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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年11月10日
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『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
天正二年(1574) 高天神落城 勝頼29歳
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
 〔勝頼、長坂長閑らの意見を重視するようになる〕
◇ 天正二年五月、勝頼公は御出馬なされ、遠州高天神の城を攻略なされて、家康旗の小笠原与八郎(長忠)を攻めなされた。けれども、後陣は家康だけでなくて信長を引き出しての戦いとなった。その時の使者が小栗大六という者で、家康譜代の三河侍だとは、浜松での生捕によって判明したことだ。
◇ さて勝頼公は信長・家康両旗が高天神の後陣としてつめているのなら、勝頼公は一身を賭して決戦を覚悟すると勇みたち、小山(榛原)という境に陣をしかれて後陣を待ちなされた。
ある時、城から追手が池の壇へ兵を出し、足軽の小笠原勢内の渡辺金大夫・林平六・吉原又兵衡・伊達与兵衛・小池左近といった連中が勇み活躍しようとしていた。
一方、内藤修理の軍勢は同心に手柄ある武士が多くいた。駿河先方衆には岡部治部がいてこれは岡部次郎右衝門の弟なのであるが、信玄公が三方ケ原での合戦のおりも、毛付を目指して活躍し名をあげた大剛の武士である。岡部忠次郎、大塚三助、これらの武士もそのとき鑓を合せた人々である。
その後、七月に入って高天神は落城となったのであるが、それは「猿もどり」という郭を岡部治郎右衝門の軍が攻めていて、そのとき次郎右衛門の配下の朝比奈金兵衛という若者と、右に話した剛強の武者・岡部治部が、一番に郭の塀に登って攻めたので落城となったのだ。けれども岡部治部はそこで討死した。金兵衛に続いて塀へ乗りあげて戦ったのは岡部忠次郎、鈴木弥次右衛門である。その後ついにかなわず降参いたし、小笠原は、富士の下方の地域で一万貫の所領を与えるという御約束のもとに、高天神の城を勝頼公に明け渡したものだ。
◆ 信長は家康を支援して後陣から出動したのだったが、高天神城が落ちたと聞いて早々に兵をひき岐阜へ帰障した。
◇ こうして遠州の城東郡は勝頼公の御代になって所領となった。その年の春、美濃において数カ所の要害を攻め落としなされたので、信玄公よりも勝頼公の兵力の方が強力だとあちこちで評されもしたが、信玄公の名大将としての御威光が強かったためで、心底から大小上下の者がそう思って評したわけではない。こうして城東郡のご処置をすませてから、勝頼公は七月に御馬を甲府に戻された。これは勝頼公二十九歳の御時のことである。
◇ 甲府の御館で御祝事となり、杯を出して御盃を侍大将に下された。高坂弾正は御盃をうけて立ちながら飲み、長坂長閑に向って、武田の御家の減亡ときまった御盃こそこれだともらした。
長閑はそれを聞き、それは言ってはならぬ弾正の言いかただと応じたものだ。
その後、内藤修理と高坂弾正の二人が同時に言うのに、三年のうちに当武田家は滅亡するだろうとのこと、その理由を聞くと内藤も高坂も次のように挨拶した。東美濃で数カ所の城を攻め落し、そのうえ高天神城をも落して、城東郡を御手に入れられた。だから、これからは各家老の意見を勝頼公は聞き入れて採用することがなくなる。
そして、長坂長閑・跡部大炊助の言うがままになり、そうこうしているうちに、信長・家康の両連合軍を相手になされて、勝頼公は無理な一戦をなされ、諸将那皆討死して、それ以後の武田家は滅亡するだろうこと疑いない。それも元はといえば、東美濃・遠州城東郡の両所で戦勝し、しかも一年のうちにそういう手柄をたてたことに起因するのだ。と語る。
各武将はこれを聞き、高坂・内藤は何と臆病な推測をするものだと笑った。これらのことに関して、さらに長閑・大炊助が話されたから、勝頼公も内心は高坂・内藤を心よくお思いにならなかったけれども、信玄公御代からの重臣であるからして、高坂は勝頼公の御近くに参上しては、人を退けて意見を申し上げた。
