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2021年11月10日
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白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信春(信房が正しい)(『白州町誌』)
馬場氏の系譜
「寛政重修諸家譜」に清和源氏義光流武田支流とあり、「姓氏家系大辞典」(太田亮著、角川書店)にも清和源氏の後裔としている。前書によれば、次郎兵衛信周がとき罪ありて家たゆ、庶流吉之助通喬(馬場氏の庶流で信州下ノ郷生島足島神社武田将士起請文六河衆の列に見ゆ)が呈譜に、桑祖下野守仲政(按ずるに仲政は源三位煩政が父にて頼光の流なり)はじめて馬場と号す。其の裔甲斐教来石にうつり在し地名をもって家号とし代々武田家につかえ、駿河守信明のとき、武田信重の婿となり馬場にあらたむ。その男遠江守信保、英男美濃守信房にいたり武田の一族につらなり花菱の紋をうくという。
同書の説明によると、遠江守信保は武田信虎につかえ、甲斐国武川谷大賀原根小屋の城に住すとあり、
美濃守信房については
通喬が呈譜に信保が長男を美濃守信房
はじめ民部氏勝とし
武田の老臣馬場伊豆守虎貞が家名を継ぎ、信虎、信玄、勝頼に歴任し
はじめ信濃国高遠、後に同国槙嶋の城に任す、三百騎の士をあづかり士大将に列し
武田一族につらなり花菱の紋をうく
天正三年五月二十一日長篠の役に戦死す。
法名乾忠、甲斐国東林寺に葬る。
と記している。
・信保の二男(信房の弟)善兵衛、はじめ隼人信頼とし、兄信房が家摘となり、
・後故ありて甲斐国を退去し和泉国淡輪に蟄居す。
・その男を信久なりという、根小屋城に任す、慶長十五年十月死、年八十、法名浄心。
信保 遠江守
―信房(美濃守信春)―昌房(信春)(「武田三代記」に)見ゆる馬場民部少輔か)
―信頼(善五兵衛)―信久―信成(武川衆十二騎に見ゆ馬場民部)
馬場美濃守の系譜〔馬場信成(民部右衛門尉)〕「寛政重修諸家譜」
武田勝頼に仕え根小屋(現在の台ケ原)に任す。
天正十年勝頼没落ののち東照宮甲斐国にいらせたまふ時、武川の諸士とともに御磨下に
属し、
北条氏直若神子に出張するとき相謀りて小沼の小屋を攻おとし、
のち新府に渡御ありて北条氏と御対陣のときしばしば軍功を励みしにより、
諸士とおなじく本領の地をたまひ、
天正十二年小牧陣のときも亦ともに信濃国勝馬の砦をまもり、
のちまた尾張国一宮城を守衛す、
天正十三年九月真田昌幸が居城を攻めらるるときは、大久保七郎右衛門忠世が手に属し、
また人質として妻子を駿河国興国寺に献ぜしかば、諸士一紙の御書をたまはり、
天正十八年正月二十七日釆地をくはへられ、この年小田原陣に供奉し、
八月関東御入国のとき甲斐国の釆地を武蔵国鉢形のうちにうつされ、番をゆるされて釆地に任す。
 天正十九年九戸一揆のときも忠世に属し岩手沢にいたる。
慶長五年台徳院殿(秀忠)に附属せられ、
大久保相模守忠隣が手にありて信濃国上田城を攻め、
慶長九年三月二日武蔵国のうちに新恩の地百石を賜い、
慶長十五年十月死す。年八十、法名浄繁。
 
馬場美濃守の系譜〔信成の子、馬場信正 「寛政重修家譜」〕
