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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月10日
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​寛政重修諸家諸の馬場氏(武田支流)​
房勝の子孫
○家紋 三筋山路 揚羽蝶                                    
(清和源氏義光流武田支流巻二八四)
 源五郎某がとき、嗣なくして家たゆ。
 庶流三郎兵衛信盈が呈譜に、
武田五郎信光が五男一条六部信長、
その二男四郎頼長はじめて馬場を称す。
その男小目
 部長広、其二男権三郎(はじめ民部)広政、敬礼師を称す。
 その男権太郎(はじめ民部)政次、
其男権太郎(はじめ民部)政久、
其男権太郎(はじめ民部)政長、
その男権大輔(はじめ民部)政房、
その男権大輔(はじめ民部)政忠、
その男権大輔(はじめ玄蕃また民部)房政、
その男信、これよりまた馬場を称すといふ。
いま按ずるに、家系くはしきごとしといへども、
尊卑分脈を考るに、
頼長、一条を称すれども馬場を称する事所見なく、
かつ寛永第一の馬場系図の支流吉之助通喬がさゝぐるところの譜に、
信房が祖をいふものと異にして、
いまだいづれが是なることを詳にせず。
よりてしばらく題下にしるして後勘に備ふ。
 ❖氏勝 うじかつ
美濃守 
信盈が呈譜に、はじめ玄蕃民部権大輔政光、後美濃守信房につくる。
武田信玄をよび勝頓につかへ、天正三年五月二十一日長篠合戦のとき討死す。
「妻は小田切下野守某が女」
 ➡信忠 信濃国深志において討ち死にする。法名慈眼
   ➡ 女子 青木与兵衛信安が妻
   ➡ 女子 米倉左太夫某が妻
   ➡ 女子 曲淵仁左衛門が妻
   ➡女子 丸子三右衛門某に嫁し、後初鹿野伝右衛門昌久が妻となる。
➡民部 信義 勘五郎
     東照宮にめされて御房下に列し、甲斐国内淵、散米石、台原等のうちに  
をいて旧地をたまひ、天正十七年来地を加へられ、後脚勘気をかうぶる。
➡女子 はじめ馬場惣二郎光久が妻となり、後小田切惣三郎某に嫁す。
 ➡女子 今井別郭左衛門某に嫁し、後小笠原大学某が妻となり、また並木惣内正
房に配す。
➡某  次郎右衛門
     寛永系図、房勝が兄に之を載せて、其余の兄弟姉妹を載せず。
今信盈が呈譜之に反す。
     信恵・信義等と同一人か否を詳にせず。よりて暫く並記して是を弁ず。
 ➡ 房勝 
     右馬助 信盈が呈譜に、左近源蔵につくる。
     北条氏直に属し、武蔵国岩槻城に住す。妻は春日下総守景定か女。
➡ 女子 鳥居彦右衛門光恵が妾。
➡ 女子 柴佐左衛門某が妻。
➡ 又三郎 外祖父小田切下野守某が家を継ぐ。
➡ 女子 真田隠岐守信昌が妻。
➡房勝➡房家​​
房家 彦八郎
  北条十郎氏房に属し、後、台徳院殿にまみえたてまつる。
➡ 某  馬場三郎兵衛信盈が祖。喜八郎。
【註記】この喜八郎が山梨県北杜市白州町の自元寺の由緒を新たにする。
➡房家➡房頼
源右衛門
家光につかへたてまつり、小十人を勤め、寛永十三年十二月二十三日御納戸番に転じ、嵐米二百俵をたまふ。十八年死す。
 ➡房頼➡房次
 源三郎 左次兵衛
寛永十八年十二月四日遺跡を継、小普請となる。延宝四年死す。
➡房次➡某
 宇右衛門 六郎左衛門 実は岩佐善兵衛武清か二男。房次が養子となる。
