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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年09月30日
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  北原台眠撰

   『にふなひ鳥』主な入集者
   参考資料(『俳文学大辞典』・他)
  大江丸……おおえまる  

享保 七年(1722)生、~文化 二年(1805)歿。年84
 入集句  初袷うめ見しほとの寒さかな
 代表句  春の花こんな親父じゃなかったに (『追悼集』)

 本名、安井政胤、隠居後宗二。通称大和屋善右衛門。ただし日本橋瀬戸物町の江戸店での通称は嶋屋佐右衛門。
 大阪高麗橋一丁目に生まれ北革屋町に住し、飛脚問屋を営む。
 寛保元年(1741)、江戸の旧室門に入り、芥室、後に旧国と号する。宝暦六年(1756)、大阪の良能門に移り旧国(旧州)と改号、談林系の俳諧に興じた。明和三年(1766)松島に遊んで、「朝霧やあとより恋の千松島」の寥太吟に感服し入門した。
鳥酔・涼袋・蕪村・几董・暁台・闌更らと広く交わった。寛政二年(1790)古希を迎え、歌集『俳懺悔』を刊行、寛政七年以後は大伴大江丸と改号、西国行脚の小林一茶にも影響を与えた。

  道  彦……みちひこ   

宝暦 七年(1757)生、~文政 二年(1819)歿。年63
 入集句  夏まてはうくひすいとと老を啼
 代表句  花を見るこゝろは親もをしへぬぞ (『蔦本集』)

 本名、鈴木氏。村上・藤原と称した。陸奥国仙台の藩医の家に生まれ、百五十石取り
で、俳諧は白雄に師事し、天明五年(1785)刊行の『春秋稿』五篇(臺眠入集)が初見。寛政(1789~1801)末ごろには江戸に定住した。『道彦七部集』など多数の俳諧編書がある。
 (註…文政二年(1819)保教『かれあやめ』に入集)

  素  檗……そばく   

宝暦 八年(1758)生、~文政 四年(1821)歿。年64
 入集句  春はやくふしのしら雲出にけり
 代表句  ぽつりんと年はくれけり諏訪の海 (『素檗句集』)

 本名、藤森太郎右衛門由永。別号、福庵・森之屋。信濃国上諏訪桑原町の油問屋。俳諧
を父の寥阿、同地の藤森文輔、後に尾張国名古屋の暁台に学ぶ。暁台没後は士朗に従う。
「諏訪の俳関」と称され、行脚俳人を好遇、指導した。俳画をよくし、特に万歳の絵を得意とした。
 同郷の先輩曾良を追慕してゆかりの(『奥の細道』芭蕉に同行)陸奥国松島に曾良句碑を建立、記念集『雪まるげ』を刊行した。晩年は俳諧で家産を傾け不遇であったという。
 編書・著書には『草枕』・『田舟集』・『信濃札』・『長月集』・『鶯宿梅』、若人編
の『素檗句集』がある。
《筆註》
 現在までの調査では、素檗著編書に臺眠の入集は認められないが、同郷の塚原甫秋の句は二句認められる。
 また『にふなひ鳥』の序文を著した可都里は素檗の『続雪まるげ』の序文を著してい
る。
 文政元年(1818)には、山口素堂立句の半歌仙も見える。
  (註…文政二年(1819)保教『かれあやめ』に入集)

  成  美……せいび    

寛延 二年(1749)生、~文化十三年(1816)歿。年68
 入集句  后の月雁大声に鳴夜かな
 代表句  ふはとぬぐ羽織も月の光かな (『成美家集』)
  魚食うて口なまぐさし昼の雪 (『成美家集』)

 本名、夏目包嘉。江戸蔵前の札差。通称、五筒屋八郎右衛門。(五代目)
 父は俳号を一雨・または宗成といい、成美も早くから俳諧に親しみ、宝暦十三年(1763)十五歳の折、『猪武者』に入集。弱冠十六歳で豪商五筒屋の世帯を任されるが、その二年後に痛風を患い、以来右足の自由を失う。
 天明二年(1782)弟に家督を譲るが、弟が急逝して再び家業を継いだ。京都の重厚
・几董を迎え、当時彼は蕪村風を志向。また暁台・寥太・蝶夢らと交わり、芭蕉復古に寄与した。特に信濃の小林一茶を物心両面に渡り支えた。
 晩年は江戸本所多田の森近くに隠棲して、悠悠自適な生活を送った。

