カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
素堂 年表 芭蕉の生誕から俳壇デビューまで
参考資料 『俳文学大辞典』角川書店 一部加筆 参=参考 書=俳諧関係刊行書
◆寛永十九年(一六四二)素堂生まれる。 七月、西武『犬筑波集』刊、貞徳直門撰集の嚆矢。 季吟、一九歳で貞徳に入門か。
参考**松永貞徳発句**『犬子集』他 ありたつたひとりたつたる今年哉 鳳凰も出でよのどけきとりの年 春立つは衣の棚のかすみかな 花よりも団子やありて帰る雁 ゆきつくす江南の春の光り哉 雪月花一度に見する卯木哉 高野山谷のほたるもひじり哉 七夕のなかうどなれや宵の月 歌いづれ小町をどりや伊勢踊 酒や時雨のめば紅葉ぬ人もなし
寛永二十年(一六四三) 一月、貞徳『新増犬筑波集』刊、貞門俳諧の範を示す。 書『新撰対類』『誹諧独吟千句』 九月、幕府編『寛永諸家系図伝』成。
正保 元年(一六四四)芭蕉生まれる。 一月、重頼、東下し江戸俳壇と交流。 一〇月、貞徳、『天水抄』を令徳に伝授、俳諧伝の基礎となる。 書『寛永廿一年俳諧千句』参一二月一六日改元。 参幕府、諸国大名に国絵図作成を命じる。
**松江重頼発句**『犬子集』他 春の日の威光をみする雪間哉 咲きやらで雨や面目なしの花 初花になれこ舞する胡蝶かな やあしばらく花に対して鐘つく事 順礼の棒ばかり行く夏野かな 此度はぬたにとりあへよ紅葉鮒 芋豆や月も名をかへ品をかへ 生魚の切目の塩や秋の風
正保 二年(一六四五) 二月、重頼『毛吹草』刊。書『厳島大明神法楽連歌三百韻』 『十一韻』歿一二月、沢庵七十三没。
正保 三年(一六四六) 春、正式『郡山』、正章『氷室守』の両書、 『毛吹草』を攻撃。 書『切紙秘伝良薬抄』『底抜磨』
正保 四年(一六四七) 貞徳、新年を新宅柿園で迎える。 九月、宗因、里村家の推挙で大阪天満宮連歌所宗匠となる。 書『云成俳諧独吟千句』『追福千句』『誹諧集三千句』 『誹諧集二千句』(『長崎独吟』『徳元俳諧紗』) 歿 二月、小堀遠州六十九才。歿徳元八十九才。
慶安 元年(一六四八) 一月、季吟『山の井』刊、季蓮に例句を添えた季寄せの囁矢。 九月、『正章千句』刊。正章、俳壇における地位を確立。 書『西行谷法楽千句』 二月一五日改元。
** 安原貞室発句 ** 『正章千句』『一本草』『玉海集』他 黄鸝(うぐいす)も三皇の御代を初音かな 歌いくさ文武二道の蛙かな 葉は花の台にのぼれ仏の座 これはくとばかり花の吉野山 いざのぼれ嵯峨の鮎食ひに都鳥 松にすめ月も三五夜中納言 そちは何を射げきの森のよるの蝉 小便の数もつもるや夜の雪 涼し溝のかたまりなれや夜半の月
** 北村季吟発句 ** 『続連珠』『山の井』『師走の月夜』他 一僕とぼくくありく花見哉 こゝぞ京のよしの能見よ地主の花 太郎月につぐ紅梅や次郎君 めづらしや二四八傑のはとゝぎす 夏をむねとすべしる宿や南向き 女郎花たとへばあはの内侍かな 閑なる世や柊さす門がまへ 咲くやこの今を春べと冬至梅 年の内へふみこむ春の日足哉
** 西山宗因発句 ** 『懐子』『宗因発句集』他 ながむとて花にもいたし頸の骨 そうよそよきのふの風体一夜の春 花むしろ一けんせばやと存じ候 世の中よ蝶々とまれかくもあれ 郭公いかに鬼神もたしかに聞け なんにもはや楊梅の実むかし口
慶安 二年(一六四九) 一月、宗因、大阪天満宮月次連歌再興。 書 『花月千句』『師走の月夜笥そらつぶて』 『風庵懐旧千句』『望一千句』 参 二月、農民の心得を記す慶安御触書発布。 三月、木下長哺子『挙自乗』刊。四月、 未得『吾吟我集』成、個人狂歌集の嚆矢。
慶安 三年(一六五〇) 一〇月、『嘉多言』刊(成)。 書 『伊勢山田俳諧集』『くるる』 『誹諧抜書』『歩荒神追加』『野狩集』
慶安 四年(一六五一) 四月、立圃、備後国福山藩に仕える。 七月、貞徳、『俳話御傘』に式目をまとめ俳言を説く。 一〇月、令徳『遠山集』刊、貞門俳詰最大の撰集。 参 七月、由比正雪事件。八月、家綱、将軍宣下。
承応 元年(一六五二) 一月、柳営連歌、一一日に式目を変更以後、幕府瓦解まで続く。 二月、宗因、菅家神退七五〇年忌万句を興行。 三月、『尾陽発句帳』刊、尾張俳壇俳書の囁矢。 一二月、『若狐』刊、井筒屋(表紙屋)庄兵衛刊行俳書の囁矢。 書 『十寸鏡』園定参六月、若衆歌舞伎禁止。九月一八日改元。
承応 二年(一六五三) 一一月、貞徳八十三才没、生前、『貞徳独吟』を遺す。 西武・正章(貞室)ら、後継を争う。 卜養、将軍に見参を許され、江戸に居宅を賜る。 この年、任口、西岸寺住職となる。 書『貞徳終焉記』『美作道日記』 参 一月、玉川上水の工事着工、翌年完成。
承応 三年(一六五四) 一月、正章、貞徳後継を意識し貞室と改号。 一〇月、宗因、重頼らと百韻興行。 書 『承応三年平野熊野権現千句』『伏見千句』 参 三月、土佐光起、絵所預となり土佐派を再興。 七月、明憎隠元、長崎に来航。
明暦 元年(一六五五) 書 『紅梅千句』『信親千句』『毎延俳諧集』『夜のにしき』 参 四月一三日改元。この年、山崎闇斎、京都で講義を始める。
明暦 二年(一六五六) 一月、長式『馬鹿集』刊、令徳・貞室を批判。俳壇にわかに活発化。 同月、休安『ゆめみ草』刊(奥)、 守武流を標榜し、反貞門勢力の大阪・堺・伊勢俳壇が結集。 宗国風流行の素地となる。 三月、季吟、祇園社頭で俳諧合を催し宗匠として独立、貞室を攻撃。 『いなご』刊(序)、絵俳書の嚆矢。 九月、宗因、天満碁盤屋町向栄庵に入り俳諧月次会を主催。 書 『祇園奉納誹諧連歌合』『玉海集』『口真似草』 『崖山土塵集』『拾花集』『せわ焼草』『有芳庵記』 『吉深独吟千句注』 参 汀松平直矩『大和守日記』執筆始まる(元禄八年まで)。
明暦 三年(一六五七) 一一月、蝶々子『物忘草』刊、江戸俳家による撰集の嚆矢。 この年、『嘲哢集』刊、『守武千句』を基準とする伊勢俳壇の式目書。 書 『牛飼』『沙金袋』『春雨抄』 参 一月、江戸大火。遊廓新吉原に移る。 二月、徳川光圀、『大日本史』編纂に着手。
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最終更新日
2021年10月27日 06時54分01秒
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