カテゴリ:日本の神社仏閣
日本の名刹 中尊寺(ちゅうそんじ)
『別冊 歴史読本』「日本仏教総覧」事典シリーズ 1955年発行 新人物往来社 一部加筆 山梨県歴史文学館
<中尊寺> ① 開祖 慈覚大師。 ② 現貫首 千田孝信。 ③ 宗派・寺格 天台宗・東北大本山。 ④ 本尊 阿弥陀如来。 ⑤ 沿革嘉祥三年(八五〇) 天台宗第三の座主、慈覚大師円仁によって開かれ弘台寿院と称したが、ぞののち清和天皇より中尊寺の号を賜ったと伝えられている。 またこの山が衣の関路にあたるところから、山号を関山と称している。 老杉に覆われた参道をのぽりきると、小さく開けた広場にいたり、そこに国宝の金色堂がある。 平安時代の末期、みちのく平泉の黄金文化の華を咲かせた奥州藤原氏三代。 その初代清衡公が自ら前九年・後三年の役という長い戦乱を体験し、荒れ果てたこの地方の安寧と国家の安泰を浙念して仏国土の建設にとりかかった。その最初に取り組んだがこの中尊寺の造営であった。 南は今の福島県白河関から、北は陸奥湾外ケ浜までの中間に位置しているこの関山に、堂塔四十余宇、僧坊三百を数える壮大な寺院を建立した。 寺院中央に釈迦・多宝像二体を左右に安置し、その間に道を開いて旅人が行き交った。二階大堂、三重の塔、経蔵、金色堂他華麗な堂塔が建ち並んでいたが、建武年間の野火により悉く灰塵に帰した。
⑥見どころ
金色堂は平安末期、平泉文化の唯一の建築遺構である。三間四面の小さなお堂ではあるが、青森ひぱ(桧葉)を用い屋根は木瓦葺きとし、名前のとおり堂の内外四壁厚く漆を塗り金箔を押し、黄金燦然と輝く阿弥陀堂である。天治元年(一一二四)の棟木銘には、初代清衡公・北方平氏他の名前が記されている。 堂内に三壇を構え、それぞれの須弥壇、あるいぼ内陣巻柱、長押に至るまで沃懸 地螺鋼、透かし彫り金具、蒔絵など、当時の一級の技術を集めた工芸美術の粋を見せている。 三壇はそれぞれ清衡壇・基衡壇・秀衡壇といわれ、それぞれに今なおど遺体が安置されている。 江戸時代、松尾芭蕉がこの金色堂に詣で。
五月雨の 降り残してや 光堂 と、「奥の細道」に残した。 中尊寺経は藤原氏三代によって発願書写されたお経で、紺紙金銀字交書一切経・紺紙金字一切経・紺紙金字法華経とがある。 紺紙金銀字交書一切経は初代清衡公及び北方平氏の発願になるもので、八ヵ年を費やし五千三百余巻が書写された。一行ごとに金字行、銀字行と交互に書き分けたもので、一切経としては他に例を見ない。 しかし近世初頭に持ち出された経緯があり、今日中尊寺には一五巻を伝えている。 主な寺宝は、国宝として、 金色堂、 孔雀文磐、 金銅華鬘、 金銅幡頭、 蝋鋼八角須弥壇、 螺鋼平塵案、 螺鋼平塵燈台、 紺紙金字一切経、 他。
重要文化財として、 経蔵、 金色堂覆堂、 釈尊院五輪塔、 中尊寺落慶供養願文、 最勝王経金字宝塔曼荼羅、 金銀装舎利壇、 金銅釈迦如来御正体、 一字金輪仏座像、 騎獅文殊菩薩像、他。 また、春の藤原祭(五月一五日)の行列はみごとである。 (破石座元)
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最終更新日
2021年10月05日 06時55分39秒
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