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2021年11月06日
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武田信玄の基礎知識 ○特集/武田信玄の謎

 

『歴史研究』武田信玄の謎 8 第447

川口素生氏著(東京都会員)

 一部加筆 山口素堂資料室

 

当代一流の戦略家であり戦術家である武田信玄、その一族の興亡

 

英雄の誕生

 

 甲斐を本拠とした一戦国大名でありながら、同時代の綺羅星(きらぽし)の如き将星の中でも、信玄ほど何人(なんびと)からもその存在を知られている武将は例が少ない。 

かつて、『歴史読本』が読者に対して行った日本史上の好きな人物、興味がある人物に関するアンケート調査では、

①織田信長、

②徳川家康、

③豊臣秀吉、

④上杉謙信、

⑤武田信玄、

という順番であった。

 

武田信玄という武将の名は、風林火山、川中島の戦い、信玄堤、信玄法度、棒道、影武者といったキーワードと共に、あるいはそれが後世の握造(ねっぞう)であるとしても、

「人は石垣人は城なさけは味方仇は敵なり」

の歌や上杉謙信との間に交わされたという「義塩(ぎえん)」の話などと共に、これからも我々日本人の脳裏に長く記憶されて続けることであろう。

 大永元年(一五二一)、相模小田原(小田原市)の北条方の武将・福島(くしま)正成が甲斐府申(甲府市)に侵入。擲濁 (つゝじ)ケ崎館にいた武田信虎の室・大井夫人は北の要害山城へ避難を開始。大井夫人は身重で、城の手前の積翠寺付近で男子を分娩。この男子は幼名を太郎、勝千代、諱を清信、出家して信玄と名乗った。武田信虎の家は新羅(しんら)三郎義光にはじまる甲斐武田氏の宗家で、歴代当主が甲斐国守護を継承する同国随一の名門であった。

父・信虎は信玄よりもむしろ、弟の信繁〔典厩・てんきゅう〕を後継者に指名する意図があったと伝えられる。

父の放逐とフイバルたち

 信虎は天文五年(一五三八)冬の信濃海ノロ城(佐久市)攻撃を開始。信玄はこの時に初陣したとされる。

ところが、五年後の天文十年、信玄は板垣信方(信形)ら重臣と相談の上、暴政を咎めて父を放逐。このクーデターは成功により信玄は甲斐国守護に就任。

 官途(かんと)はのちに大膳大夫、信濃守も許された。クーデターの原因は、父が信繁を後継者に望んだことや、対外戦略の失敗、それに伴う家臣団内の動揺などが挙げられている。

 次いで、信玄は天文十一年にの諏前傾重を攻撃して信濃諏訪地方を版図に収め、余勢をかって伊那郡に進駐した。これらを経て、天文十年代の半ばには信濃北部の佐久郡、小県郡に兵を進めたが、天文十七年に葛尾(かっらお)城主(長野県坂城町)の村上義清と上田原(上田市)で戦って大敗。重臣の板垣借方らを失った。信玄のライバルというと、越後の上杉謙信の名が挙げられることが多いが、村上義清や、信濃の小笠原長時、上野箕輪城主(群馬県箕郷町)の長野一族なども武田軍団の猛攻を良く凌いでおり、謙信よりもむしろ、村上・小笠原・長野の各一族の堅守が結果として信玄の西土(上洛)を大幅に遅滞させた感があるように思われる。

天文二十二年、一旦、村上・小笠原の両氏を信濃から逃走させたが、両氏は越後に赴いて謙信を頼った。この結果、武田と上杉との対立がより深刻化し、同年から十数年の間、再三再四、川中島地方で両雄が矛(はこ)を交えることになるのである。

 

信玄の領知経営&私生活

 

信玄は領知経営、家臣団統制の面で、特色のある政策を展開したことでも知られる。

天文十六年には『今川仮名目録』を勘案した上で『甲州法度之次第』を制定。また、永禄十年 (一五六七)には起請文を提出させ、家臣団の統制を強化している。

次いで、家臣団を親族衆、譜代家老衆、他国衆、譜代国衆、直臣衆に区分けし、一族の者を多く登用して最前線基地の城代等の要職に抜擢している。

土木事業の面では天文十年代のはじめ頃から二十年以上の歳月を費やして釜無(かまなし 富士川)川一帯に「信玄堤」を構築。信濃との国境付近に遺構が一部の残る「棒道」も信玄の構築と喧伝される。