◇ 高坂弾正申し上げる
すなわち、東美濃を信長の子息が統治していたから、その御坊(織田信長の五男、勝長)に下さって、誰か近い御親類をえらんで祝儀をなして聟とし、信長と和睦を結びなされよ、というものである。また城東郡を家康の弟源三郎(康俊)に与えなされよ。
この源三郎は、信玄公の御代に人質におかれ、その後出奔したけれども、和睦なされば水に流し、信玄公御息女子のおきく御料人は伊勢の長島へ嫁ぐべく信玄公が考えられたのだったが、家康のこの弟の所へ御料人をとの話もあったことです。こうして信長・家康と和議を結ばれて、小田原(北条家)を攻略なさることです。そうなされば信長の御恩があるから家康はかたじけなく思い、加勢をするはずです。
信長は信長で都の敵を制圧するために、我らとの和睦を歓迎いたし、北条攻略に加勢の軍をさし向けると存じます。そうなれば我が武田勢が所持する国は、小田原の北条の持ち分が一つ加わって、そこを支配すれば、以降は勝頼公のお考えになられることが実現しやすくなること確実と存じます。と弾正は勝頼公に申し上げる。
◇ 長坂長閑が申す
ところが長坂長閑はこれを聞いて、もったいたいことをいう弾正の誤った判断だ。都への制覇を望まないで、向いあう敵と和睦して、今まで味方であった北条殿を敵にまわすということ、それはまったく戦略を心得ぬことと存じます。領有した国郡を人手に渡すということは、下劣なたとえで、猫に鰹節というのが、おおかたこの弾正のような分別のなさをいうのではと長閑が言ったので、勝頼公は長坂長閑の意向を尊重しておられたから、高坂弾正の申し上げた意見はおとりあげにならずに終わった。(中略)
勝頼、信州伊那で祖父信虎公と対面
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
◇ 勝頼公は平山を越えて信州伊那へ御軍馬を入れた。その伊那で、信虎公八十一歳であったが勝頼公と御対面となった。甲州へ信虎公を迎え入れてさしあげるということについて、長坂長閑が考えて申すのに、信虎公は普通の者とはちがった荒大将で、いくつになられても御遠慮などはなさるまい。さらに逍遥軒(信廉)、一条殿(信竜)、兵庫殿(信実)、典厩(信繁)。以上信玄の弟、穴山殿(信玄の妹を妻とする)そのほか御親類が多いので、逆心なさって政変ということにもなりかねない、という意見によって信州伊那で御対面となった。
長閑が心配したように勝頼公との御対面の座で、勝頼公は、母方は誰になるのか、と尋ねなさる。長閑はひきとって、諏訪の頼茂(頼重)の娘の子供でいらっしゃいますという。
 信虎公はすこし御機嫌ななめになり、勝頼公は今年で幾歳かと尋ねなさる。長閑はうけたまわり、二十九歳におなりですと申す。その後はそれぞれの侍大将衆のことをお尋ねになった。が、昔の親の名字を名乗る者は一人もいなかった。工藤源左衛門は内藤修理と称し、教来石民部を馬場美濃守といい、飯富兵部の弟は山県三郎兵衛と申す。高坂弾正についてお尋ねなされる。伊沢(石和)の春日大隅の息子ですと申し上げる。信虎公はそれをお聞きになり、百姓を大身の地位にまでしたのは、信玄の考え違いだと仰せられる。
その次に武田の御重代(祖先伝来の宝物)、左文字の刀剣を、押板の上に置きなされたのは、信虎公が四十五歳で甲州を御出立なされた時で、あれから三十七年たって、今八十一歳となり帰参なさろうとしているという話になる。
孫であられる勝頼公に御対面であるから、武田の御重代であるその名刀を御座敷に置きなされるのは当然である。
そこで信虎公は、その御腰物(名刀)を抜きなさって、かつてこの刀で五十人あまりを御手うちなされたのだが、その中に内藤修理と名乗る奴の兄を肩から脇へ斜めに袈裟がけに切ったのだ、と言われる。
その後、勝頼公の御顔を御覧なされ、その左文字の腰物を抜いて、手に持たれたまま、袈裟切りのようになさる。座中の人女の視線はことごとく凍りつき、目もあてられぬ様相を呈したところ、小笠原慶庵という者は、心が剛強だったから、こういう機会にその武田御重代の名刀を拝見させていただきたいと願い出て、信虎公の側に参上して、勝頼公の間に割り入り、その御腰物を無理に奪いとって鞘に納め、おしいただいて長閑に渡したのだった。