信正は次郎兵衛 (また八郎左衛門)といい
家忠・家光に仕え下総国宮川村に百六十俵の釆地を賜う。
信正-信政(廷宝~元禄)―信通(元禄~享保)―信周(享保~宝暦)-信方(宝暦)
馬場美濃守の系譜〔馬場美濃守信房「姓代家系大辞典」〕
 清和源氏の後裔甲甲斐国教釆石に移りて教来石(敬禅寺)氏を称す、
駿河守信明に至り武田信重の婿となり馬場に改む。
その男遠江守信保、其の男美濃守信房なり。
信房は初名景政また氏勝、民部少輔と称す。
その族馬場虎貞武田信虎を諌めて殺される。
信玄に至りその後無きを燐み氏勝に追跡を襲がしめ、
信の字を賜いて芙濃守信房と名乗らしめ、又信春と云ひ、後に信勝という。
 信濃国更級郡牧野島城は一に牧島城とも云う、
牧野島邑(牧郷村)にあり、永禄五年八月廿八日、信玄、馬場民部景故に築かしめ百五 
十騎にて守らしむ。
又三河国設楽郡市場村古宮城は馬場氏の縄張、
又遠江国榛原郡諏訪原城は天正元年秋築く馬場美濃守の縄張也と、その他多し。
天正三年五月二十一日長篠役に戦死す。
馬場美濃守の系譜〔信房の子 馬場美濃守信春 昌房「姓代家系大辞典」〕
その子民部信春は一に昌房と称す、
天正の初めより深志城(松本城)を守り、
天正十年三月織田の兵に攻められ甲斐に帰りて死せし如し。
一族江戸幕臣となり、寛改系譜此の流五家を収む。家紋割菱。
馬場美濃守の系譜〔信房の二男、善五兵衛信頼(隼人)「姓代家系大辞典」〕
 二男善五兵衛信頼(隼人)信房の嗣となり、甲斐を去り和泉国淡輪に任す。
その子が駿河信久也、又巨摩、山梨、八代の諸郡に任し、甲府朝気村の馬場氏は美濃守後裔と称す。
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」士庶の部〕
馬場美濃守ノ孫、同民部ノ末男丑之介、壬午ノ乱(天正10年)ヲ避ケ
其ノ母卜倶ニ北山筋平瀬村(大寧寺)ニ匿ル、
後朝気村ニ移居シテ与三兵衛卜更ム、
其ノ男四郎右衛門、
其ノ男善兵衛元禄中ノ人、今ノ彦左衛門五世ノ祖ナリ
馬場美濃守の系譜〔馬場半左衛門「甲斐国志」〕
馬場半左衛門ナル者アリ、後ニ幕府ニ仕へ尾州義直卿ニ附属セラル、
彼ガ先祖へ木骨義仲ノ裔讃岐守家教ノ男家村又讃岐守卜称ス、
家村ノ三男ヲ常陸介家景卜云フ、始メ馬場ヲ以テ氏卜為ス、
数世ニシテ半左衛門ニ至ルト云フ、
本州ノ馬場氏モ蓋シ是卜同祖ナランヤ、其ノ系中絶シテ未ダ詳ナラズ」
馬場美濃守の系譜〔馬場氏 清和源氏木曾系図〕
 兵庫頭家教-讃岐守家村(太郎)―常陸介家景(六郎、馬場の元祖)―越中守家佐(木曾ヲ馬場ニ改ム)。
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」人物の部馬場美濃守信春〕
「武田三代記」ニ云フ、馬場伊豆守虎貞ナル者直諌シテ信虎ノ戮スル所卜為ル、
嗣ナク武田晴信教来石民部景政ヲ立テ馬場氏之跡ヲ紹シム云々、
虎貞ノ事未ダ明拠ヲ知ラズ、
教来石ハ武河筋ノ村名ナリ、
彼ノ地ハ馬場氏ノ本領ナレバ時ノ人之ヲ称シテ氏族卜為ス
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」人物の部馬場民部少輔〕
美濃守ノ男ナリ‥・天正壬午ノ時信州深志ノ城ヲ衛ル、