 《筆註》
 また山口素堂等の貴重な史料を載せる『随斎諧話』は有名であり、研究家でもあった。
 素堂関係…『松の奥』序文。『酒折宮奉納和漢篇』序文と漢詩。芭蕉庵再建勧化文。

  月  居……げっきょ

宝暦 六年(1756)生、~文政七年(1824)歿。年69
 入集句   東山花なきところしつかなり

 本名、江森氏。国学を荒木田久老・村田春門に学ぶ。安永四年(1775)に初めて蕪
村の句会に出座。忽ち頭角を現わすが、天明初年頃(1781~89)言動を咎められて
蕪村門から忌避されるが、行脚などにより地歩を固めていく。寛政二年(1790)に二条家俳諧に暁台と共に宗匠として招かれる。
 寛政から文政にかけて上方で一大勢力を築く。

  巣  兆……そうちょう 

宝暦十一年(1761)生、~文化十一年(1814)歿。年54
 入集句  冬こもり見よ楢の実の五器一具
 代表句  菜の花や染めてみたいは富士の山    

 本名、建部英親。白雄門。書家山本龍斎の息として江戸日本橋石町に生まれる。寛政元年(1789)千住掃部宿の藤沢家に養子に入り、藤沢平右衛門と称す。関屋巣兆と号した。書画に秀でて、成美・道彦・士朗・大江丸などとも親交を結ぶ。旅行好きで信濃善光寺や更級などへ旅した。編著や句集も多い。
 巣兆編『さき屋でう』には「俳諧行脚略歴」として、
……甲斐 三月七日八日比より……(享和二年/1802)

  蕉  雨……しょうう  

安永 四年(1775)生、~文政十一年(1829)歿。年55
 入集句   冬の日の足もとに出る山家かな
 代表句   しづかさに雉子の尾を引く戸口哉

 本名、桜井光喜。信濃国飯田の豪商。士朗門。俳諧に熱中して家産を傾け、文化十一年(1814)江戸に移住、御家人となる。 編著も多い。
   (註…文政二年(1819)保教『かれあやめ』に入集)

  玉  屑……ぎょくせつ

宝暦 二年(1752)生、~文政 九年(1826)歿。年75
 入集句   山川や瀬に音たて々あきそ竹
 代表句   このおくに住人あらん谷の花 (『秋の錦』)  

 僧名、観応、別号、無夜庵。淡路・播磨・筑紫などの主要な寺の住職を歴任し、青蘿の没後栗の本二世となり、二条家俳諧の宗匠も努めた。編著も多い。

  卓  池……たくち

明和 五年(1768)生、~弘化 三年(1846)歿。年79
 入集句   家五尺あとへひかばや梅の花
 代表句   春の雪ゆきの遠山見えて降る (『青々処句集』)

 本名、鶴田光貞。通称、与三右衛門。三河国岡崎で紺屋を営む。天明四年(1784)暁台門にはいり、寛政四年(1792)暁台没後は士朗門。寛政十年(1798)、処女撰集『橋日記』を刊行。士朗に随行した『鶴芝』の旅。五十七歳で家督を譲る。天保四老人の一人。
(註…文政二年(1819)保教『かれあやめ』に入集)

  春  蟻……しゅんぎ

生年不詳   ~文化 十年(1813)歿。年、?。
 入集句   芦の穂にさすと見るまに入日かな
 代表句   応々と母にそむかずすまひとり (『粟蒔集』) 

 本名、井上十治郎。狂名、問屋酒船。武蔵国八王子生まれで明和末年に江戸の南新堀に移住、酒問屋を営む。
 五色墨や江戸座などの撰集に入集。大田南畝らの戯作者とも交わる。