信玄公のお目がねで、この小笠原慶蕃をたのもしいとお認めになり、御咄衆の一人として、話相手になされて、大勢の中からこの慶庵を大事な場所へも連れて行かれたものだったが、やはりこの様に剛たる者と慶蕃を見抜かれた信玄公を、諸人が尊敬したのはもっともなことである。その後すぐに勝頼公は甲府へ御帰りなされたけれども、信虎公は、伊那へそのまま留めおかれたのだったが、それは長坂長閑の判断がよかったといえる。信虎公はやがて御他界となられた。
信玄弔のこと
『甲陽軍艦』品第五十一「甲州味方衆の心替わり」
(『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
◆ 小田原の北条氏政より、信玄公は御他界かとその真偽を見届けるために、坂美岡(板部岡)江雪をさLむけてきた。
◇ 武田の家老は申し合わせて一計を案じ、江雪をしばらく引き留めて適当にもてなし、そのあと夜に入ってから逍遥軒を信玄だと申して御対面の場を設け、八百枚の紙にしるしおいた御判の中から、いかにも不出来な御書判をえらんでそれに御返事を書いて江雪に渡した。
◆ さすがに賢い江雪もそれを信じて小田原へ帰り、信玄公は御在世だと氏政へ報告申し上げたから、御他界のうわさは聞かれなかった。
◆ 小田原の北条家はそのようだったけれども、三河の先方衆の中で、奥平父子(貞能とその子九八郎)の挙動があやしく裏切りの気配があるため、誓紙により確かめを命じ、さらに九八郎の奥方を人質にとった。それを信長が知って、家康の聟に九八郎を(家康の女、亀姫を妻にする)ということで、信長がとりもったので、奥平父子は逆心というかたちになった。そのため人質の奥平九八郎女房は、勝頼公によって磔礫刑にかげられたのだ。奥平は、長篠の城にたてこもることになった。
◇◇ 天正三年乙亥四月十二日に信玄公の御弔がおこなわれた。
宗旨は禅宗関山派、本寺は京都妙心寺である。その東堂衆で以下七仏事ということでおこなわれた。
その次第は
鎖龕(さがん・お棺を寝室から法堂に移す式)は藍田和尚(甲府東光寺)、
掛真(無き高僧の掛け軸を掛けるは東谷和尚(駿河臨済寺)、
起龕(出棺のときの読経の式)は説山和尚(甲府円光院)、
念誦は圭首座、
葬衆は噋首座、
奠茶は速伝和尚(伊那開善寺)、
奠湯は高山和尚(甲府長善寺)、
導師は快川和尚(恵林寺)
だったといわれる(品第四)。
その道中は六間の広さにして、
道の両側には虎落(もがり)を結い、
稲莚を敷き、その上に布を敷き、さらに絹を敷いて、
勝頼公、典厩、穴山殿、仁科殿、葛山殿)、望月殿、逍遥軒、そのほか御親類衆が御竈(棺)に手をかけて御供なされた。御位牌は御曹司の信勝がお持ちになり、その時九歳だったが御供していかれた。
ほかに侍大将衆、直参衆が御供する。又被官衆は虎落の外でお見送りした。東堂達がなされた儀の中では、長禅寺の高山和尚の奠湯をよく覚えているのであるが、ともかく以上記し置く。
一服反魂死諸葛 作竜呑却尽扶桑。
一服の箕湯で魂はよみがえり、
死せる諸葛孔明、
生ける仲達を走らすといった故事のように、
竜となって日本国中を制圧する。
◇ 右の葬儀のあと、勝頼公は出発たされて諏訪明神へ御社参なされたが、そのとき御鑓が折れた。続いてそれから高遠の城へ到着たされるおりも、堅固な橋が折れて、御供の小人衆が一人死んだ。勝頼公は御馬のあしらいが上手であられたから、蹴立てて逃れた。御馬の後の左足が、橋の崩れかかったところであやうくとまったので無事だったから、やはり運がお強くめでたいことだ、と言う者もあれば、こんな堅固な橋が崩れるなんて、物怪(もののけ)につかれたような無気味なことだとつぶやく者もいた。以上。
 天正元年四月、信玄公は御他界。
天正元年四月、信玄公は御他界となった。その年の秋、勝頼公は二十八歳で遠州へ進攻していた。草履取、二十人そこそこの中の小者十五人が挾竹を持ち、軍の後方に従っていたところ、敵方の馬乗が三騎襲って草履取りを一人斬った。ところが残りの十四人が馬乗を一人討ちおとし搦とってタ暮れに金谷(榛原)に着いて、この生捕った敵を報告いたした。