三国志ニ「信春」ニ作ル、
一書ニ「氏員」又「信頼」ニモ作ル、
或ハ云、「信頼」ハ「信房」ノ甥ナリ戦死ノ後家督セリト、
皆明カニ証スルモノ無シ
 
馬場美濃守の系譜『甲斐国志』「士庶の部」教来石氏の項
「甲陽軍鑑」ニ教来石民部ヲ馬場氏ノ名跡トスル由見ユタリ、
其ノ余教釆石氏ノ事所見ナシ、
民部氏ヲ改ム時一族皆馬場ニ変姓ナシケルナランカ、
或ハ云フ馬場ハ本氏ナリ、教来石ニ住スルヲ以テ軍鑑ニ是ノ如ク記スルノミ、
教来石氏ニアラズト、最モ然モアリシニヤ」と記し、
「下ノ郷起請文ニ六河衆馬場小太郎信盈ノ花押アリ、
「甲陽軍鑑伝解」ニ膳ノ城ノ条下ニ馬場右衛門卜記ス、
「編年集成」慶長六年ノ記ニモ右衛門尉百石トアリ、
城番ノ記ニハ馬場民部四百石ノ高ナリ、郷村帳二百六十一石九斗八升、台ケ原村、百三十八石五斗五升柳沢村ノ内卜見エタリ
民部ハ即チ右衛門尉ノ男カ(馬場美濃守ノ男馬場民部少輔トハ別人ナリ)」
 
馬場美濃守の系譜〔「甲斐国志」庶流 三郎兵衛信盈の呈譜〕
 武田信光の五男一条六郎信長、
その二男頼長はじめて馬場を称す。
其の男小四郎長広、
其の二男権三郎はじめ民部、広政敬礼師を称す。
其の男権大郎はじめ民部、政次
其の男権太郎はじめ民部、政久
其の男権太郎はじめ民部、政長、
其の男権大輔はじめ民部、政房、
其の男権太輔はじめ民部、
其の男権大輔はじめ玄審、民部、房政、
其の男信房、これよりまた馬場を称するという。
 いま按ずるに家系詳しきごとしといへども、尊卑分脈を考えるに頼長一条を称すれども馬場を称する事所見なく、かつ寛永第一の馬場系図に支流吉之助通喬がささぐるところの譜に信房が祖をいふものと異にして、いまだいづれが是なることを詳にせず。
〔信盈が呈譜〕
美濃守信房、氏勝はじめ玄蕃、民部棒大輔政光、後美濃守信房につくる。
武田信玄・勝頼につかえ、天正三年五月二十一日長篠合戦で討死。
その子信忠、玄蕃、民部少輔、信濃国深師(深志)にて討死、法名慈源。
信忠の女は、青木与兵衛信安の妻、
次女は米倉佐大夫其の妻、
三女は曲淵仁左衛門の妻
弟信義は、東照宮にめされて御魔下に列し、甲斐国自州(白須か)、教来石、台ケ原のうちにおいて旧地をたまい
天正十七年釆地を加えられ、後御勘気を蒙る。
信義の弟房勝が家をつぎ、房家、房頼、房次とつづくが、その後不明。
白州町の歴史・史跡 馬場美濃守信房の事績(白州町誌)
・馬場美濃守の事績については甲斐国志に「天文十五年武河衆教来石民部ヲ擢デ五十騎ノ士隊将トシ馬場ニ改メ民部少輔卜称ス、
・永禄二年騎馬七十ヲ加へ合テ百二十騎卜為ス、
・同八年美濃守ヲ授ク、武田家ニ原美濃ノ英名アルヲ以テ外人其ノ称ヲ避ケシム、最モ規模トスル所ナリ。
・明年十月信州牧ノ島城代トナル、信玄ヨリ七歳前ノ人ニシテ信虎ノ代ヨリ功名アリ、道鬼(山本勘助)日意(小幡)ガ兵法ヲ伝へ得タリ、
・場数二十一度ノ証文ニ其方一身ノ走り回り諸手ニ勝レタリト褒賞セラルゝ事九度二及ブ、
・戦世四十余年ヲ歴テ身ニ一創ヲ被ルコト無シ、
・智勇常ニ諸将ニ冠タリト云フ、
・旗ハ白地ニ黒ノ山道、
・黒キ神幣ノ差物ハ日意より迄受ケシ所ナリ、
・天正三年五月廿一目長篠ノ役軍己ニ散ジテ勝頼ノ馬印シ遥ニ靡キ走ルヲ目送シテ立還り小岡ニ傍フテ座シ大ニ喚デ云フ、