  椿  堂……ちんどう

宝暦 八年(1758)生、~文政 八年(1825)歿。年68
 入集句   山寺やすゝきの月も一さかり
 代表句   春雨もつもるものかや浅茅原 (『春事集』)  

 本名、徳田長兵衛時生。伊勢国古市の人。士朗門。文化元年(1804)蕉雨らと共に『枇杷園句集』を編む。
(註…文政二年(1819)保教『かれあやめ』に入集)

  葛  三……かつさん
宝暦十二年(1762)生、~文政 元年(1818)歿。年57

 入集句   暮るとて馬さへかさす柿黄葉
 代表句   月夜よし行く行くあてはなりけり (『葛三句集』)
 本名、倉田久右衛門覃。信濃国松代町の商家に生まれ、少、青年時代に松代藩士になったという。寛政初年に江戸白雄の門人となる。 寛政六年(1794)に長翠のあとを受けて春秋庵を継承する。 関東から信濃のかけて一勢力を成した。

  一  草……いっそう

享保十七年(1732)生、~文政 二年(1819)歿。年88
 入集句   名月はすすきのかけをくもりかな
 代表句   木の葉炊く煙も不二の空に消えて (辞世)

 陸奥国南部の人。摂津国兵庫に住む。撰集『潮来集』・『須磨明石』ほか。

  猿  佐……えんさ

享保 九年(1724)生、~享和 元年(1801)歿。年78
 入集句   なかくに暮れは啼すかんこ鳥
 代表句   花結ぶ浮き藻の中の星ひとつ (短冊)

 本名、戸谷吉九郎寿郷。信濃国善光寺の旅籠屋。俳諧ははじめに叔父の猿山に手解きを受け、宝暦末ごろ、涼袋に師事し熱心な片歌論者となった。編著も数書ある。

  五  明……ごめい

寛延 二年(1749)生、~文政 三年(1820)歿。年72
 入集句   草山や子にあらはるゝ夏のしか

 本名、日高長右衛門盛都。日向国城ケ崎の商家。酒造業。蝶夢門。
 編著、注解書あり。

  長  翠……ちょうすい

寛延 三年(1750)生、~文化 十年(1813)歿。年64
 入集句   あけほのもあきの柳となりにけり
 代表句   雁啼くや明星しづむ雪の原 (『長翠句集』)

 本名、常世田氏。下総国匝瑳郡木戸の人といわれる。天明初年頃(1781~89)から白雄に師事し、春秋庵の執筆となる。
 天明六年ごろ、破門同様となり二年ほど信濃国戸倉に滞在する。寛政元年(1789)相模国七木で独立、同三年に白雄の春秋庵を継承するが葛三に譲り、武蔵国本庄に移住。
 さらに享和二年(1802)出羽国谷地に移住、酒田港で没した。

  冥  々……めいめい
寛保 元年(1741)生、~文政 七年(1824)歿。年84
 入集句   行秋も一夜となりぬしのふ草
 代表句   さいかしの暗き夜秋のしぐれかな (『冥々句集』)
 本名、塩田為春。陸奥国本宮の養蚕業。天明(1781~89)中ごろ、白雄に師事する。

  蒼  □……そうゆう

宝暦十一年(1761)生、~天保十三年(1842)歿。年82
 入集句   こからしの廿日もはやし峯の月
 代表句   あるはずの朝月見えず梅のはな (『夏かはず』)

 本名、成田利定。通称、久左衛門。闌更門。加賀国藩士成田勘左衛門の子として加賀国金沢袋町に生まれる。寛政二年(1790)ごろ闌更門に入り、寛政十年に闌更が没すると、芭蕉堂を引き継ぎ『花供養』の編纂をも引き継ぐが闌更婦人と不和が生じたが、晩年闌更の俳風を受け継ぎ、後世天保三老人と称される。
 (註…文政二年(1819)保教『かれあやめ』に入集)

  雲  帯……うんたい   

寛保 二年(1742)生、~文政 七年(1824)歿。年83
 入集句   うくひすの啼恋す思ひあはれ也
 代表句   こがらしや広野の末のみじか山 (『俳諧百歌仙』)

