傳へて蓮を愛せり。蓮庵と云、素堂といふ。 その素堂に對して、越人亦其向上の趣意を句作れり。 其ゆへは、此清香淨潔の蓮に實の多くみのる事こそ本意なけれ。 されば蓮の實の本意であるかといふ句作にして、 尤蓮の實情えお尋出し見附出したる向上の趣向也。 唯ひと通りの挨拶・洒落の句にてはあるまじ。朝顔や此花にして實の多き といふ句をもつて解すべし。此句、作者忘れたり。おのづから句意明か也。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月30日 08時55分05秒
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