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2021年10月08日
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カテゴリ:著名人紹介

 渋沢栄一子爵著白河楽翁公(松平定信)の遺蹟に就いて 子爵 渋沢栄一著

 

 白河楽翁公のことについて多くを知って居らぬが、現在私の世話をして居る東京市の養育院は楽翁公の御蔭で出来たと申しても宜い。私が養育院の世話を初めてから丁度五十年になる。

 其の起りは明治三年であるけれども、私が養育院に関係したのは明治七年からである。東京市の発展と共に益々總べてのことが繁昌して行くのであるから貧乏人は出ないやうに思はれるが、是は孰れの國でも同様であって、倫敦は富んだ國の首府であるから貧乏人がないやうに思はれるが、矢張り貧乏人の多いことは申上げる迄もない。即ち東京市が繁昌を増す程貧民が従って増してて来る。是等の貧民に対しては相当の社会事業がなければならぬので、市としても今日の養育院の他に種々の総合事業がある。今日の養育院は従来の関係から棄児、迷児、遺児、普通の病人又は行施病者或は不具者不良少年斯う云ふ種類に区別され場所を分けて収容して居るが、今は二千二百人位居ります。

 此の養育院の起こりは如何なる原因から起りたかと云ふと、明治五年に……私もよく記憶して居らぬが、イスパニヤか或は露西亜(ロシア)であったか、其の國の皇室関係の人が来遊されたことがある。其の時に乞食が市中を徘徊して居ったのであるが、東京市の政治家連中が見苦しいから、あの乞食を引き集めて散在せぬやうに、お客さんの目にとまらぬやうにした方が好からうと云ふことであった。併しながらそれを如何にすれば始末することが出来るかと云ふことになると、普通の人はさう云ふことは厭であります。

 其の常時穢多(えた)と非人と云ふ差別があって、穢多の頭に弾左衡門、非人の頭に善七と云ふ者があった。其の車善七に委託して、三百人ばかりの乞食を散らさないようにした、ところがそれに食はせる費用が要る、其の費聊は普通の東京市費から出す譚には往かぬと云ふことで、それで何かあるかと云ふと一の共有基金があつた。是は何うして貯へて居つたかといふと、白河楽翁公が寛政年度に一般の国政に興って江戸の町制にに對しても多大の注意を與え大いに節約を奨励し、町内の襲用に対しても大いに倹約を奨励した。

 然し只倹約ばかりではいかぬので、寛政三年に七分積立金と云ふことを初めた、それは例へば日本橋の何町可かを一纏めとして、其の→匯劃内で例へば一年一萬圓の金が出来たならば、其の中の一割千圓  は働いた者の給料としてやる、二割は割戻しを して七割を積立てる、斯う云ふことを始めたのであります。其の金が段々と積って歿って居った、其の共有金砂今の貧民救済の費用に充てた のであります。この金は単り養育院ばかりでなく子今の商科大學も此金で出来ました。叉今の瓦斯會社も矢張り此の金を使って居る。是は甚だ不均衡なやうであるけれども、……詳細はよく存じて居りませぬが、明治初年頃由利公正と云う人が東京府知事をしたことがある、此人が海・外を旅行した時に瓦斯を見て、東京は火事の多い所で困る、瓦斯を付けやうと云ふので瓦斯の機械を買つた。けれども其の金の出所がない焉め今の共有金で彿った。斯う云ふものに に段々用ひられたが、此金は総計で百五六拾萬圓もあつた。今ならばニ千万圓位の価値はありませう。是は年々積立てゝ五十年の歳月を経て居りますから段々多くなったのであります。是は楽翁公の倹約が御維新の後に種々の方面に働きを為したといふ譯であります。 

 

 楽翁公は八代将軍徳川吉宗と云ふ人の孫に當ります。八代の吉宗は徳川家に於ても先づ有名な國を治める才能のあつた人で、賢君謂つて賞讃される人であります、此の人が段々廃れるを起し邁ちを直すと云ふことをやつて種々の事績があります。

  其の息子さんは田安と云ふ別家を作った、田安・一橋・清水と云ふのは御三家であります、慶喜公は田安家の方で今の達孝伯は養子であります。此の田安家々作った宗宗と云ふ人の息子が楽翁公であります。其の時の九代将軍家治は。田沼主殿頭に溺れて、田沼に政治を一任にしてやつたから非常な暴政をやつた、此の田沼は楽翁公の叔父さんに當る人であります。楽翁公は子供としても優れた入でありますから徳川の姓を継がせるのは邪魔だと云ふ考へで養子にやられた。

