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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年10月10日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

 奥山正典氏『山梨の文学碑』

〈著者略歴〉

大正51917)・115 生まれる。

山梨市上神内川246に生まる。

山梨師範(現山梨大学)本科・専攻科卒。

東大内地留学

(上代文学〈万葉集の研究〉、短歌概説を修める)

小学校長。

歌話〈美知恵波〉

運営委員会則委員長、県立文学館資料所在調査員、

山梨市文化協会々員(短歌部)。

著書に歌集〈朝光〉〈岐路〉

随想<わたしの文学散歩>がある。

 

  序 望月百合子さん

 奥山正典先生が三十年に互って県内くまなく歩を運んで書き、昭和五十二年九月から五十九年十二月までの七年間、毎週「山梨新報」に連載された『山梨の文学碑めぐり』にがこのたび、『甲州の文学碑』の題で一本に刊行される。

 著者は周知の通り教育者、東大の国文学教室に内地留学した篤学の国文学者だ。

 文字碑めぐりは教職にあった特に始まる。「碑はただ見すごして通るだけの路傍の石ではない。それは生きた石に刻まれた先人の作品であり、文化道楽であり……という思いで、一つ一つの碑に対面して来た。そうして得た碑の知識と写真が紙面を飾った、しかしその紙㈲は原稿紙僅か二枚分でその申に古代のものは文献が伝えるもの、近世の碑で、その碑にゆかりの人、或は知る人があれば丹念に話を聞きというわけで、新聞に与えられたスペースにはどうにも収め切れないものがある。その豊かな材料と解説を書き加えては一つ一つの碑のいのちを甦らせようとの希いでこの本の刊行になった。まさに著者の「人間これみな勉強」の白戌をかみしめながら、三十年問に三百三十四本基の碑をみつめて来た。汲めども尽きぬ文字の誠と言えよう、

著者の文学観賞姿勢はまことに見事という他ない。現代は文学散歩が到るところで流行しているが、まだそんなことが全く行われていない時代に、著者は教師として生徒をその文学散歩につれ出している。書物で談んだものについて、その実地に見られるものがあれば見、触れられるものがあれば触れる、ということだ。国語の副読本に飯田蛇笏の句があった。著者は生徒を甲府城にある蛇笏の碑の前につれて行き

 

  芋の露連山影を正しうす

 

 の句を吟誦し、そこから盆地を越した南の山麓にある蛇笏の村を指さして遠望させた。

 私はこの丈学碑めぐりをみて、古代から言われているなまよみの甲斐の、文化に縁遠い國と愚かにも思い込んでいた無知を恥じた。日本式尊と酒析の宮の伝説も万葉時代からの甲斐の歴史も大略は知っていながら、なお且つ「なまよみ」の昏いイメージを嶮にくっつけていた。それがすっきり剥ぎとられた思いがした。

 

 碑は他国から米て滞留した人、或は旅人として通り抜けた人、たとえば江戸川の芭蕉のような人の碑も沢山あるが、甲斐人のも沢山ある。良い例が芭蕉と双璧と称された山口素堂だ。この人は俳諧だけでなく漢学者として名をなし、芭蕉もその教えを受けたといわれる。他国の人にしろ、甲斐人にしろ、甲斐という國がそれはどの文化財を持っているということは、それだけのものを受容れる文化性があったということだ。山に囲まれた半黄泉(なまよみ)の国柄では決っして

なかったということだ。この國に歌人の三井甲之が生まれ、俳句の飯田蛇笏が育ったのも当然のことだ、蛇笏は素堂あっての甲斐の俳諧と尊んで、自ら筆を執って素堂の句碑を自家の裏山に建てている。

 また新開運載の第一回に著者は恩師伊藤生更の

 

  北の方より駒鳳凰農鳥と我が目を移す雪の高山

 

【註】 駒ヶ岳・鳳凰山・農鳥

 

 の歌碑を出している。なんと素朴な万葉の昔の東人を想わせる歌であろう。わが師を冒頭に掲げる心の温かさ床しさ、まさに人の美しさである、本の中には『酒折宮寿詞』の碑もあるが、酒折から数百年を経ても、甲斐大の飾らず率直万素直な心は変らずのどかである。

 

万力林の鈴水孝の歌碑の格調高い自然詠、川合仁の

 

  自分は人を信ずる 自分は人を愛する

 

の文学碑も甲斐の自然と大を愛してやまぬ心だ。

 この律義さ、真面目さのもう一つの柱として、碑ではないが私はこゝに著者の学問文化への心意気を紹介したい。

 

  足腰の効かざる時も歌はせむ おのが稚拙の拭へざるとも

 

著者が労苔をものともせず文学碑巡りをつづけたのはこの心だ。またこの真情こそが歌というものなのだ。この真情と弛まぬ努力が時代の土に埋もれ果て、または風害に倒れ路傍の石くれになりかけた碑を掘り起して、甲斐の国の占代から近代までの心の歴史、風雅の気質を明らかにして来た。

 私は甲州に関する様々な文献を一応はみて米たが、このいしぶみ(碑)行脚を読んだ程、胸にしみて山梨の土地柄を考えさせられたことはない。何故か。それは血が通っている文だからだ、伝承を書き写したのでも、フィクションでもなく、著者が無私無欲の心でひたすらに歩いて探して書いたものだからだ。これが人の心のいみじさであろう。楽しんで郷土の雅史を学べる本を待つことを幸せに思う。(昭和六十年二月十七日)