馬場美濃守ナリ、今将ニ死ニ就カントスト、終ニ刀柄ヲ握ラズ安然トシテ首級ヲ授ケリ、法名ハ乾叟自元居士」とある。
【註】
 智勇兼備、戦略にたけ、築城の縄張りにもくわしく、主要なる合戦には必ず参加して功を挙げ、四十余年の歴戦に身に一創もこうむらないという。
〔教来石景政、初陣〕
 享禄四年(1531)四月、武田信虎、国人層の叛将今井、栗原、飯富らとこれを援けた信州の諏訪頼満、小笠原長時の軍と、塩川河原部(韮崎)で決戦しこれを破る。諏訪衆三〇〇人、国人衆五〇〇人討死し、栗原兵庫も斬られた。この戦いにおいて板垣駿河守信形、馬場伊豆守虎貞とともに出陣した教来石景政は、十七歳にして殊勲の功をなした。
 それ以来駿河出兵、信州佐久攻略などに参加し、出陣のたびに教来石民部景政の軍功が高まり敵軍にもおそれられる若武者に成長していった。
景政を大器に育てた指導者は、文武の道に秀でた小幡山城守虎盛のち出家した道鬼日意入道である。虎盛は景政の非凡な才能を見込んで兵法を授け、実践に必要な武器の操典を仕込んだという。
 大永元年十一月、武田信虎、駿河今川の将福島正成の大軍を飯田ケ原、上条ケ原の合戦で破り、敵将福島正成を討ちとり大勝して、甲斐に覇権を確立した。
その勇に誇り悪行つのったので、これを憂い馬場伊豆守虎貞、山県河内守虎清が諌言したが、信虎の怒りふれ諌死となる。
 天文十年(一五四一)六月、晴信、父信虎を駿河に退隠させて自立、家督を相続し甲斐の守護職となる。教来石民部景政も武川衆の一隊長(?)としてその幕下に加わった。
 天文十一年瀬沢の合戦、諏訪頼重の上原城・桑原城攻略、高遠の諏訪頼継との安国寺の合戦などに真先に立って諏訪軍や高遠軍と戦った。
〔馬場民部景政〕
 天文十二年晴信の伊那攻略に従軍、天文十五年馬場伊豆守の名跡を継いで馬場の姓を拝命、馬場民部景政と改称し、五十騎の士隊将となる。
 天文十七年二月上田原の合戦、七月塩尻峠(勝弦峠)の合戦に参加、
〔馬場民部少輔〕
十八年四月には馬場民部少輔、浅利式部を両将として伊奈を攻略、さらに十九年七月、林城(松本)を陥れ小笠原長時は村上義晴を頼って逃げのびた。
 天文二十三年六月、上杉謙信善光寺の東山に陣し、信玄茶碓山に陣す(第一回川中島の戦)、この時謙信一万三千余人、景政三千五百人。謙信は、「山本道鬼が相伝うる必勝微妙の」馬場の陣備えを見渡して早々に軍を引揚げたという。「互に智勇の挙動なりと諸人之を感じる」(武田三代軍記)。
〔馬場美濃守信春〕
 この年八月甘利左衛門、馬場民部、内藤修理、原隼人、春日弾正の五士大将をもつて木曾を攻略し義昌を降す。
永禄二年、名を得る勇士七十騎を選び出させ馬場民部少輔景政に預けられる。景政手前の五十騎と合わせ百二十騎の士大将となる。そして晴信の一字を賜わり馬場美濃守信春と称した。部下の中には虎盛の子小幡弥三右衛門、金丸弥左衛門、鳴
牧伊勢守、平林藤右衛門、鵄(とび)大弐(根来法師)ら一騎当千のつわものがいた。
 翌永禄三年十月、信春は牧島城の城代となる。
