カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
編年体 日本古典文学史 文久元年(1861)~明治三年(1870)
『国文学 二月臨時増刊号』第22巻3号 学燈社 昭和52年発行 一部加筆 山梨県歴史文学館
元治元年 1864 慶応元年 1865 明治元年 1868
◇ 明治3年(187θ)この期の特記事項 * 和宮降嫁。 * 夏目漱石生まれる。 * 明治天皇践祚。 * 大政奉還。 * 江戸を東京と改称。 *「西国立志編」ペストセラーとなる。
* 逍遥は美濃国加茂郡大田村尾張藩代営所役宅に生まれた。太田宿は中仙道の宿駅として栄え、様々な人力が往還を去来した。 例えば万延二年(1861)十月二十七日には和営一行、が泊っている。孝明天皇皇妹和宮は将軍家茂と同年の十六歳であったが、有楢川営熾仁親王との婚約を破棄しての縁組となった。 固より所謂公武合体の象徴としての政略結婚であり、和営は 遠ざかる都としればたびごろも 二夜のやども立うかりけり の詠に窺えるように、攘夷を幕府に破約させる代償として、ただ耐えさせられたのであった。
◆続いて元治元年十一月には、武田耕雲斎率いる水戸天狗党千余人が通過」 した。手代本役たる父平右衛門は代官の反対を押切って通過を黙許した。 ◇逍遥 六歳の逍遥は煙草屋の店先で一行の過ぎるのをぼんやり眺めていたが、年配の特に「えらくなれよ」と頭をなでられたと言う(柳田泉・河竹繁俊「坪内逍遥」)。厳寒の越前敦賀の鯡倉に収容された上、四百名近くが斬られたおり、恐らく郷里の我が子を億ったその武士も再び相見る事はなかったであろう。 「来年生れの本喰いい虫」と言われた逍遥ではあるが、明治元年四、五月頃前藩主徳川慶勝が調練ぶりを検分に来た際、小姓役となり炮烙割で奮闘。世は明治と変って二年四月。一家は名古屋郊外笹島に移り、尾張公藩の勧めに従い農業を営むこととなった。 十一歳より寺小屋、十二歳より絵・茶・生花を学び、母親に巡れられての芝居見物を楽しみとした逍遥は、時代の波をかぶったと言っても幸福な一例と言える。
◆天田愚庵 同じ美濃にゆかりがある、天田愚庵は最も非惨な実例であろう(「天田愚庵の世界」)。 愚庵は安政元年七月二十日、磐城平藩勘定奉行甘田平太夫の五男として生まれた。 文久二年(1862)正月十五日、平藩主老中安藤信睦(安藤家は美濃加納より移る)は坂下門外で尊攘の志士に襲われたが、桜田門外の変を教訓として、警固厳重であったため負傷に止まった。 しかし老中免職、五万石より三万石に減封となった。信睦は和官降嫁を強 力に推進した上に、孝明天皇を退位させようとしているとの風評によって襲撃されたのである。慶応四年(1868)正月三日の鳥羽・伏見の戦、五月十五日、彰義隊の討伐と幕府軍は追い立てられた。 五月十九日、には奥羽越前藩同盟の諸藩への攻撃を開始、平藩参戦。 六月十六、七日官軍平潟に上陸。兄善蔵出陣、愚庵は家族と中山村荘作方に避難、 七月一日、兄戦死の噂、があったため愚庵は元服して出陣、十三日、平城陥落、愚庵敗走、幸い兄と廻合い。仙台へ逃れる。 九月十四日、安藤対馬守降伏謝罪状を草す。 二十二日、会津藩潰滅、仙台藩・庄内藩も降伏。会津藩は二十三万石から陸奥国斗南三万石に転封となり藩士は実に悲惨な目にあったの比して、平藩は信睦の子信男が勤王方であったため奔走の結果旧来の石高を維持し得た。 十一月、仙台より帰藩し、愚庵は両親と妹の行方が判らぬ事を聞く。即ち七月十三日落城の目以降官軍の詮議が厳しいので昼は山に隠れ、夜は甚作方に帰り、十七日までは無事、その夜愚庵を従兄と見誤った村人が愚庵の射殺を告げた。