 

  編集後記

 文化はみんなで耕し、作り(創り)、育てるものーという考えから、甲州の文字体を「徽典会」(山梨大学教育学部)、県内新聞、東京の国語雑誌、「わたしの文学散歩」(自著)等に執筆したが、これとても、古老、先達、関係遺族、同好同志等の助言、諸文献資料の恩恵によるもので、文化はまさしく、みんなで調査し、発掘し、創造し、集大成して次代に継承して行くものであると思う。

 山梨新報の五十五年一月一日号に

「県内外の文字体を訪ねて、三十年近くなろうか。教師であった私は、小中学校の国語教科書に文才教材がたくさん府てきて、その教材研究としても、関連する身近な文字体を自分の目や足で見ておく必要を感じた…」

「文学碑は路傍の石ではない。それは生きた石に刻まれた先人の完全な文学作品であり、文化遺産であり、文学者の不滅の魂ともいえよう…」

と誌したが、この初心は今も変かっていない。

 日頃、敬慕していた望月百合子女史を身近に拝したのは、五十三年四月九日だった。女史が多分、山人会の〈千鳥を聞く会〉に見えられ、山梨市の武田の名刹・永昌院を一行と訪ねられた折である。

「白き髪清く幾分背のこごむ望月百合子入りきて坐る」 (庫裡)

 五十七年の成人の日、甲府の小泉幸子さん(元山日社会部長・故小泉義幸夫人)のお宅で初めて女史に合わせて頂き、【文学は人間の純粋性と美を磨くこと…】などと伺う。

 六十年の一月十四日、新宿の「高野」で石森荒男、七重さんの親子展「絵日記と絵手紙」を女史とご一緒に鑑賞。

近くの「中村屋」で序文のことを、あらためて懇願する。この時、長女七三子、次女芙美子も同席、女史の尊い人生観や文学談に共に耳を傾ける。やがて、二月十九日、速達で序文を頂き、浅学非才の私の小著に、光彩と厚みを添えて頂き、恐縮と感謝のほかは無い。

 

 表紙とカバーのカラー写真は、同郷の写真家・武井網男氏にお願いした。冒頭に

「北の方より駒鳳凰農鳥と我が目を移す雪の高山」(伊藤生更)

を出したので、その歌碑に合う写真をと思い、また、日本のまはろばである、甲府盆地に、わが甲州に、上代(大和時代)にかかかる「酒折宮寿詞の碑」、「鳴沢村の万葉歌碑」を始め、中古(平安時代)、中世(鎌貪・室町時代)、近世(江戸時代)、近代(明治・大正・昭和時代)の「飯田絵蛇笏の句碑」に及ぶ文学碑の群像が生ける人間の如く存在する事を思いながら、この写真を入れようと思う。

 四月十日、撮影の下見に行き、五月十二日午前十時半から三時間半を要し、気象現象(躍、雲)が刻々と変化するなかで、苦心して四枚撮影して頂き、そのうちの一葉を入れる。ともかく、駒、鳳凰、農鳥の残雪が撮影できてよかったと思う。

 

 編集中、文学碑研究家・小林貞夫氏より、都留市内の文学洋二十全基。編集後、「雛鶴峠馬子唄の研二万お知らサ頂く。また今村美登利さんから「宗良親王の歌碑」(白州町白須松原跡)、渡辺礼一氏から「乙骨耐軒の文学碑」「峡府御岳祠によれば旧二道あり。猪狩村の人・:」 (全漢文、御岳昇仙峡)の書信と資料を頂く。

 相沢一氏宅庭園の「相沢慶垂の句碑」と「相沢一の歌碑」(53年宮中御題〈母〉朗詠作品集より。封建時代に嫁ぎかた母上の身のほどを凝視した賛歌、自竿)。真浄山大法寺(山梨市上

栗原、渡退席成住職)境内の金蝶園梅雪の歌碑」を訪ね、堀内精一氏宅で新旧二基の松尾芭蕉碑「行駒の麦になぐさむ宿り哉」を建立したことを知る。

 すると、紹介一八六法にこの八基を加え、一九四基になる。県内六十四市町村のうち、本調査村が十三あり、一部訓九五五十一市町村にも残る碑がありとすると、甲州の文学碑は推定で五五〇基前後現存するのではなかろうか。かく、わが山紫水明のふる里甲州は決して文学不毛の地ではなく、むしろ、文学碑の宝庫ともいえると思う。

 

 さて、県立文学館は六十二年度着工されるようであるが、その文学館構想策定懇話会は、郷土作家や本県ゆかりの文学者の資料を幅広く収巣する計画のなかで、芥川龍之介、飯田蛇笏等三十数人の作家名を挙げている。

 それで本書に取りあげた、文学碑のなかにこれらの文学者が教多くふくまれており、三十数人員外の、本県ゆかりの文学者も、本書のなかで対象になるもの加あると思う。

 終りに小著のためご指導やご協力を頂いた山梨新報社・斎藤吉弘代表取締役、守屋博章主筆、山梨市文化協会、美和知恵波短歌会、アド井上・井上雅雄氏、その他の関係者に深く謝意を表したい。

    昭和六十年六月十六日       奥山正典






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最終更新日  2021年10月10日 06時43分23秒
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