 永禄四年(一五六一)九月十日、第四回川中島の戦の前日、信玄は馬場信春と飯富兵部虎昌を別々に呼んで意見を聞いた。その時兵部は「妻女山に籠る越軍は一万三千、味方は二万、このまま城を攻撃し、包囲すれば必ず勝てると確信する」と進言した。馬場信春は「数の上からは必ず勝てる戦いであるが、なるべく味方の犠牲を少くするために慎重な作戦をたてるべきである」と慎重論を提言した。そこで信玄は山本勘助を招き改めて意見を聞いた。勘助は「味方は二万の軍、これを二手に分け、一万二千の兵をもって妻女山を攻撃すれば越軍は勝敗に関わりなく千曲川を渡って撤退する。
そこで本隊は八幡原で待ち伏せ予備隊合わせ八千の兵をもって取り囲み、退路を断てば犠牲を少なくして勝つこと疑いなしと存じます」と進言した。いわゆる〝きつつき戦法″である。信玄はこれを採用した。妻女山攻撃隊の総指揮は高坂弾正、副将に馬場信春、飯富兵部をすえ騎馬軍団一万二千。八幡原に布陣する旗本隊には信繁・信廉兄弟と山県昌景、穴山信君、内藤修理など十二隊に分かれて八千の兵で固めた。
 馬場信春ら妻女山攻撃隊は深夜に出発、翌十日未明妻女山の麓に到着、朝霧にまぎれて妻女山へ一気に攻め込む手はずだった。しかし甲軍の裏をかいた謙信は、武田の攻撃隊が妻女山のふもとに到着する前に全域を抜け出して千曲川を渡り、武田の本陣をついて大激戦となった。妻女山攻撃隊は、越軍にだし抜かれたことを知って急いで八幡原に向った。
 卯の刻(午前六時) から始まった甲・越両軍の戦いは越軍の車懸かりの戦法に圧倒されて、信玄自身に危機が迫ったがやがて妻女山攻撃隊が駆けつけて形勢を挽回した。
甲軍は武田信繁、山本勘助、諸角豊後守などを失い大きな犠牲をこうむったが、午後四時ごろ謙信の退去命令で越軍は退去し、武田軍は勝ちどきの儀式をあげた。そのときの太刀持ちをしたのが馬場信春であったと「甲越川中島戦史」などで伝えている。このとき信春は四十七歳であった。
 その後上州松井田城、倉賀野城、武州松山城などを攻略し、永禄十二年六月に伊豆に侵攻し、十月には小田原城を包囲した。その帰路、追撃する北条軍と三増峠で戦い、馬場美濃などの奮戦によってこれを破る。
信玄の駿河進攻作戦は永禄十一年十二月にはじまり、十三日には今川氏其の居城(駿河城)に乱入した。信玄には城攻めにさいし、もう一つの目的があった。氏真の父義元は「伊勢物語」の原本を入手していたように書画・骨董・美術工芸品の蒐集家で知られていた。信玄もその道にかけては造詣が深かったので、その文化遺産を甲州に持ち帰り保存したいという下心があった。そこで城攻めにあたり「書画・骨董・美術品は何にもまして宝物だ、決して燃やさず全部奪い取れ」と命令した。
城攻めの先達をうけたまわった馬場美濃守は「たとえお屋形の命令とはいえ、敵の宝物を奪い取るなどもってのほか、野盗か貧欲な田舎武士のやることだ、後世物笑いのたねになる。構わぬ焼やしてしまえ」と曲輪内に大挙して踏み込み、片つ端から焼やしてしまった。これを聞いた信玄は苦笑し「さすが七歳年上の軍将じゃ、一理ある、甲斐の国主が奪つたとあれば末代まで傷がつくからなあ」とつぶやいたという。
 田中城は馬場信春の縄張りによったものである。信玄上洛に際しその座城として、清水の縄張りのごとく馬場信房に縄張り致さすべしといったという(武田三代軍記)。馬場美濃守は築城の名手でもあった。
