カテゴリ:山梨の歴史資料室
甲斐国分寺(かいこくぶんじ) (「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
山梨県一宮町国分の現往、臨済宗の国分寺境内を中心に、南方境外にまでわたって遺構をとどめている。国分寺は奈良時 代(7ユO-78{年)、国々に置かれた官寺て・74ユ(天平13〕年に聖武天皇の発願により各国府の所在地に建立された。僧寺と尼寺とあり、僧寺は金光明四天王護国之寺といい、尼寺は法華滅罪之寺といわれる。 寺の規模は方約220㍍(2m、がらん(伽藍〕は南面し、付近一帯は桃園と化しているが、現在の本堂の北東に墓地があって、その中に礎石25個を数える講堂跡があり、本堂と薬師堂のあたりに2個の礎石が残ってここが金堂跡と推定され、また現在の楼門(がらんの中心線にあり、現在の国分寺の正門でもある)を出て、道路に沿う左手の一段高いところに塔ば(婆〕の跡がある。さらにがらん中心線の道路を西南に進むと中門跡、参道跡が伸びて南大門に至ったものと思われる。がらん配置はこのように大陸の百済様式を取り入れたもので、さらに講堂、金堂、中門が一直線上に並び、中門奥の右手に塔を建てるこの ような形式を東大寺式と呼んでいる。なお、塔ばは五重塔であった。出土ガワラを見ると、あぶみ(萱〕ガワラは重圏又ガワラ・重圏素べん(辮〕蓮花文ガワラ・複べん蓮花文カワラ、細べん蓮花文ガワラがあり、また宇ガワラには重弧文ガワラ、均正唐草又ガワラなどがあり、そのほか文字ガワラ、鬼ガワラ、せん(碑/なども発見されている。国分寺の周辺にはほぼ方880舳8町)にわたって条坊跡が明りょうに認められ、南条、西条、北大門などの小字名も残されている。その条坊内には東原の土塁跡(築前原〕、国分尼寺、鷺堂の国学跡、上・下矢作の軍団跡、東原の甲斐奈神社(林部神社〕など、よく国府、国分寺 の所在地らしい由緒深い数共の遺構に恵まれている。<上野晴朗氏著>
甲斐国分尼寺(かいこくぶんにじ) (「山梨百科事典」山梨日日新聞社刊)
憎寺の正北方、495メートル(4町半〕を隔てて山梨県一宮町東原の長徳寺裏にある。史跡指定は憎寺が1922(大正11)年10月であったが、尼寺はずっと遅れて1949(昭和24)年7月になってようやく指定をみた。これは当遺跡が晴明屋敷などと呼ぱれて平安時代(794-1192年)の宅跡ではないかと推定されていたことと、尼寺は春日居町の寺本廃寺ではないか、と長い間考えられていたからである。しかし1948(昭和23)年に文部省から黒板昌夫技官の来峡を見て尼寺跡と決定された。がらん(伽藍)酉己置は、長徳寺裏から一段高くなり、南北に長い長方形の台地をなし、中に約5・4舳3問)幅のみぞをもって南方台地と北方台地に区分されている。区域内には土壇状を呈し、礎石は南区に18個・北区に10個現存する。これによればがらんは長徳寺門前に門跡が渉り、土壇には南に金堂跡・北方に講堂跡かあったもようである。おのおのの建て物は9㍍(5間〕4面、建造物を囲んて東西約108㍍(60間)、南北約180㍍(100間)にわたって土塁が築かれていた。出士カワラは憎寺と同種のものである。 <上野晴朗氏著> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月30日 09時08分03秒
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