 本名、成沢寛致。通称七郎左衛門他。信濃国上田の呉服問屋。白雄門の古参。

  少  汝……しょうじょ 

宝暦 九年(1759)生、~文政 二年(1819)歿。年61
 入集句  塩のうすむたつねん雪のくれ
 代表句   彼尾花手折も人のなさけ哉 (『袂草』)

 本名、了栄。尾張国名古屋本重町常端寺の七世。国学を本居宣長に学び、多種多芸。最初、暁台門。暁台没後は士朗門。 編著、『印略譜』。

  方  明……ほうめい  

生没年不詳。
 入集句   春寒しおなし処に啼雲雀

 本名、阮氏。三河国田原藩士。士朗門。士朗が三河国岡崎に旅した折りの『秋風紀行』を五雄と共編。文化十三年(1816)『風の筋』への入集が最後と考えられる。

  蘿  城……らじょう  

享保十九年(1734)生、~文化 四年(1807)歿。年74
 入集句   菊の花寝ころひかゝる長良山
 代表句   荒海の上にも秋の夕辺かな (『夜のはしら』) 
 本名、鳳恵忠階。美濃国岐阜生まれ。尾張国名古屋駿河町の光蓮寺二十世。士朗門。

  春  鴻……しゅんこう 

享保十八年(1733)生、~享和 三年(1803)歿。年71
 入集句   行春の葱はら雀鳴もせよ
 代表句   馬士(うまかい)もしのぶ恋すやはな芒 (『春鴻句集』)

 本名、美濃口源吾次。相模国下飯田杉木の人。明和二年(1765)夏、鎌倉を訪れた烏酔に入門。安永九年(1780)同門白雄が春秋庵を開くと加担し、天明期に師烏翠露柱庵号を嗣号している。白雄の俳風を忠実に学び、没後「白雄八弟子」に数えられる。

  長  斎……ちょうさい

宝暦 七年(1757)生、~文政 七年(1824)歿。年68
 入集句 おのれはよし野に旅たつ日、
江戸の春蛾は松島行とて、
告来しける文のかへしに
   花と松と旅寝はひとつ心哉

 本名、七五三(しめ)三作右衛門公済。大阪江戸掘五丁目に住み、後に大川町に移り船宿を業とする。俳諧は大魯、漢詩は篠崎三島、国学は新木田久老に学ぶ。文政四年には秋田に引杖した。

  季  言……きげん

寛延 元年(1748)生、~文化 七年(1810)歿。年63
 入集句   顔入るほとの木の間よほとゝぎす
 代表句   ゆく春や垣の外に見るひとへ山 (『黒禰宜』) 
 本名、岩下平兵衛親利。信濃国善光寺大門町の薬種商。士朗門。兄の一周忌に『かいくつ』その他の著が有る。

  伯  先……はくせん

宝暦 六年(1756)生、~文政 三年(1820)歿。年65
 入集句   秋のこゝろあき風に吹こされたり 
 代表句   三尺の雪のうへ照る月夜哉 (句碑)

 本名、中村元茂。信濃国西伊那部村の医家に生まれ、十六歳の時に江戸に出て、儒学・医学を学び、上伊那郡に開業した。俳諧は最初美濃派であったが、天明四年(1784)夏、来遊した白雄に入門。編著あり。

  車  大……しゃだい
生没年不詳。寛政~文化(1789~1818)頃。
 入集句   うす霧となり行松のゆうへかな

 本名、不詳。加賀国の人。寛政九年(1797)暮柳舎三世を継承。
 編著『ゆめのあと』・『あめのはし』・『としのうち』・『まじりざき』・『道のともし』・『四季禽獣生自物』・『車大開庵賀』他。

  闌  更……らんこう  
享保十一年(1726)生、~寛政 十年(1798)歿。年73
 入集句   (既に没しているが、闌更が文輔宛書簡に「臺眠」の名が見える)
 代表句 芭蕉堂にて
   時なれや花の中なる翁堂
甲斐しら根
   百里來し甲斐有夏のしら根哉
さし出の磯
   黄昏や水にさし出のうす紅葉
酒折の宮もほどあらざれば
   火ともしの神もめづらん月今宵