 元亀三年(1572)十月、馬場、山県隊の甲軍徳川方の中根平左衛門正照、青木又四郎広次らが寵る二俣城(天竜市)を包囲した。この城は天然の要害で防備も固く容易に城内に踏み込めなかつた。馬場信春は、尋常な手段では城は落とせない、城で使っている天竜川の取り入れ口を破壊し城内を枯渇させる作戦にでた。水の手を止められた二俣城は忽ちにして混乱が起きた。それでも一カ月以上も堪えたがついに十二月十九日夜、城将中根正照は城門を開けて武田軍に降伏した。
 この時、浜松城にいた徳川家康は二俣城を援けようとして自ら数千の兵を率いて城に向ったが、武田の包囲陣の現状に、とても勝ち目はないとみて神増村まで来て滞陣していた。武田勝頼、馬場信春、山県昌景ら武田の部将は、「天下に旗を揚ぐるの手初めなれは信玄の大事是にすぐべからず」と(武田三代軍記)三方ケ原において徳川軍と戦う。家康破れて敗走する。武田軍は家康と鳥居元忠ら旗本衆のあとを追撃し、浜松城が間近に迫る犀ケ崖を下って城門近くまで追跡したが、家康はやっとの思いで城内へ逃げきつた。
家康は「武田随一の馬場美濃に切崩された」と、馬場美濃守の武勇を称讃している(武田三代軍記)
 翌元亀四年(天正元年・1573)二月、野田城を陥れるが、既に信玄の病重く、四月十二日信州駒場の宿陣で逝去する。時に馬場信春五十八歳、不死身の信春にも〝老″いが迫っていた。信春は部下の若者たちに次の戦陣五つの信条を語って聞かせた。
一つ 敵より味方のほうが勇ましく見える日は先を争って働くべし、味方が臆して見える日は独走して犬死するか、敵の術中にはまるか、抜けがけの科を負うことになる。
 二つ 場数を踏んだ味方の士を頼り忙する。その人と親しみ、その人を手本としてその人に劣らない働きをする。
 三つ 敵の胃の吹き返しがうつ向き、旗指しもの動かなければ剛勇と知るべし。逆に吹き返し仰向き、旗指しもの動くときは弱敵と思うべし。弱敵はためらわず突くべし。
 四つ 敵の穂先が上っている時は弱断と知るべし、穂先が下っている時は剛敵。心を緊めよ。長柄の槍そろう時は劣兵、長短不揃いの時は士卒合体、功名を遂げるなら不揃いの隊列をねらうべし。
 五つ 敵慌心盛んな時は、ためらうことなく一拍子に突きかかるべし。
 信春が示したこの五つの信条は、信玄の「敵を知り、己れを知らば百戦百勝」の遺訓にかなっている。信春が「一国太守の器量人」といわれたのもこの辺に由縁するのであろう。
 天正二年一月、勝頼岩村城付城一入城を陥れ、明知城にも迫り、二月七日これを抜く、信長なすところなく二十四日岐阜に帰る。この戦いで馬場美濃守は手勢を牧島城に備えおいたので僅か八百余人をもつて信長一万二千の兵に向った。この戦いの状況を武田三代記は「唯今打出でられしは当代天下の武将識田信長とこそ覚ゆれ、天下泰平の物初に信房が手並を見せ申せ申さん、という侭に一万余の大敵に八百余人を魚鱗に立て蛇籠の馬印を真先に押立て、少しも猶豫ふ気色なく真一文字に突懸れば信長取る物も取会敢ず捨鞭を打って引返さる」と記している。
 天正三年五月、武田軍は、山家三方衆奥平貞昌が兵五百をもって固める長篠城を包囲して攻めたが容易に城内に侵入することができなかった。しかし城内は極度に食糧不足を来し危機にひんした。鳥居強右衛門の豪気な働きによって識田・徳川の援軍が来着し、ここに識田・徳川連合軍と武田軍との長篠の合戦が始まった。