  楽翁公司宇下人言と云ふ本にありますが養子にやられたのは十凶歳位の時であります、其の時には別に何もさう云ふことは、よく解らなかったのでありますが、後から察すればさう云ふ風であります。歴史に依って観ますと………歴史と申してもも立派な楽翁公のに傳記は出来て居りませねから明確なる歴史とは申されませぬが、種々なる記録に依りて察しますると六歳位で餘読書力があり才能も優れて居って、歌もよみ、詩も作つたやうであります。

其の時の詩は覚て居りませぬが歌は、

  あさか山行く手の道は遠ふけれど

        ふり捨てがたき花の木のもと

是は仝く作意のやうであります。最も楽翁公は歌に就ては優れたものが多くあります、

  心あてに見し夕かほの花ちりて 

      尋ねそわふるたそかれの宿

此の歌万どは名歌として歌人も賞謙する歌であります、叉相當漢文も出来たやうであります。斯様に文才も汎くありますけれども、洵に此人の優れた所は道徳心の強いことで、家政も洵によく治って居る、奥さんに御しても情けがあったやうで、妾なども奥さんの勣めに依って一人置た、子供がないから置てくれと云ふので間違った心ではないやうであります。斯う云ふことになりますと吾々後人は洵に恐縮することが多いのでありますが、妾を一人置ても家政が飢れることなく非常によく治って居る。而して皇室に対しても……その當時は最も徳川家の盛んな頃で、帝室崇敬の念が餘りなかった時であります。

禁裡の焼けたに就て其の修繕をするにしても其の常時の御老中の多くは京都に對して只節約ばかり言って、悪く言へば軽んすると云ふ位であるが、楽翁公は大屠力を入れて禁裡の修繕に盡され天子も大層お喜びになつたと云ふことの事實があります。其の時の将軍は十一代の文恭院家斉と云ふ人であって、此時に尊号問題が一ツ橋家から出た。此家斉と云ふ人は丁度従弟同士であって、十五歳の時将軍になられた、楽翁公が老中になりつたのは天明七年八月であって丁度三十歳の時であります。将軍が十五歳で幼少でありますから政務に関係しない、田沼の暴政に三家が段々喧しくなった時で、楽翁公が桑名の城主として老中になる家柄でありますから選ばれて、老中になられて寛政の政と謂われて居るが七年間勤められたのであります。然し家斉と云ふ人が段々年を重ねるに従って、従弟同士であるが一方は将軍、一方は老中であって、殊に家脊と云ふ人は才気煥發のやうな人であって、従って天子を蔑親すると云ふやうな入らしいのであります。それで沼津の藩主水野出羽守と云ふ人を用ひたが、此人は尊王でなく其の反対で天子を押込めると云ふ風な人で、楽翁公と意見が一致しない、段々将軍の勢力が盛になって、悪く謂へば暴威が進んで行った、人が十一代の家斉を大御所と申しますが、此の大御所と云ふのは豪奢な殿様と誤られる位であって、何んでも楽翁公の意思が徹底しない。段々十五歳から七年経てば二十二歳になりますから其の時迄は輔佐の地位にあったけれども其の後は輔佐もしないでただ閑散に世を送った。……然し只閑散でなく種々心配しながら世を送ったやうであります。殊に幕府のことに関して心配された。丁度其の時は光格天皇が天子の御位につかれて、其の父親に當られる方を太上天皇にせよと云ふ話があった。其の當時一ツ橋から出た今の一代将軍家斉公が自分の父親を大御所にめると云ふ考へであったが、楽翁公は承知しなかつた。丁度其の時であるから太上天皐の尊號を奉らうと云ふ家斉に阿附する所の老中の考へであったが、楽翁公はそれは名分に背いた方法であって、昔からの貴君はさう云ふことをしない、それは宜しくないと判断して、途々楽翁公の考へて尊号を奉らなかった。京都の方にも御 相談になって雅號としては宜しくないと云ふことを關東(頭)から申上げた、それが雅読美談の起る原因で、丁度芝居などでは中山大納言に楽翁公がヘコマされて居るやうでありますが、そうではありませぬ。楽翁公の心配された尊號美談と云ふ書面が今も松平家にありますが、之を見れば涙がこぼれるやうであります。非常に御心配になった、更に楽翁公の苦心になったのは、今の山陽の外史であります。正統の史でないから外史と云ふのであるが、是は山陽が偶然書いたものでない。頼春水が歴史を十分に研究して書かんとしたが、藩主に仕へて居った時に、法度を受けるといかぬから正すが宜いと止められて、それで春水は辞めた。所が山陽が憤慨して何うしても書いて見やうと云ふ考へから遂々書いた。今見ても判りますが丁度保元から起って今お話した、大御所の邊迄で筆を搦めて居る。丁度五百何十年位ありませうが、洵に皇居の衰へて武家の政治に移って武家の支配となり徳川の最も盛な所で筆を擱めて居る。然も家斉と云ふ人が太政大臣になった。他の許軍は左大臣とか右大臣で済んで居ったが、家斉だけは大變京都の御覚え芽出度くて太政大臣になった、十二代将軍の家慶は内大臣になった、それに就てお禮に井伊直亮が正使となり、楽翁公の御子の定永と云ふ人が副使で京都に行きました。其の時楽翁公は田内主税に頼んで山陽の所から外史の原稿を借りて来た。其の時山陽が楽翁公に奉るの書と云ふものがありますが、それこ詳しく書いてあります、