 本名、高桑正保(忠保)。俗称。釣瓶屋長治郎。別号、半化坊。庵号、芭蕉堂。加賀国金沢の人。金沢森下町の商家釣瓶屋に生まれる。三十五歳頃から俳諧に対して積極的になると同時に、蕉風復興を志し、宝暦十三年(1763)最初の編著『花の故事』を出版。明和五年(1768)四十三歳ごろ、金沢浅野川の辺に二夜庵を結んだ。明和七年(1770)四十五歳のはる、江戸に旅立ち庵を結ぶ。天明六年(1786)以後洛東に南無庵を営み、許六作の芭蕉像を安置して芭蕉堂と称した。天明六年以降、毎年芭蕉追悼の会を催して『花供養』を編集する。
 甲斐俳人の入集は判明しないが、臺眠は寛政五年、七年にそれぞれ一句入集している。(前掲)

  白  雄……しらお

元文 三年(1738)生、~寛政 三年(1791)歿。年54
 入集句   なし。(既、死去)

 白雄、天明五年の『春秋稿』に、臺眠の句が入集)
 代表句   ゆく秋の草にかくるゝ流れ哉
甲斐・信濃の國さかひを
過るとて
   白樫やすす竹原はわかばせし
武蔵・甲斐が根行脚せし
ころ
   山ひとへ二夜の月や甲斐武蔵

 本名、加舎吉春。信濃国上田藩士加舎吉平の次男として、江戸深川扇橋同藩邸で生まれる。五歳で母を十六歳で父を失う。明和二年(1765)に下総国銚子流寓中に江戸の烏明に入門、業俳をを目指した。烏明の師烏酔にも師事し、明和四年(1767)、かって烏酔が遊説した信濃国に赴き、多くの門人を得て、同六年(1679)、信濃国姥捨山長楽寺に芭蕉句碑を建立、翌七年(1680)記念集『おもかげ集』を刊行。信濃俳壇を手中い収めかけたが、同じ目的で北・東信濃に闌更が現れて、白雄と激しい論争を繰り広げた。その後京都で蝶夢らと風好、伊勢松島、大和吉野、江戸、奥羽、信濃国松代と遍歴しながら代表作等の原案を得た。安永三年(1774)江戸に帰り独立するが、次第に烏明との距離ができ、安永五年破門され、以後江戸を離れ関東・伊勢・大阪を巡って勢力基盤を固めた。安永九年(1776)に江戸に戻り、春秋庵を開設、年刊撰集『春秋稿』の続刊、江戸を中心に三千人の門人を擁し、その門から長翠・巣兆・道彦らを育てる。寛政二年(1790)五年振りに信濃行脚、六月江戸春秋庵で没した。

  可都里……かつ(と)り

寛保 三年(1743)生、~文化十四年(1817)歿。年75
 入集句  刑部卿にかはりて
ませのうちなるしらきくもうつろふ見る
こそあはれなれ、われらかよひて
みし人もかくしつつこそかれにし
か忘られぬ夜を重るそきりくす
 代表句   深山木に月はさすなり花のあと (『葛里句集』)
   高根はれて雲行月のひかり哉
   元日やおくれしと思ふ事はかり

 本名、五味宗蔵・益雄。甲斐国の豪商。闌更門、文化~文政期の甲斐俳壇の雄。臺眠も師事する。
 編著には、『青柳集』・『農おとこ』・『月見集』・『日のとし春興』・『ななし鳥』
・『諸家発句集』など。遺吟集『葛里句集』・追善集『花の跡』(蟹守編)闌更門。

  蟹  守……かにもり

宝暦十二年(1762)生、~天保 六年(1835)歿。年74
 入集句 井沼川にあそふ
   凉しさは何となけれど萩すゝき
 代表句   かげ少しもちて小春の立木かな
   柳とも何ともいはて夏木立