長男・二男を失ったと思い込んだ両親は翌朝妹を連れ巡礼姿とな っていずくともなく去った切りと言うのである。 明治二年謹慎がとけてより、まず善哉は特技を生かして易者となり奥羽地方を回ったが手懸りを得られなかった。 愚庵は明治四年に上京して以来北海道から鹿児島まで肉親を探し求め、遂に生涯会う事がなかったのである。その間清水次郎長の養子になる等波乱を極めた。 「父母と見れば夢なり、夢にだに其面影よ消ずも有なん」。 美濃国太田とは木曽川を隔てた隣国尾張国丹羽郡丹羽村に「有隣舎」という私塾があり、鷲津家の世襲する処であった。その三代目益斎の長子として安政八年に生まれたのが毅堂である(「有隣舎と其学徒」[風樹の年輪])。長じて昌平黌に学び、嘉永三年(1860)清田の軍政不備、英露の侵略を諭じた「聖武記」を要約して刊行、捕吏に追われるが潜伏して逃れ、ペリー来航に際しては「克詰篇」を草して斉昭に上書。 藤田東湖・藤森天山等と攘夷の勅許を得ようと計るが、意をうけた松浦武四郎は捕えられた。 慶応元年(1865)尾張藩奥儒者となり、二年、藩校明倫堂教授となる。明倫堂では元治元年(1864)よりは百姓町人の入学を認め兵学、器械製造さえ教えた。その上毅堂の提案で他国者にも門戸を拡げ、新たな読書次第を設けたが、初級に「日本外史」、三級に「大日本史」、第四級に「聖武記」「農政全書」を選ぶなど甚だ特色があった。 三年正月九日明治天皇践祚。十月大政奉還奏請につき、前藩主徳川慶勝に従い上京、難局にあって奔走、四年正月二十日帰城、佐幕派十四名を死に至らしめた。俗に言う『青松葉事件』であり、毅堂の関与する処へその功により百俵加増。十四名の中に横井也有三代の孫時足、渡辺霞亭の父かと伝えられる渡辺新左衛門、塚田大峰の養子謙堂が含まれている。 ここに御三家筆頭であり、会津・桑名藩主と兄弟でありながら、慶勝は勤王を選んだのであり、勤王誘引係を設け、毅堂とともに丹羽花南をその長に任じた。 明治二年七月八日、大学校少丞、八月七日陸前国登米県知事に任ぜられたが、三年九月二十八日石巻県との合併により披免。十五年十月没するやその葬儀は「隠者未曾有之栄」と碑に刻された。
戯作者 魯文
最後に戯作者の軌跡の一例として魯文を紹介したい(「最後の江戸戯作者たち」)。 文政十二年(1829)一月、江戸京橋鎗屋町魚屋佐吉の子と生まれ、丁稚奉公中、大通細木香以の取巻きとなり、天保十四年(1843)花笠文京の門に入る。安政大地震の際一枚摺が評判を呼び、万延元年(1860)には女子も富士登山を許されたのを当込んだ滑稽本「滑稽冨士詣」を著わした が須原の極とも言うべき作である。 文久元年異国の地理や偉人を紹介する「万両人物図絵」「童絵解万国噺」を著わした。 明治三年(1870)には「万国航海 西洋道中膝栗毛」を刊行した。弥次郎兵衛・喜多八の孫がイギリスの博覧会見物に赴く途中の、厚顔無恥な失敗 ぶりを福沢諭吉の「西洋事情」「西洋旅案内」等を借りて綴ったものであり、好評を博した。 本書と対照的なのが同年刊中村敬字の「西国立志編」で、総て合せて百部 下らぬと言うベストセラーとなった。 家禄を奪われ貧窮の生活を強いられた没落士族に、奮闘努力による立身出世の夢を抱かせたためと言う(「幕末・維前期の文学」)。 か くて世は文同開花へとひたすらに走るのである、が、後にそれへの警鐘を鳴らす事となる。夏目漱石が慶応三年(1867)正月五目誕生している。 (延広真治氏著)
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最終更新日
2021年10月21日 19時32分50秒
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