武田勢は五十騎も六十騎もその後から進軍していたから、それほどの手柄というわけではなかったけれども、本隊と離れたところで、しかも懸川(掛川)と久能との間の敵の領分の中でこのようであったのも、よくよく勝頼公の御先鋒赤強かったからである。これとても信玄公の威力の蓄積があるからである。馬場美濃・内藤修理・山県三郎兵衛・高坂弾正といった各巧者衆の批判は、武田の軍カがすでに頂上に達している証拠で、大いに危いことだというのである。
こういう意見も、ひとえに大敗ということの兆しだというので、ことのほか侍大将衆が悔んで語ったわけだが、後になって現実となったのであった。
甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 
発行者 高森圭介氏)
〔読み下し〕
其後勝頼公、信州より、遠州平山越を御出あり、三州うり谷と云ふ所へ、御着被一成、長篠奥平籠居たる城へ、取懸御せめなされ候に、家康後詰ならず、結局山県三郎兵衛に、おしつめられて、悉く塩を付られ侯ゆへ、信長引出す。
其使は、家康譜代の旗本奉公人、小栗大六と申者也。二度の使に、二度ながら、信長出まじきとの御返事也。三度に、家康小栗大六に申付らるゝは、
「信長公と起請を書、互に見つき申べきと、申合侯ごとく江州箕作より、此方若狭陣、姉川方々へ、我等も加勢仕り候、此度信長公、御出なくば、勝頼公へ遠州をさし上我等は、三河一国にて罷有侯はば、誰今にも、四郎殿と無事申べく候。左候て、信長今一度長篠の後詰、無御座を付ては、申合候起請、そなたより、御破なされ候間、是非に及ばず、誓段を水に仕り、勝頼と一和して、先をいたし、尾州へうちて出、遠州の替地に、尾張を四郎殿より、申請べく候。さるに付て、四郎殿を、旗本にて、我等はたらき、出る程ならば、恐らくは、十日の間に、尾州は、此方へかたづき申べきと、存候へ共其儀しろく申事は無用、大形聞知り給ふやうに、矢都善七迄、申理(もうしわけ)侯へ」
と、家康、小栗大六に被申越候。
又、信長家老毛利河内、佐久間右衛門、加勢に参り候へども、三州長沢より、此方へ出る事ならず候。
さる程に、小栗大六、岐阜へ罷越、此趣をば、おしかくし、たゞ信長殿、御旗本を、出され候やうにと、申候へども、三度目の使ひに、出まじきとある儀也。
そこにて、家康使の右の奥意を、矢部善七に、粗(あらまし)申渡す故、信長出る也。又さすが大身の信長も、若き勝頼公を、ふかみ(重く見てと)、出かねられたるとは。其後熱田大明神へ参詣有て、なめかたの謀有。是にても諸人勇なし。
かくて長篠へ着て、軍の評定し給へ共諸人弥勇(いよいよいさま)ざれば、酒井左衛門尉に、夷くいの狂言を被仰付。此者聞ゆる名人なれば、甲を脱て高紐にかけ、誠に面白く舞済し、鼻をかみ引入時、諸軍一度に、どっと笑、此勢を以、明日の合戦談合有所に、右の左衛門尉かけ出、今夜九里の道を廻り、鳶ケ巣へ押懸、一戦を遂ば、明日の御一戦必勝也と申、信長公大に瞋(いかり)給ひ、今日本に、信長、家康出合、軍の詮議仕中へ、匹夫の身として、推参也と、散々悪口はき散して、小用有振にて立給ひ、物影へ酒井を招、天下一の謀也、今此辺の者共、一石の米を六斗は、武田方へ運ぶ折柄なれば、態こそ悪口したれ、金森五郎八を召連、早速打立候へとて、元の座席へかへらるゝ。此事共、合戦過て後、五十日の内に聞えたり。
◇〔訳、原本現代訳『甲陽軍艦』〕
勝頼公は信州から遠州平山越えに進み、三州のうり谷という所にお着きになって、長篠の奥平(九八郎貞昌)のこもる長篠の城を囲み、お攻めになった。
◆ 家康は、支援にかげつけようとしたがならず、結局は、山県三郎兵衝の軍に妨げられて、相ついで合戦に敗れたため、信長の軍をひきだした。その使者は家康譜代の旗本の奉行人小栗大六(重常)という者である。二度にわたる督促の使いにも、二度とも信長は応じないという御返事である。