延宝四年七月十二目遺跡を継。天和元年二月二十六日大番に列し、
後故ありて拝謁をはばかり、元禄元年十二月十八日ゆるさる。二年死す。
➡某➡某
 源五郎 実は某氏が男・六部左衛門某が養子となる。
元禄二年十二月十九日潭跡を継、十年死す。嗣なぎによりて家たゆ。
 ❖ 喜八郎の子孫
 家紋 割菱 花菱 笹竜胆
 喜八郎 馬場右馬前房勝が二男、母は春日下総守景定か女。
天正十九年めされて東照宮につかへ奉り、御小性となり、
武蔵国入間郡の内にをいて采地二百石を賜ふ(時に十六歳)。
其後大番にうつり、慶長五年信濃国上田陣のとき、
台徳院殿に従ひたてまつり、
後大坂両度の役に供奉し、元和三年十二月十二日死す。年四十二。
法名宗与。入間郡五味谷の松原に葬る。妻は土屋掃部某が女。
馬場信久の子孫
○家紋 割菱
 (清和源氏義光流武田支流巻一八四)
次郎兵衛信周がとき、罪ありて家たゆ。庶流吉之助通喬が呈譜に、
 嚢下野守仲政(按ずるに仲政は源三位朝政が父にして頼光の流なり)はじめて馬場と号す。
其後裔甲斐国教来石にうつり住し、地名を以て家号とし、代々武田家に仕え、駿河守信明の時武田信明の婿と成り、馬場にあらたためる。
その男遠江守信康、その男美濃守信房に至り武田の一族につらなり、花菱の紋を受けるという。
 
信保(のぶやす) 遠江
武田信虎につかへ、甲斐国武川谷大賀原(台ケ原)根小屋の城に住す。
 ➡信久
武田信玄および勝頼につかへ、根小屋城に住し軍功あり。慶長十五年十月死す。
【註記】根小屋は根古屋で現在の台ケ原の尾白川を渡った場所
「通喬」が呈譜に生涯の間創をかうぶる事二十三所歩行かなはず文禄元年死といふ)年八十。法名浄心。
『通喬』が呈譜に、
信保が長男を信房(はじめ民部氏勝)とし、武田家の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継ぎ、信虎、信玄、勝頼に歴仕し、はじめ信濃国高遠、後同国牧野島の城に住す。
三百騎の士をあづかり、士大将に列し、武田家の一族にづらな昨’花菱の紋をうく。
天正三年五月二十一日長篠の役に戦死す。法名乾忠。甲斐国恵林寺に葬る。
二男を善五兵衛(はじめ隼人)信頼とし、兄、信房が家嫡となり、後故ありて甲斐国を退去し、和泉国淡輪に俵居す。其男を信久なりといふ。
 ➡信成
民部 右衛門尉 通喬が呈譜 信光につくる。母は某氏。
武田勝頼に仕え、根小屋城に住す。
天正十年勝頼没落の後、東照宮甲斐国にいらせたまふの時、武川の諸士とともに御麾に属し、北条氏直が若神子に出張するのとき相謀りて小沼の小屋(信濃)を攻おとし、のち新府(韮崎)に渡御ありて北条家と御対陣のとき、しばしば軍忠を励みしにより、諸士とおなじく本領の地をたまひ、十二年、小牧陣のときも亦ともに信濃国勝馬の砦をまもり、のちまた尾張国一宮城を守衛す。
十三年九月真田昌幸が居城をせめらるゝのときは、大久保七郎衛門忠世が手に属し、また人質として妻子を駿河国興国寺に献ぜしかば、諸士一紙の御書をたまはり、十八年正月二十七日采地をくはへられ、この年小田原陣に供奉し、八月関東御入国のとき、甲斐国の采治を武蔵国鉢形のうちにうつされ、番をゆるされて采地に住す。十九年九戸一揆のときも忠世に属し、岩手沢にいたる。
慶長五年が徳川家忠に附属せられ、大久保相橋守忠隣が手にありて信濃国上田城をせめ、九年三月二日武蔵国のうちにして新恩の地百石を賜ひ、十五年土月死す。
年八十。法名浄繁 
 ➡信正
 次郎兵衛 八郎左衛門 今の呈譜信勝につくる。母は某氏。