 本名、五味五郎右衛門。甲斐国藤田村の人。可都里の甥。編著、『諸家文通発句集』・『新編俳諧文集』・『俳諧歴木集』・『俳諧続歴木集』。可都里追善集『花の跡』。

  満  々……まんまん

安永 四年(1775)生、~文政十三年(1830)歿。年56
 入集句   咲のこりくけり楳のはな
 代表句   船引や背中並へて朝霞
   鶯の聲ふりこほす櫻哉

 本名、安田多勝、または早川氏。甲斐国の人。石牙の第二子。医師。闌更・可都里門。
編著には、石牙追善集『霜夜ほとけ』・『婦留しも』など。

《筆註》 石牙については、清水昭三先生の『俳人・石牙井月の客死』がある。

  嵐  外……らんがい

明和 七年(1770)生、~弘化 二年(1845)歿。年76
 入集句  今の間に夜の古ひけりきりくす
 代表句  霜の夜や甲斐に居なじむ膝頭 (『嵐外発句集』) 

 本名、辻利三郎。初号、五六。別号六庵。越前国敦賀の人。もと呉服商。一鼠の甥。闌
更門、後に可都里門。甲斐国落合村と甲府柳町に住む。甲斐の山八先生と慕れ、嵐外十哲を擁し、俳名を高めた。 嵐外の生まれた時には臺眠は四十歳である。

 『峡中俳家列伝』には、
 「嵐外に就いて俳諧を學び、號を臺眠と稱した。師弟の情けが最も濃やかであったから
嵐外は閑暇があれば常に臺眠の下に遊び行って居た。云々」とあるが、これは大きな間違いであることは明らかである。逆に嵐外は生活面も含め、当時広範囲に俳諧活動していた臺眠に頼っていたと思われる。
 墓は若松町信立寺の葬った(『峡中俳家列伝』)


  甫  秋……ほしゅう(生没年不詳)
 臺眠と同時代から文化文政時代まで活動が認められる。
 本名、塚原彦平。号教庵。その子息、幾秋(明治十七年歿。年79歳)。
 その子息、雲鳳(明治三十年歿。年70歳。
 その子息、雲鳳(長坂上条穂見諏訪十五所神社の扁額『俳諧相撲発句戦』(嘉永七年/ 1854)の判者が塚原雲鳳である。
巻頭、臺 ・盛徳・可都里・花仏・嵐外・甫秋・柳江の連歌の連衆。
 入集句 かれ草に風のなき日となりにけり 
 代表句  琵琶とやら袋の侭に引かたげ

 同一の句集に於ては臺眠の句と並列して掲載してある。
 (その他は別掲)

文政二年(1819)蕪庵三世保教守彦(一世-可都里・二世蟹守)
の『かれあやめ』にも入集。
  
 ○ 塚原幾秋、『大桜集』(明治十五年/1882)刊。

 ○ その他 『にふなひ鳥』入集、地域俳人…万子彦・花仏・兄國(長坂町中島)

 同時代に活動した、台ケ原の「竹山」や「黒沢」は残念ながら入集していないが、この撰集にかける臺眠の心意気がひたひたと感じられる。彼の活動を支え、辻嵐外など放蕩俳人を世話したことなど裕福な生活が成せる業であった。
 臺眠の『にふなひ鳥』に参加した俳人のうち『俳文学大辞典』に掲載されている人々を紹介したが、当時の多くの著名俳人たちは、小尾守彦の『かれあやめ』など、多くの俳諧撰集に見られる。
 臺眠は恐らくこの撰集をもって俳諧活動から遠ざかることになったのではないかと推察できる。地方のたった一冊の撰集にも、当時の俳諧世界の一端を読み取ることができる。
臺眠については今後も探究して、彼の足跡への手向けとしたい。

  地域俳人(臺眠とは直接関係ない)

 河西素柳    生、文化十二年(1815)
   歿、嘉永 二年(1849)年34歳。

 代表句   曙の動き初めや梅の花
嵐外恩師の五十七日に
   夏来ても何をか露の忍ふ草

 本名、河西九郎須。北巨摩郡鳳来村舊教来石(現白州町下教来石)といふ処に、姓を河西と名乗る武田浪士がいた。代々の主人悉く皆実名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、深川に居を移して材木商を営み、江戸の長者番付に載録された。その後商売も傾き、故郷に帰り余生を送った。下教来石村は臺眠と共に活躍した塚原甫秋を生んだ集落である。