そこで三度目には、家康は小栗大六に申しつけた。家康は信長公と誓約を交わし、互いに助け合うとお約束申したとおり、江州箕作の戦い以来、若狭・姉川等あちらこちらで加勢申し上げてきた。この度、信玄公の御来援がないならば、遠州を勝頼公に進呈し、我らは三河一国に甘んじることにより、只今にも勝頼四郎殿と和睦をいたします。この度、長篠城への御支援がないということについては、これまでの誓約は、そちらからお破りなされたわけでありますから、やむなくお約束は水に流し、勝頼と結んでその先鋒をつとめ、尾張へ討って出て、遠州の替地に尾張を攻めて勝頼殿から尾張をいただくことになります。そこで、四郎殿を総大将として、我らが戦うならば、おそらくは、あっという間に尾州の国はかたがつき、きっとこちらのものになろうかと存じます。
といった意味のことを、明らさまにいうことはないが、しかし信長公の耳にあらまし聞こえるように、矢部善七(康信)に向かって確かに伝えるようにと、家康は、小栗大六に申しつけた。
なお、信長の家老、毛利河内(秀頼)、佐久間右衛門(信盛)も援兵に出ていたけれども、三州の長沢からこちらには出ることができずにいた。そのうち、小栗大六は岐阜に到着し、いわれた主旨は伏せたまま、ただ信長公の御旗本勢の御出馬をお願いしたいと申し述べたが、三度目の使いにもやはり出る考えはないとのことである。
そこで家康への使いとして右の真意を矢部善七にあらまし申し渡したので、信長は出陣した。さすが大身の信長も、若い勝頼公が強気なので、出兼ねておられたのだったことは、合戦が終わって五十日のうちにうわさとなったことだ。
◇ さて、その長篠において、
武田の家老の馬場美濃、内藤修理、山県三郎兵衛、小山田兵衛尉、原隼人その他の老若すべての人々が、
「御一戦なさることはこれ以上無用です」、
といろいろお諌めしたけれども、御屋形様勝頼公と長坂長閑、跡部大炊助とは合戦を決行してよいと決められた。
御屋形この時三十歳で若かったので、それをもっともと思われ、明日の合戦はもはややめられぬと、武田累代の御旗と楯無しの鎧に御誓言なさった。その後はだれもが何も申し上げることもできず、
三州長篠において、天正三年(1575)乙亥五月二十一日に、勝頼公三十歳の大将として、その兵力一万五千人、敵は信長四十二歳、その子息城介殿(信忠)二十歳、その弟(織田信雄)十八歳、家康三十四歳、その子息(松平信康)十七歳、兵力は信長、家康の両軍合せて十万で決戦となった。
さて、上柵を二重に設けて、要害を三つかまえて待ちうけているところへ、勝頼公は一万二千の兵で攻めかかって攻防の一戦がなされたが、武田方が全面的に勝利した。
それは、馬場美濃守が、七百の兵で佐久間右衛門の率いる六千ばかりの軍を柵の中へ追いこみ、追い討ちに二、三騎を討ちとる。
滝川(一益)の兵三千ばかりを、内藤修理勢が千ほどの兵で柵の内へ追い込んでしまう。
家康の軍勢の六千ばかりを山県三郎兵衝が三千五百の兵で柵の中へ追いこむ。けれども家康軍も強敵だから再び突進して来る。
山県勢は味方の左側の方へ廻り、敵が柵の木を仕立て無い右方へ進攻して背後から攻めかかる態勢をみせたのを、家康勢も察して、大久保七郎右、衛門が蝶の羽の印の差物(鵡欄敵)をかざして、大久保次右衝門は釣鐘の指物で兄弟だと名乗りあげて、山県三郎兵衝衆の小菅五郎兵衛、広瀬江左衛門、三科伝右衛門の三人と声を発しながら追いつ追われつ九度の攻防が繰り返される。
九度目に三科も小菅も傷ついて退く。さらに山県三郎兵衛が鞍の前輪のはずれた所を、鉄砲で前から後へと打ちぬかれてそのまま討死したのを、山県の被官であった志村が、首を甲州へ持ち帰る。
そのあと甘利衆も一接戦あり、原隼人衆も一戦あり、跡部大炊助も一せり合い、小山田衆も一せり合い、小幡衆も一せり合い、典厩衆も一せり合い、望月衆も安中衆(安中左近)も、いずれの軍蟄も戦闘で皆柵際へ敵を追いつめて勝利した。
甲州武田勢の中央の軍と左翼の戦いは以上のようなものである。
さて右翼の方は、真田源太左衛門(信綱)、同兵部助(真田昌輝)、土屋右衝門尉(昌次)この三将で、馬場美濃衆と入れ替わり戦ったが、上方の軍勢は家康衆のようには柵の外へ出て来ないので、真田衆が攻めこんで柵を一重破って突進した、そのためあらかた討死してしまった。あるいは何とか重傷のまま引き下った者もいたが、その中の真田源太左衛門兄弟はともに深手を負ったまま討死した。
次に土屋右衛門尉は、先月の信玄公の御葬儀では追腹(殉死)をはたそうとしたが高坂弾正に意見されて、このような合戦まで待てと言われたにつき今まで命ながらえてきた。今こそ討死するのだと言って、敵が柵の外に出て来ないので、自分から攻め込んで柵を破ろうとし、そこで土屋右衛門尉は三十一歳でそのまま討死となった。
