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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月10日
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​​歴史の誤伝は様々な処から生まれる。
甲斐の武田家に仕えた​武将馬場美濃守についても同じことが言える。
 馬場美濃守信房を「信春」とする紹介書が多いが、信房公を祖とする土地や家では「信春」は見えない。
 古文書や地域古資料も『信房』である。

また武田二十四将の画像で、恵林寺のものが多用されているが、これは明治時代のもので、一考を要する。


 何を根拠に描かれたか解らないが、素浪人風情で戴けないが、最近はこの種の画像が多く出回っている。









美濃守の出生も北杜市白州町下教来石とされるが、当地及び確かな歴史書には見えない。家伝によれば同じ白州町の台ケ原根古屋に祖が住んでいたとある。
 馬場美濃は武田家の先陣であり、当時の家臣は現在の甲府市武田神社周辺に武田屋形(武田神社)​周辺にあり、馬場美濃の屋敷は武田通りに在り、現存する地図にもその位置を窺える場所に明記されている。
 多くの書などにネット記事に、美濃の屋敷が当地の白須に存在したとか、白州町鳥原に屋敷が存在した等の話は後世の歴史紹介の大きな間違いである。
 史実では先ほどの甲府市武田神社前面の屋敷が山梨県唯一のもので、あとはよくある神社仏閣の誤った話が、本当の歴史と錯覚される場合が多い。



 白須に在る馬場美濃守の墓は、数代前の住持が、現在の診療所に存在した馬場家の料理店(馬場ほの)で長らく存在したもので、馬場家では、そのままにしておいて欲しいと願っていたが、主人とほのさんも死去した折りに、住持が移転したもので、板碑と五輪がそれである。また一旦移動した白須若宮八幡神社からも移動して現在の場所に安置された。墓の右側に或る『馬場ほの』の石塔以下が「ほの家」関連のもので、内容については長篠記念館『甲斐の名勝 馬場美濃守』に精しく記載されている。

 甲府馬場美濃屋敷
 




 白州町鳥原の馬場美濃屋敷跡 遺跡調査根の結果関連するものは何も無かった(遺跡調査報告書)


 旧自元寺庫裏
















白須は白州町の大部分を示す地名で、歴史では白須甲斐守に知行地で屋敷は現在の神社周辺にあり、前に広がる『殿町』などの地名は白須甲斐守の殿町であり、白須甲斐守は江戸時代にも活躍し、江戸地図の中にも存在し、若宮神社再興の折には、家臣と共に多額な寄付をされている。(神社再興記録による)
 白州保育園の一角に飛行機の展示場がある。その地内に『馬場美濃守屋敷跡』の表示板があるが、これは根拠の無いもので、馬場美濃の屋敷は白須には無く、これらは全て歴史誤伝で、白須家の屋敷跡である。白須家は白州滞在当時家運が衰え、当時中山周辺に武田の山城を築くために馬場美濃が一時在住した折りに馬場姓を名乗り、その後は下吉田に移った。現在の白州小学校・自元寺周辺は白須家の土地で、移動の際に全て譲っていったもの、現在でも吉田には馬場家が存在している。
 白須家は郡内地方に多数存在している。電話帳にも多数記名があり、数軒の白須家は若宮八幡にも来られている。またかの有名な『白須次郎』さんの祖先もこの白州町白須が由来地である。(別記)





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最終更新日  2021年11月10日 07時52分37秒
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