カテゴリ:山口素堂資料室
山口素堂の俳諧
はじめに
山口素堂の俳諧資料の初出は、寛文八年刊行の「伊勢踊」五句入集)からである。この集の編者春陽軒加友は、信章(素堂の発句を大切に扱っている所を見ると、これ以前から、何処かである人から俳諧の手ほどきを受けていたようである。また、素堂の本名は「信章」とされているのであるが、雅号であるのか本名であるのか、全く不評である。
「素堂像の考察」でも触れている通り『甲斐国志』には
少小四方ノ志アリ。 屢々江戸ニ往還シテ受章句於春斎。 亦遊歴京都、 学書持明院家、受和歌於清水谷家。 連歌ハ再昌院法印北村季吟ヲ師トス 。…中略…茶ハ今日庵宗丹門人ナリ。
とある。砕いて言えば「少小」とは元服前の子供、つまり少年の事である。 子光(素堂晩年の世話人)の「素堂句集」(享保六年)序では、
自弱冠遊四方名山勝水云々
と記す。 「弱冠」とは二十才を称する語で、つまり、弟に家産を譲って江戸へ出たとする頃で、寛文元年頃と云う事になる。 (この説は何の根拠も持たない説である。甲斐国志による誤った記事)
若い頃の素堂が林家の家塾に入り、学んだ事は同門の人見竹洞が「林門三才之随一(『含英隋記』)と評しているし、甥の黒蕗の「摩詞十五夜」(まかはんや・素堂五十回忌追善集)に「学は林春斎先生の高弟」と記述する。しかし、林門名簿には元禄六年の項に見える。好意的に推測すると、林家私塾に入ったのが十二か十三才(承応三年頃)で、寛文三年(一六六三)には私塾が蔦府より弘文院号が与えられた。 この年素堂は二十二才。この頃には林家の門を離れて仕官をしていたと思われる。 素堂が俳諧に手を染めたのは寛文の中頃と推定し得るが、林家の初代羅山も俳号を持った人である。林門の中には俳諧の流れが有り、この林門周辺では素堂の得意な「和漢聯句」が盛んであった。 素堂と芭蕉の出会いを示す適切な資料は無く、資料上からしか窺い知ることはできない。素堂は漢詩人として俳諧を捉え、常に芭蕉に新たな句作方法を提言しながら、芭蕉を見守っていた。芭蕉は素堂に寄り添いながら蕉風を切り開いていく。絶妙の二人三脚で確立した当時の俳諧世界を新たな資料を散りばめながら綴っていく。 そこには過去の定説から抜け出した新たな素堂像が浮かび上がってくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年10月27日 05時09分27秒
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