馬場美濃守のひきいる七百の部隊も、
あらかた負傷して退き、または討死して残るは八十余人。美濃守自身は軽傷も負っておらず、他の同心や被官たちに早く退けとすすめなされたが、さすが武勇の武田勢ゆえ、美濃守をさしおいて退こうとはしない。
穴山殿は戦闘を交えることもなく、退く。
一条右衛門大夫殿(信竜)が馬場美濃守の近くに馬を乗り寄せて一所にいるとき、一条配下の同心和田という者は、三十歳ほどであったが、合戦慣れのした利口な武者ゆえ馬場にむかって、下知をなされるようにという。馬場美濃守はにっこりと,笑ってそれを聞き、命令するとすれば退くよりほかはあるまい、と退却を始めた。しかし、御旗本隊が退くまでは、馬場隊も退かず、勝頼公の「大」の字の御小旗が、敵にうしろを見せたのを見とどけてから馬場美濃も退かれた。
そのあとは一条殿も他の軍も退きなされた。
だが馬場美濃守は、いったん退却しながらも長篠の橋場までくると少しもとへ引き返し、高い所にあがって、我れこそは馬場美濃という者なり、討ちとって手柄にせよとまことにみごとに名乗る。敵兵四、五人が鑓を取って突きかかるのに刀に手もかげず、この歳六十二歳で討死をとげる。これは、勝頼公にこの合戦を思いとどまられるようにと意見したとき、この美濃守の意向をお聞き入れがなかったので、そこで長坂長閑、跡部大炊助にて、合戦をおすすめするおのおの方は遁れることがあろうとも、おとどめ申す馬場美濃はおおかた討死をとげるのだ、と述べた、そのことば通りであった。
ここで勝頼公につき従っていたのは、初鹿伝右衛門というこの年三十二歳の者、土屋惣蔵その年二十歳の二人が御供であった。土屋惣蔵は若いけれども剛強な根性があるから、兄の右衛門尉をたよりなく思って、かわりに二度かばって後退する。勝頼公は土屋惣蔵をふかくいたわっておられたから、二度とも御馬をとめて惣蔵を先にやりすごしながら立ち退きなされる。
その次に典厩の歩兵三十ほどと、馬乗三騎の将が後退したが、幌を着けていなかったから勝頼公は声をかけられた。金地金泥の幌に四郎勝頼と我らの名を書いて、信玄公の御時には先鋒をつとめたものだったが、今は我らが屋形の立場にいるから、その線を典厩に譲った。これを捨てなされば、譲るのは内輪のこと、勝頼が指物(標識)を落して逃げたといわれては、信玄の一代の名誉と御名をよごすことになる。とくに武田家、二十七代までのうちで勝頼一人が不孝をしたことになる。だからこの幌を捨てては退くわけにはいくまい、
と仰せられたので、初鹿伝右衛門は典厩の所へ乗り寄せこの由を伝えると、さすがは武田の武者、旺盛に戦って幌串をひろい、典厩の御供の青木尾張という者がこの幌衣をひろって首に巻いてもってきて伝右衛門に渡した。これを伝右衛門は請けとり勝頼公にお目にかけると、勝頼公はそれを御腰にはさんで立ち退かれた。伝右衛門はこの間、御使いに参上し、往復五六町働き廻ったが、そのうち勝頼公は御馬をとめられた。それは御馬がくたびれて動かなかったので、初鹿伝右衛門が御馬に声をかけて進めようとしたのだが、昔から今にいたるまで武勇の大将の敗け戦には、えてして馬も進まぬものなのだ。
そんなところへ笠井肥後守(河西満秀)という、信玄公の御代から旗本において指おりの剛強な武者が、どこかで勝頼公の御馬が動かなくなったと知って馬を速めて駆け付けてきて、馬からとび降り、この馬にえさを与えるからと言う。
勝頼公が言われるのに、そんなことをしていると、そなたは討死してしまうぞとの御言葉に、ものともせず、肥後守の命は義理よりも軽いことです。この命は主君への恩の為にさしあげます。我らの倅を以後取り立てていただければそれで満足、と言って屋形(勝頼公)を馬にお乗せする。自分は屋形の御馬の子綱をとって誘導いたし、それから元の戦場に一町ほどもどってから討死した。