 「甲斐天保騒動」 天保七年(1836)八月。

 (略)教来石に押し行、当初に河西六郎兵衛といふもの、江戸深川木場に出店ありて、材木問屋にて数年相続、甲州より往古仕入銀を遣わし置けるゆえに、今もって江戸より小遣ひ銀おくりくれば、それにて家内はなはだ富家に暮しぶげんの数に入りたる富家なり、江戸にても天満屋六郎兵衛といひ、当国にては教来石村の九郎九郎と謂る。なにゆえくろふぞと謂る。云々(『甲飄談』)

  『峡中俳家列傳』

 北巨摩郡鳳来村舊教来石と云ふ處に、姓を河西と名乗る武田浪士があった。代の主人悉く皆實名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、江戸の深川に居を移して材木商を営み、牙籌を把って巨万の富を致し、其の時代に於て長者番付に載録せられたったが、峡中の人で江戸の長者番付けに載せられたのは、抑も此人が矯矢である。されど有為転変の世の中、盛衰常無く、栄枯また測られず、晩境におよんでから、聊か商略を誤ったので、住み馴れし、江戸の住居も物憂くなり、遂に故郷に帰って静かに余生を送ったとの事であるが、此の人の嫡孫九郎須氏、財實余りありて家計豊かなりしがまゝに、幼少の
頃より和漢の学を修め、また茶道・活花・謡曲等の風流の余技を学んで、何れも其の奥秘を究め、殊に俳諧に於ては、嵐外の洒落を慕って随遊し、四方の風土を交遊する事頗る盛なりしが、惜ひ哉、天此の人に歳を假さず、嘉永二年(1849)八月僅に三十四歳を一期として遠逝せられた。遺骸は信州諏訪郡蔦木駅の信福寺へ葬った。
  暁の動き初めや梅の花
   嵐外恩師の五十七日に
  夏来ても何をか露の忍ふ草
  居るほどの窪たみ持て冬の月
  鶯のうとまるゝ日はなかりけり
  葉の影をすみて日の照る清水哉
  露の玉こほるゝまてに仕遂けり
 等の諸吟が世間には傳はる處の咏である。

   小尾守彦   
 蕪庵三世(一世-可都里・二世蟹守)高根五丁田小尾兵之進。号、守彦・保教。著『かれあやめ』 弘化元年(1844)年70余歳。明和七年(1770)頃の生まれか。

  『峡中俳家列傳』
 北巨摩郡甲村(現高根町)五町田と云ふ處の長百姓に、小尾兵之進と云ふ人があった。
蕪庵二世の蟹守に就いて俳諧を学び、悟入する處深く、造詣亦頗る深く、同門下生随一の逸材であったから遂に師の衣鉢を継いで三世蕪庵を襲うた。此の人また保教と号して能筆の誉れあり、筆を揮うて紙に落とせば雲烟の如く、頗る世人の珍重する處である、『人道俗説辨義』二冊を著はし、又『土鳩集』を出す。
  名月の名残はかりとなる夜哉

 と云ふ辞世の句を詠みすてゝ、弘化元年九月四日行年七十余歳で徐かに永眠せられた。
門人共、師翁の徳を後昆に傳へんが為に、一代の詠草を蒐めて、『旭露集』と云ふのを其の十七回忌の追善集に出した。
  春の雪少しの物のうへに降る
  暖か常となりけり山の梅
  あるうへにくあり田螺哉
  時鳥鳴て皆よき木立かな
  芥子散るや蝶の力もやゝ見ゆる
  伸直る臥猪のあとや青薄
  秋立や夜の次第のしれながら
  置扇問はれて譯もなかりけり
  新蕎麦や味につれたる里の寂

 (この項は継続します)






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最終更新日  2021年09月30日 22時55分27秒
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