元和七年二月二十二日(今の呈譜正月二十日)はじめて台徳院殿(家忠)に拝謁し、父が遺跡を賜ふ。
九月釣命によりて駿河大納言忠長卿につかへ、かの卿罪かうぶりたまふの後処士となり、寛永十七年めしかへされ、大猷院殿につかへたてまつり、十八年十一月十五日下総国宮川村にをいて采地百六十石をたまふ。
二十年十二月十八日采地を廩米にあらためられ、百六十俵をたまひ、御宝蔵番をつとめ、のち番を辞す。
➡女子
実は武田逍遥軒某が女。信成に養はれ、大久保彦左衛門忠教が妻となる。
➡信氏
馬場吉之助通喬が祖。隼人 善五兵衛 実は馬場善五兵衛信頼が男、信成が養子となり、別に家を興す。
信氏➡信政 のぶまさ
 民部 七郎右衛門 市左衛門 母は某氏。
延宝七年十二月十一日遺跡を継、のち御宝蔵番を勤め、御広敷の添番に転ず。
元禄十年八月二十三日班をすゝめられて桐間の番士に列し、
十一年三月二十二日死す。年四十六。法名日理。駒込の大恩寺に葬る。
後葬地とす。妻は鈴木氏の女。
信政➡信通 のぶみち
 民部 安右衛門 源八郎 市左衛門 母は鈴木氏の女。
元禄十丁年七月十八日遺跡を継、小普請となる。
享保四年十月十八日小十人となり、
十九年十月十九日番を辞し、
宝暦十三年十二月二十四日死す。年八十六。法名目恵。妻は西脇儀左衛門某が女。
信通➡信周 のぶちか
 源太郎 民部 次郎兵衛 母は儀左衛門某が女。
享保十六年十二月二十五日小十人となり、
宝暦二年十月十八日組頭にすゝみ、十二年十二月二十三日小普請の組頭に転ず。 
明和元年三月五日遺跡を継、
七年十月二十三日、さきに外族西脇十郎右衛門某水泳の稽古し、あやまりて沈みしを引あげ、その夜死せるよしをきかばすみやかに十郎右衛門がもとにいたり、これを礼し明白に言上に及ぶべきに、。親族等とはかりて病のよしに申したて、たづねらるゝにをよびて陳じまうせし状、御うしろぐらきはかちひなりとて追放せらる。 
天明七年八月二十一日死す。年八十三。法名無憂。
寛政三年正月二十四日、信周さきに死するといへども、其つみをゆるさる。
妻は神谷平左衛門正親が長女。後妻は正親が二女。また根津権現の神職伊吹左京某が女を娶る。
信周➡信方 
蔵主 主税 右兵衛
宝暦十年十一月二十五日はじめて浚明院殿にまみえたてまつり、後父信周追放せらるゝによ  り、叔父八右衛門正俊がもとにあり。
女子 浅井鴨兵衛道喬が妻。
女子 疋田新九郎安盛が妻。
信氏の子孫
 ○家紋 棄の内桧皮菱 浮線綾
❖信氏
隼人 善五兵衛 号銕心
実は馬場善五兵衛信頼が男なり。馬場右衛門尉信成に養はれ、天正十三年信成が人質となりて駿河国興国寺にゆく。そののち駿河大納言忠長部につかへ、事あるのち処士となり、後、紀伊大納言頼宜卿につかふ。
各地の馬場氏
  
  甲斐の名将 馬場美濃守信房公とその子孫
愛知県鳳来町長篠城址史蹟保存会長 丸山彭氏著
  一部加筆 山梨県歴史文学館
 甲州の勇将山県昌置の子孫を訪ねている頃から、馬場一族は非常に多いであろうと予想していた。
 調査が進むにつれて、それが予想以上であることがわかり、事実を確実に把握することのむずかしさを感じた。同一目的に向って一回よりも二回、二回よりも三四足を運ぶほうがよいこともわかっている





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最終更新日  2021年11月10日 10時17分40秒
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