さて信玄公が勝頼公へ御譲りし扱いを許しなされた、諏訪法性院上下大明神と前立に書かれた甲は、信玄公が御秘蔵になされていたから、諏訪法性の御甲、とこれを呼ぶ。この御甲を勝頼公も御秘蔵されておられたけれども、五月の頃とて暑いため、初鹿伝右衛門に持たせておられた。伝右衛門はあわただしく急ぎのあまり、この甲を捨ててしまおうというわけで捨てたのだ。けれども小山田弥助という武士が、あとからこれを見つけて、名高い御甲を捨てるのは何としてもといって持ち帰った。このように何も残さない心意気、義理深い剛強な心というのは、ひとえに信玄公の御威光が強くしみわたっているたまものである。 
御他界は天正元年酉の年だけれども、天正三年乙亥五月までの三年間は、ともかく強かったことは以上の通りである。これは勝頼公三十歳の御年のことで、三州長篠の合戦をいうのである。
甲州方は、侍大将、足軽大将、小身な兵まで、また剛強な武士とことごとく討死した敗北の合戦であった。討死した将は、
馬場美濃守、内藤修理、山県三郎兵衛、原隼人佐、望月殿、安中左近、真田源太左衛門、真田兵部助、土屋右衛門尉、足軽大将の横田十郎兵衛で、他はまた追って記したい。
城伊庵 (城景茂)は深沢(御殿場)へ、小幡又兵衛は足助(愛知県)へ出動していたから、この両人は足軽大将として残った。 
御飛脚がたてられてすぐに甲府へ呼びもどされた。
甲州勢がこの合戦で少勢だったのは、越後の謙信から前年(天正2年)の十二月に、一向衆長遠寺(長延寺住職)を経て勝頼公に御断りがあったのによる。それは、遠州・三州・美濃の三カ国を制圧しつつ来春、勝頼公は御上洛なされよ、謙信は越前から上洛をめざすから、というのであった。が、勝頼公が承諾した旨の御返事をなさらなかったから、輝虎が立腹されたのだった。さらに東美濃、遠州の域東郡で、勝頼の先鋒が見事だと聞いて、謙信が信濃へ進攻したければ勝頼公を恐れてのことだ、などと諸国から言われてはと考えて、信濃へ手をだすかもしれないと内々考慮しているとの報もあって、一万余の信州勢を高坂弾正に任せて越後のおさえこみに置きなされたからだった。だから勝頼公の総勢は、長篠へは一万五千で出陣なされたのである。
その中でも長篠の奥平貞能のおさえに二千の兵を割き、鳶巣山には、兵庫殿(武田信実)を大将にして、浪人衆、雑兵千人で、名和無理介、井伊弥四右衛門(飯尾助友)、五味与三兵衛(高重)の三人を頭にして差し向けておいた。この方は一人も残らず兵庫殿をはじめあらかた討死であった。このように一万五千のうち三千の兵を失って、信長、家康勢に向うのはただ一万二千ということになったのだった。
高坂の異見 甲陽軍艦 品第五十二 長篠合戦
(『武田流軍学』吉田豊氏著 『甲陽軍艦』原本現代訳 発行者 高森圭介氏)
高坂弾正は、謙信勢をよく牽制しておいて、八千をひきいて駒場まで御迎えに出た。三年前に信玄公が御他界なされたおりも、このようだった、と高坂弾正は想いかえす。
信玄公の青貝で飾った御持鑓に、小熊の垂れの鑓印二十本、亀の甲の御鑓二本と合せて二十二本、鑓持の羽織まで段子にして慎重に支度をし、あちこちに伏兵を二人、三人と二日にわたって出し、甲府へ勝頼公が御到着になるまでは、少しも御旗本に支障がないように勝利したようにとりはからったのも、高坂弾正のやさしさと、信玄公から受けた御工夫の教訓の深さを身につけていたから、このようなことができたのだ。
以上のようなわけだったけれども、都の町人その他諸国の商人は甲府にもいたから、落書を札に書いて言ったものだ。
〃信玄の後をやうやう四郎殿、敵のかつより名をばながしの〃
(信玄公の後を「枕草子」の冒頭、春はあけぼの、やうやう白う----というように、四郎殿も明るく継ぐかと思ったが、敵が勝つことにより、勝頼公は長篠で名声を流してしまったことだよ。)
 
◇高坂弾正は勝頼公へ五ケ条にわたり意見を申した。
◇ 駿河・遠州は氏政へさしあげて、北条氏政の幕下におなりになり、勝頼公は甲州・信州・上野の三カ国を統治して氏政の御先をつとめなさることで交渉なさるのが妥当であること。
◇ 右に関して氏康は御娘子がおられるから、むかえて勝頼公が氏政公の御妹智におなりになるのが穏当であること。
◇ 木曾(木曾義昌)を上野小幡へさしむけ、小幡上総を信州の木曽(福島城)へ配備なさるのが適当であること。
◇ ただ今まで足軽大将衆に皆兵を持たせられてきたが、馬場、内藤、山県の三人の子供をはじめ、皆同心をとりあげて、(固定的な関係でない)奥近習とし、小身として召しつかわれることです。明日にも我れらの命はてたならば、我れらが子息、源五郎も小身の地位になされて我らの同心、被官の誰にでも御配置いたされるのが妥当であること。