 武田勢は長篠城を挟み、勝頼は医王山に本陣を構え、山林をバックに六隊一万五千で「鶴翼」の陣を敷いて連合軍と相対した。勝頼は本陣で軍議を開いて合戦の方策を練った。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、高坂昌信らの重臣は「われに倍する敵、それに三重の柵を構えて籠城の体、これに向えば不利を招くは必定、無謀なることこの上なし。この度は甲州に帰って再検を図るよう」と進言した。このとき跡部勝資は「一戦も交えずに引き退けば武田の武威地に墜つ、決戦するに若(し)かず」とし、勝頼側近の軍師長坂長閑もこれに賛同した。勝頼もこの主戦論に同意したので老臣たちは軍議の席を蹴って「御旗・楯無鎧、ご照覧あれ」と退去した。
これらの重臣は、信春の陣地大通寺山に集まり「この合戦が武田家への最後になるだろう」と討死の覚悟で別れの水盃をした。
 五月十八日、徳川家康は長篠城西方設楽原高松山に、識田信長は極楽寺山に布陣、勝頼は医王寺山の本陣より寒狭川を渡ってこれと対陣した。徳川・識田連合軍は連吾川の上流に沿って二キロメートルにわたり三重に木柵を構え、人馬の突撃を避け、これに三千挺の堅固な鉄砲陣地を築いた。
 五月二十二日未明、鳶巣山で戦端が開かれ、武田軍と識田・徳川連合軍との大激戦が設楽ケ原で展開された。
馬場隊は二上山を駆け下りて右翼の佐久間信盛隊と激突、またたく間に佐久間隊を追い散らして敵方が築いた柵内に追い込んで引揚げた。さらに内藤・山県隊も徳川勢を敵方の柵内に追い込んで敗走させた。
馬場美濃守は、味方の先鋒隊は勝ったと見て使者を勝頼のもとへ送り「わが軍一度が、願わくば本陣はこれをもつて退去せられたし、あとはわれわれが必勝ち弓矢の面目既に立ったず守り抜きます」と進言した。ところが長坂長閑が傍にいて「勝って退くものはどこにもおらんぞ」と使者を叱りつけて帰した。数刻後、識田方の三千挺の鉄砲の威力が発揮され、武田軍は三段構えに撃ってくる敵の砲火を浴びて総崩れとなった。
 真田信綱、土屋昌次、内藤昌豊、原昌胤、山県昌景、甘利信康、武田信実、三枝守友など武田の重臣多く討死し、馬場美濃・土屋惣蔵らが旗本の兵とともに奮戦し、ようやく勝頼を退去せしめた。
馬場美濃守は屋形に二町計り引下り、敵兵の慕ふを待請け、勝頼の御無事を見届け、長篠の橋場にて取って返し、高き所に馬を乗上げ、是は六孫王経基の嫡孫摂津守頼光より四代の孫、源三位頼政の後練馬場美濃守信房という者なり、討って高名にせよと、如何にも尋常に断りけるに、その時敵兵十騎計り四方より鎗付くるに、終に刀に手をも懸けず、六十二歳にて討死(武田三代軍記)。
 長篠の小字「西」という部落を通り抜けて左に寒狭川の流れを見下ろす段丘上に「馬場美濃守信房殿戦忠死の碑」が建てられている。これは明治中期に建てられたもので、それ以前は素朴な自然石の碑で「美濃守さまの墓」といわれていたという。設楽原の一角新城市生沢谷の銭亀にも信房の墓がある。





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最終更新日  2021年11月10日 10時37分29秒
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