また、甲斐の善光寺など、寺院・神社の創建、護持にも心を砕いた。さ

らに、領内の金山開発にも腐心。これによって得た金をもとに「甲州金」と呼ばれた独自の通貨を発行。これと、「甲州枡」とにより独自の度量衡の確立を目指した。

さらに、商人・職人に特典を与えて府中への遷任、移住を促し、伝馬宿駅制度の整備にも着手。これらを通じて産業の振興、甲斐の富国化を希求した。

寄親・寄子制度の強化、直接支配を通じての税制の再構築なども一部地域では試みた痕跡がある。

私生活の面では、最初の正室(上杉朝興の娘)の死後、後添えの三条公頼の娘との間に義信ら三男二女を、側室の諏前頼重の娘との間に家督を嗣勝頼を、同じく、側室の浦川信友の娘との間に仁科盛信ら二男二女をもうけている。この内、湖衣姫や由布姫といった名で一般に知られているこの諏訪傾重の娘の存在は作家の新田次郎氏の名作『武田信玄』(『歴史読本』に連載)で一躍脚光を浴びた。墓碑は長野県高遠町の建福寺にあるが、諏訪の小坂観音院に供養塔がある。

信玄は父を放逐するといった荒療治を行ったことで知られるが、家督相続後も謀叛を理由に嫡子・義信を幽閉し、自刃に追い込むなど、苦衷に満ちた日々を送ることも少なくなかったようである。

義信の死後、信玄は四男の勝傾を後継者に指名。先に触れた家臣団からの起請文徴収もそういった状況下でのものであった。

 

流転の姫たち

 武田家は「甲州金」に表徴される豊富な財力を誇ったことが知られている。こういったイメージが強いせいか、信玄の姫たちは幸福な生涯を送ったものと考えられ易いが、意外にも戦国大名の姫であることが逆に作用し、姫たちの大部分が流転の生涯を送っている。 

信玄の姫は通常、七人であったとされる。

この内、長女(母は三条夫人)は同盟強化の為に小田原の北条氏政に嫁し、嫡子・氏直をはじめ六人の子宝に恵まれた。なお、信玄は長女の懐妊を知って富士御室浅間神社 (勝山浅間神社。山梨県勝山村)に安産祈願を行ったことが知られている。しかし、武田と北条の同盟が決裂するや長女は甲斐に帰され、やがて二十七歳を一期として病死した。

長女の法名は黄梅院で、父・信玄は甲斐に、元夫の氏政は箱根の早霊寺に法名に因んだ黄梅院という寺院を建立してその菩提を弔っている。

 

次女(母は三条夫人)は従兄の穴山信君(梅雪)に嫁した。法名は見性院で、晩年には保科正之の養育にも関与した。墓所は浦和市の清春寺、供養塔は新座市の平林寺にある。

 

 三女(母は浦川氏)は信濃木曽領主・木曽義昌に嫁し、子宝にも恵まれた。しかし、夫が武田家を見限り、信長に通じたことに憤って木曽に引き龍もって生涯世に出なかった。幼名は真理姫、法名は真龍院で、行年は九十七歳。長野県三岳村に墓碑の五輪塔がある。

 

 四女は早世、七女は信仰の道を歩んだとされる。

 

五女(母は浦川氏)はお松、新館(にいたち)御料人と呼ばれた。織田信長の嫡子・信恵と婚約したが、両家の関係悪化により破談。天正十年の武田家滅亡時に武蔵八王子(八王子市)に逃れた。以後は、武田旧臣の大久保長安らの支援を受けたらしい。法名は信松院といい、法名を冠した寺院が八王子市にある。

 

六女(母は浦川氏)は政略結婚により上杉謙信の養嗣子である景勝に嫁した。この女性はお菊御科人、甲斐御前の名で知られている。京都・伏見の上杉景勝邸で人質生活を送った。子宝には恵まれず、関ケ原の戦いの後、伏見で弟の武田信清(のち米沢藩士)に見取られながら没した。

お菊御料人と信清姉弟の墓碑は米沢の林泉寺にある。お菊御料人が没した伏見の上杉景勝邸跡地に景勝町、景勝橋などの地名が残る。






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最終更新日  2021年11月06日 15時11分56秒
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