◇ 典厩・穴山殿には腹を御切らせなさるべきです。穴山殿を典厩に仰せつけられ、典厩を我らに御命じになられるのがもっともだと申し上げたけれども、勝頼公が御承諾なされず、五ケ条のうち小田原北条氏政の御妹聲におたりになったことだけが、配慮された唯一の点だった。
あとは、真田源太左衛門のあとに弟の喜兵衛(真田昌幸)を任命されたことくらいである。
◆ 信長、家康はこの合戦に勝ち、めでたいとよろこび、信長が家康に向かって言った。
◆ 「その方に駿河の国をさし出そう。三河、遠州については異議なく城を明け渡すものだ。駿河は家康自身で統治できかねるなら加勢いたす」が、というのである。
家康は答えて言った。
◆ 「我れら一身を投げうつ覚悟であるから手こずるようなことはまずあるまい」
と言うと、信長は機嫌よく、
「では我れらは東美濃の岩村(聰那)を攻め、秋山伯耆、座光寺そのほかの武田勢を討ちとる」
というので、三年のうちには信州へとりかかるつもりで、まず岩村へ軍を寄せていく。秋山伯書は軍を出し、信長の軍とにらみあったままで、そこはそのままで押えおき、越前へと進攻し、その年七月には朝倉(義景)を倒す。
◆ 一方家康の方は、長篠の合戦の勢いをかりて、駿河の油井、倉沢まで攻略し、引き返して遠州二俣を攻めたが、芦田は少しも弱気を見せない。そこで家康は三河侍を皆石集し、猿楽をあつめて一日能を演じさせる。次の日に懸川へ軍を進め、その次は諏訪ノ原へ攻めかかり、六月七月八月まで攻め続けたので諏訪の原城は家康に明け渡される。
◆ 家康の家老の酒井左衛門(忠次)という侍大将は言った。甲州方の城はすでに攻め落したのも同然、以後次第に落城していくはず。一気に攻めかかりなされと申す。
◆ 家康はしかしそれを聞き入れず、小山の城を攻めよと命令する。
◆ 酒井左衛門は申す。信玄の武道は古今例のないほどだったから、その跡つぎの勝頼はすぐに後陣をしいて支援するだろうと言う。
◆ 松平左近という家康の家老は、やはり小山城に攻めかかりなされと申す。勝頼公は、五年や三年の間は出動不可能である。理由は、すぐれた武将をはじめ大小の兵を多く討死させ、そのうえ越後の謙信に信濃をとられない様にと努めねばならないからです。どうしてこちらまで出動する余裕などあり得よう。今のうちに小山城を攻め落しなされば、高天神・二俣の両城も難なく攻め取りなさることもできます。と婆言したこともあって、左衛門尉もそれに賛同し、小山城へ攻め寄せた。小山城には駿河の先方侍大将が五頭たてこもって守っていた。
◇ こうして八月に入ると勝頼公は甲州・信濃・上野勢で、名の通った者の子孫や、若い者で出家になったり、町人になっている者を皆召集して二万あまりの軍をしたてて、八月中旬.に遠州小山の支援をした。家康勢はこの様子をみて、小山城をとりまいた軍をといて立退いたのだった。駿河の先方衆は城からも出て、その後退を妨害した。酒井左衝門尉衆の中の戸田左門が、大津土左衛門と名乗っていたが、その者がしんがりをつとめた。高坂弾正はこの時も御意見を申し上げ、勝頼公がこの際に有無をいわず決戦をと言われたのを、引きとめたのだった。というのも、負けて以降、百日たらずで出陣したのだから、敵は勝ちほこった勢いがあり、とりまいた城をとかせて圧倒しただけでも、武田の武威がまだ衰えていない証拠だと弾正がしきりに力説申し上げ、引きとめ申したため合戦にはならず、互いに軍を引いたのだった。
◇ 勝頼公は、小山の城に逗留なされて、小身なのに小山城に籠城してよく堅固に維持し活躍し、功あったとて御感状を下された。その御感状を受けた衆は、蒲原小兵衛・鳥井長太夫.朝倉六兵衛・朝比奈金兵衛・村松藤左衛門・望且七郎左衛門・岡部忠次郎・・鈴木弥次右衝門・末高・杉山。以上であった。





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最終更新日  2021年11月10日 10時27分05秒
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