「責方の御家来が私の所に偶然来て私の原稿が欲しいと仰言ったから上げた」

と云ふ意味のことが書いてある。此の外史の文章によく注意しなければならぬことは、一番終りに「武人平治天下。至是極其盛云」と云ふ所がある。即ち徳川の盛なる有様は茲で極ったと云ふやうな、悪く謂へば一の断案を下したやうな申し分でありますが。春秋の筆法で言ふならば徳川家の破滅を断言したと言っても宜い。此文章を掴て一般を窺ふことが出来ますが、楽翁公は其の時のことを思ふと余程辛かったらうと思ひます。而して山陽が楽翁公に如何に心を置いたかと云ふことは、楽翁公が文政十二年と思ひますが死なれた時に松平楽翁公を祭るの文と云ふ祭文があります、その祭文には断然でそう云ふことを噺言して沓いてあります。山陽の遺嚮と云ふものは最初楽翁公に上げた書面、それから楽翁公が死んだに就ての祭文、斯う云ふもので確かに知ることが出来ます。是等に就て楽翁公の心は何うかと云ふと、兎に角徳川家の嫡流ではないが、支流であって老中にもなった其の家が、悪く言へば未来がいけないと云ふことを断言されたのであるから、余程心を苦しめたことであったらうと思ひます。所が此人は洵に徳の高い人で左様な困難な位置にありな

がら七十二歳迄生きたと思ひますが、一っもさう云ふことで時を誹り、又許軍に對して誹謗がましいことを一言も言ったことがない。是は洵に或る點から言ふと情愛の深い、或る點から言ふと礼儀の厚い、或る點から言ふと観察力の鋭い人と思はれます。

 殊に私の注意したのは徳川家の歴史に就て深く考へられたことで、のみならす完敗七年間の政治と云ふものは實に徳川家の政の一部を修正した。而して今の禁裡の御修繕に大變力を入れ、一方には倹約主義を採られて最後にはその遺徳で養育院までも出来たやうな譯であります。

今の禁裡の御修繕に大物力を入れ、一方には倹約主義を採られて最後には其の遺徳で養育院迄も出来たやうな譯であります。

 私は歴史的の方面から審かに言ふことは出来ませぬが楽翁公は斯う云ふお方であります、それで養育院は今申す楽翁公の御倹約で一の金を備へてくれた、此金のみでないがそれ丈けの餘慶を輿へて下さったのであるから、此事に二十年前から気が付いて毎年五月十三日の御命日には養育院でお祭りをして居ります。其の縁故で、公を神社として尊敬したいと云ふので奮領地白河に南湖園と名付けて居られましたその庭園が残って居りますので、その南湖園に小高い良い場所がありましたので、其の場所を撰び神社を作ることになりました。私もその為に幾分力を注ぎまして、南湖神社と申して立派なお社が出来ました。昨年も行く機會があって參りましたが、額なども上ってよいお社になって居ります。此間も地方人が来て、櫻と紅葉を東京の良い畫工に頼んで描かせ、私が額を上げる理由を書いて上げましたが。其額がふさはしいと云って地方人も喜んで居ります。

神社の基金も出来て縣社丈けにはなし未だ官幣社にはなりませぬが、年に二度づゝお祭をして居ります。

 是は楽翁公の一部分でありますが、系統的には三上さんが調べて居られます。同君に依って楽翁公の御傳記が一年半か少なくとも二年位の間には版にして出されると思ひますが、三上博士の如き立派な人が著述者となってやって下さることは宜いことで、私も幾分御相談相手になって多少力を注いで見たいと思ひます。             

先づ徳川家は初代の家康三代の家光、それから水戸の光圀申し上げた八代将軍の吉宗、……私は詳はく調べた譚そもありませぬが、水戸の烈公、斉昭、それから没後の慶喜公、是等の方々は皆非凡な方々であるが、其の中で特に間隔で各方面に優れて文學に胱ても優れて居り、歴史の観念もあり、さればと言って政治のことも大變御心配になり、慈善的の観念もあり種々なる方面に圓満なお方は就中楽翁公で

南ると思って居ます。(十二月十九日談連忌)






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最終更新日  2021年10月08日 04時38分42秒
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